〔三文(さんもん)茶亭〕のお粂(くめ)(3)
お粂(くめ 36歳)が御厩(うまや)河岸の茶亭〕〔三文(さんもん)茶亭〕の女主人となり、むすめのお通(つう 10歳)が客へ給仕をするようになると、一躍、人気茶汲みむすめとなったのも予想外なことであった。
日本橋通3丁目箔屋町の紅・白粉問屋〔福田屋〕で、化粧(けわい)指南師をしているお勝(おかつ 36歳)と弟子のお乃舞(のぶ 18歳)が、5日にいちどずつ、只で髪を結ってくれることになった。
その日は、朝いちばんでやってくれるので、洗い髪を軽く巻いたお通が、六ッ半(午前7時)前には、正覚寺(框(かや)寺)門前町の新居を出、〔福田屋〕へ向かう。
まだ10歳なので、初々しい顔には化粧はしない。
工夫をこらした髪型と七色の元結、選ばれた鹿の子をそえ、柘植(つげ)製のお六櫛をさした楚々とした風情なのだが、それが好感を呼んだ。
もっとも、人気をあおったのは、〔耳より〕の紋次(もんじ 34歳)が〔化粧読みうり〕に、〔三文(さんもん)茶亭〕の質素な値段とお通の趣味のよさを、小さく載せた文章であった。
小さい記事ほど、読み手のこころをくすぐる。
(これは、自分だけしか目にしていないはず)と。
〔福田屋〕とすれば、7色元結や鹿の子が売れるのでほくほく。
ほかの元締衆があつかっている〔化粧読みうり〕のお披露目枠を:契約している白粉問屋にも同じ品がまわされているので、評判は上々というわけ。
いまでいう、流行づくりのキャンペーンであろうか。
「お通の人気は、かつての笠森お仙を抜いたようだな」
松造(まつぞう 26歳)に言った平蔵(へいぞう 32歳)も、わがむすめのことのように、やにさがっていた。
【参照】2010年2月17日[〔笠森〕おせん]
松造が、この殿のためなら命なんかいつでも投げだす---と、仲間の従者にいったらしい。
もっとも、とうのお通は、絵描きのモデルになることを、頑として承知しなかった。
「わたしは、〔三文茶亭〕が繁盛し、正覚寺門前町の家を買ったお金を稼ぐためにやっているのです。人気者になるためにやっているのではありません」
母親のこれまでの苦労をまじかに見て育ったからであろう、10歳のおんなの子とはおもえないほど、しっかりしていた。
たしかに新居は、平蔵が日信尼(にっしんに 36歳)に話し、とりあえず10両(160万円)をわたし、あとの15両は年に3両(48万円)ずつ5年々賦となっていた。
その10両も、〔箱根屋〕の権七(ごんしち 45歳)が〔化粧読みうり〕の版元料として届けてきたものであった。
〔三文茶亭〕は、平蔵の武家の算盤よりいくらか下まわったが、着実に月2両(32万円)に近い純益がでていたから、比丘尼への返済は2年とかからなかった。
その日信尼が、あるとき、托鉢の道すがらに立ちより、お粂に、
「この比丘尼には、人さまには言えない古傷がございます。長谷川さまのお情けで、この店をやらせていただきましたが、ずっとおすがりしていては、あの方のご出世に障(さわ)ります。み仏の慈悲の下の入るしかないと思いきわめ、剃髪しました。おんなとしては、身を斬られるよりもつろうございました---」
童女のような汚れのない顔に、むりにうかべた微笑があった。
さげ尼時代の有髪だった日信尼が、平蔵に抱かれ、長い黒髪を枕元でうねらせ、うわごとをもらすほどに乱れていた姿は、お粂には想像もできなかった。
【ちゅうすけのお断り】の法名をうっかりしていました。
日蓮宗の尼なので、日の字ではじまるのがふつうでしょう。
たとえば、亡父・宣雄(のぶお 享年55歳)は日晴。
宣雄の内妻で、平蔵の生母(妙 たえ 享年70歳)は日省。
平蔵宣以(のぶため 享年50歳)は日耀、久栄(ひさえ 享年65歳)は日進。
日信尼と改め、これまでの記述をすべて、日信尼、日俊老尼と訂正しました。
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