十手持ちの瀬兵衛からの留め書
安永7年(1778)が明けた。
長谷川平蔵宣以(のぶため)は、33歳となった。
内室・久栄(ひさえ)は、26歳。
嫡男・辰蔵(たつぞう)、9歳。
長女・初(はつ)、6歳。
次女・清(きよ)、3歳。
母・妙(たえ)、53歳。
恒例の年始まわりや柳営内の礼式を終えた6日、宇都宮城下の十手持ちの瀬兵衛(34歳)からの書状がとどいた。
【参照】2010年2月14日~[日光への旅] (3) (4)
2010年3月2日[竹節(ちくせつ)人参] (5)
2010年9月27日~[〔七ッ石(ななついし)〕の豊次] (3) (7)
昨秋、宇都宮へ1泊したとき、相応の聞きこみ料をわたし、5年前に宇都宮城下にあらわれた〔荒神(こうじん)〕の助太郎(すけたろう 55歳前後=当時)が借りていた戸祭(とまつり)村の家に、その後に住んだ者たちの人別のあるなし、人別のある者はその仔細、住まっていた歳月、引越した者の先がわかればその所を調べ、江戸のわが屋敷へ送ってくれと、頼んでおいた。
その探索の結果の知らせ状であった。
その家作は戸祭村の地主で物持ちの清右衛門(せいえもん 53歳)で、差配は黒兵衛(くろべえ 60歳)。
この黒兵衛にすこし惚(ぼ)けがはじまりかけており、4年前のことははっきり覚えておらず、その下で書役(しょやく)をつとめていた久四郎(きゅうしろう 64歳)を捜すのに手間どり、相すまなかった。
ようやく、高松村に隠居していることをつきとめ、黒兵衛のところの物置から留め書をとりだし、やっと聞き書きができた。
お尋ねの〔荒神〕の助太郎という名では借りられていず、京の俳諧師・高瀬(たかせ 55歳=当時)というのかそれであろう。
じつは、高瀬は、もう一軒、すこし離れた家を借りてい、そこには、40すぎの痩せたおんなと3歳ほどのおんなの子を住まわせていたが、おんなと童女は、高瀬とともに消えたらしいと。
(賀茂(かも)とお夏(なつ)だな)
次の借り手は、小椋竜之介(りゅうのすけ 40がらみ)の浪人で、高瀬が前ばらいをしていた家賃半年分だけ住まって消えた。
取り潰しになった播州の某藩の剣術師範とふれこんでいたようだが、行き先は不明。
浪人者のあとには城下の松ヶ峰で、手広く呉服・太物を商っている〔三条屋〕の通い一番番頭夫婦と子ども2人が借りてこんにちに及んでいる。
この夫婦の名は儀助(ぎすけ 45歳)・おすえ(40歳)で、亭主のほうは〔三条屋〕に38年勤めており、あやしいところはない。
女房のおすえも、15のときから〔三条屋〕で女中奉公をしてい、8年後に番頭に昇格した儀助と結ばれている。
(肝心なのは、剣術師範であったという浪人者・小椋竜之介が、どういう人別状をもっていたかだか、そこがぬかっておる。しっかりしているようでも、在方の十手持ちなんだな)
〔荒神(こうじん)〕の助太郎(すけたろ)が消えたのであれば、宇都宮との縁もこれまでか。
あとは、小頭の〔越畑(こえはた)〕の常八(つねはち 26歳)が、〔釜川(かまがわ)〕の元締・藤兵衛(とうべえ 41歳)のところへ戻ったら、宇都宮版〔化粧(けわい)読みうり〕をうまくまわしてくれることだ---とおもっていたら、意外なところから、声がかかってきた。
【参照】2010年9月28日[〔七ッ石(ななついし)〕の豊次] (4)
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