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2010年11月の記事

2010.11.30

おまさと又太郎(2)

おまさはんが、おれを初めて男にしてくれはった。こんなうれしいこと、初めてや」
「わたしも、又太郎(またたろう)さんの最初のおんなになれて、よかった。一生、忘れない」
互いに感激と快感の言葉をかわしあいながら、休んでは重なり、接合しては新しい高みに到達した。

雨戸の隙間から陽がさしこんできても、おまさ(22歳)は店へ帰ろうとしなかった。
これまでの男たちからは感得しなかった躰の芯からの愉悦とふるえが、そのたびに満ちてきたからである。

おまさのこころのこもった導きに素直にしたがう又太郎またたろう 21歳)の覚えも早く、疲れをしらなかった。
初めてとはおもえないほど、いくとおりもの姿態を試みた。
そのたびにおまさは、躰のあちこちに新しい歓喜をおぼえた。

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(歌麿『葉男婦舞喜』部分 イメージ)

昼近く、さすがに空腹をおぼえ、手ばやく飯を炊き、握り飯と干したひらき鯵(あじ)と香のものを摂ると、また横たわった。

髪はくずれ、櫛や簪かんざしは、箱枕の先に散らばっていた。

「おを家に入れ、小田原から呼よせたおふくろ(お きち 享年38歳)を別の住いに移した親父(おやじ 初代〔狐火(きつねび)〕をずいぶんと恨んだものだが、おまさとこのように、男とおんなとして、離れられないあいだがらになってみると、親父の気持ちもわからないでもなくなった」

参照】2008年6月2日[お静というおんな] () 

おまさは、又太郎(またたろう)の上にかぶさり、
「こんなことをいうと又太郎さんに嫌われるかもしれないけど、男とおんなのぐあいが、あつらえたように、ぴったりあうことって、100組に1組だっていいます。又太郎さんとのが、めったにない、その1組だったのです」
「親父とおさんもそうだったのかもな---」

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(栄泉『華の奥』 イメージ)

ちゅうすけ注】もし、平蔵(へいぞう 34歳)と里貴(りき 35歳)がこの会話を聞いたら、「ここに、もう1組がいるぞ」といったろう。


2日目の夕暮れであった。

A_200おまさが中休みのつもりで、汗まみれ、又太郎のものまみれの躰を風呂で清めていると、家の裏で足音がした。

そっとうかがうと、大津からの通い船でもどった〔瀬戸川せとがわ)〕の源七(げんしち 62歳)ではないか。
おまさは困った。

素裸のままで寝間から風呂場へきたから、身をかくすものがない。

しばらく、湯桶の中で思案したが、案が浮かぶはずもない。
濡れ手拭いを前にあて、そのまま、部屋へもどるしかなかった。

源七の前に、又太郎がうなだれていた。
素裸のおまさをじろりと見、
「なんという様(ざま)だ。着るもの着て、ここへ並べ」

交合のことは、さすがに口にしなかった。
無断で引きこみ先を留守にしたことを責められた。
そのとおりの手落ちなので、言いわけはできなかった。
ただ、おまさのほうから押しかけてきたと告げた。

掟てにしたがい、おまさは追放された。
一味の手前、情けをかけることはできない、と宣告した〔狐火きつねび)〕の勇五郎(ゆうごろう 58歳)は、そのあとでおまさを呼び、
又太郎を男の仲間入りをさせてくれたことは、ありがたくおもっている。しばらくは、これで暮らせ」
金包みをにぎらせた。
50両(800万円)包まれていた。

ちゅうすけ注】〔狐火〕の勇五郎が病没したのは、それから5年後であった。
死ぬ前に、名跡を又太郎に継がせた。
それを機(しお)に、〔瀬戸川〕の源七は、退(ひ)き金を100両(1600万円)もらって引退したが、そのときにおのわすれ形見・お(ひさ 12歳)を連れていたことは、又太郎のほか、一味の者はしらなかった。

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2010.11.29

おまさと又太郎

そのころ---とは、安永8年(1779)の師走近く、ということだが---。

一人前のおんなになっていた22歳のおまさは、京都にいた。
<乙畑おつばた)の源八(げんぱち 40代)に京都で仕事がしてみたいと懇願し、〔荒神こうじん)〕の助太郎(すけたろう 60歳)に紹介(つなぎ)状をもらい、半年ほどそこにいたが、許しがたいことがあり、かねて亡父・たずがね)〕の忠助(ちゅうすけ 享年53歳)が親しくしていた〔狐火きつねび)〕の勇五郎(ゆうごろう 58歳)を頼った。

許しがたいこととは、名古屋での大きな仕事(つとめ)の連絡(つなぎ)役として組んでいた男に、岡崎の盗人宿(ぬすっとやど)で、しびれ薬をしこんだ酒を呑まされ、すっ裸にむかれて犯された。
もちろん、おまさは処女(おとめ)ではなく、気のあった相手とは躰をあわせ、その快味も深めつつあった。
しかし、犯した相手は---唇まで白い顔の〔夜鴉(よがらす)〕の仙之助(せんのすけ 30前)といい、縁の下の湿った土のようなその体臭を嗅いだだけで反吐(へど)がでそうな男であったからである。

地元の京都ではめったに仕事(おつとめ)をしない〔狐火〕の作法にしたがい、おまさ、は、近江の彦根城下・本町の鼈甲(べっこう)簪(かんざし)の大店・〔京(みやこ)屋〕へ引きこみに入っていた。
勇五郎の息子の一人---又太郎またたろう 21歳)が連絡(つなぎ)役の見習いを勤めた。
2代目を鍛えあげる意味もあり、指南役には老練の〔瀬戸川せとがわ)〕の源七(げんしち 62歳)が、城下のはずれに盗人宿をもうけてあたった。

おまさは、まじめそうな青年・又太郎に好感をいだいた。
本町につづく城町にある稲荷社の境内片隅の楠(くす)の木の下がつなぎの待ちあわせ場所であった。
あるとき、約束の時間に遅れた又太郎が、汗をいっばにかきながらやってきた。
「汗をぬぐましょうね」
御手洗(みたらい)で冷やした手拭いで顔から首筋の汗をとってやり、その若い獣(けだもの)のような匂いにおもわず噎(む)せ、躰の芯がもえた。

で、つい、手が首から胸元まで入ってしまった。
青年はとまどったが、おまさの手拭いは、筋肉がついている乳のあたりを入念に行ききしていた。

おまささん---」
上ずった声であった。
「遊び場所のおんなには、平気で触らせているんでしょ?」
齢上のおんならしく、おまさが冷やかした。
「そんな---ありません」
「うそ、言って---」
「ほんとです」

手拭を冷やしなおし、
「双肌、脱ぎなさい。背中の汗を拭いてあげる」
いわれたとおりにした又太郎の匂いに、また噎せ、背中から抱きついていた。
「今夜、盗人宿には、だれが---?」
「〔瀬戸川〕の爺っつぁんは、京都です。ほかには誰もいません」
「じゃ、風呂をたてておいて---五ッ半(午後9時)には行くわ」

おまさは、偽の使いを仕立て、身請け人の野瀬村の伯母が急病だからと、あわただしく店をあとにし、途中の酒屋で大徳利を求め、盗人宿には五ッ(午後8時)よりかなり前に着いた。

恥ずかしがる又太郎に酒をすすめ、風呂にいっしょにつかり、聳立したものをもてあそび、自分の乳頭を含ませ、内股の小さな突起にやさしく触れさせ、教える喜悦をあじわった。

ほとんど眠ることはなかった。

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2010.11.28

川すじの元締衆(3)

千浪(ちなみ)と付きあうなら、あれが〔うさぎ人(にん)〕だということを心得ておくことだ」

腰丈の寝衣のときはいつもそうするように、わざと右膝を立て、茶碗酒で口をしめらせた里貴(りき 34歳)が訊いた

参照】[〔うさぎ人(にん)・小浪] () ( () () () () (

千浪の素性を、平蔵(へいぞう 33歳)が手短かに語って聞かせると、
「風説を集めておくことは、いずこでも大切なことなのですね」
「一ッ橋の茶寮〔貴志〕で里貴が、相良田沼主殿頭意次 おきつぐ 60歳 3万7000石)侯のために、民部卿一橋治済 はるさだ 28歳)さまにかかわる風評、動静を集めたようにな」

「私はただ、耳に入った言葉をおとどけしただけです。千浪さまは、自分の解釈をお加えになっています」
田沼侯は、生(なま)の風説のほうをお求めになっていたとおもうよ」
(てつ)さまは〔季四〕からのどんな風説をお望みですか?」
「風説は人についてくる。おれは、風説より人とのつながりを求めている。今宵のようなときに、人と人のあいだをとりもってくれれば、それでよい」

_100_2里貴は、唐(から)ノ国で2000年よりもっと前に書かれた『孫子』という本をのぞいたことがあるか?」
「いいえ---」

さしだされた寝着に腕をとおしながら、『孫子』の[謀攻篇]の一節を暗誦した。

---およそ、用兵の法は、国を全(まっと)うするを上となす。

「どういうことですか?」
里貴のその腰丈の寝衣だ」
「---え?」
「相手をその気にさせ、戦わずして、なびかせてしまう」
「なびくのは、隣りの寝間で---。すぐに、灯を移し、灯芯をあげます」
いそいそと隣室へ消えた。

里貴の透けるほどに白い肌が昂ぶり、淡い桜色に染まっていくのを見るのを平蔵が好んでいた。


潮が退(ひ)いていく感触を躰内でたしかめながら、指は互いの秘所をまさぐり、退きを遅らせようとしていた。

「〔音羽(おとわ)〕のお多美(たみ 37歳)さまが、こんなことをおっしゃいました。夫婦(めおと)になると寝間での所作もお義理になりがちだから、夫婦ではないあいたがらを長びかせるほうが、おんなは幸せかもしれないって---」
「お多美どのは、祇園の大きな料亭育ちで、生きることは楽しむことだと割りきっているお女性(ひと)だ。重右衛門(じゅうえもん 52歳)どのが惚れぬいて、東下(あづまくだ)りを懇請した」
「あの重右衛門さまが---想像もできません」
「この道だけは、外見では計れない」
「ほんに---。里貴さまにぞっこんですが、さまは---?」
「いま、身をもって証(あか)したばかりだ」
「はい。うれしゅうございました」
応えながら、お多美さまは「お多美どの」なのに、千浪さまのほうはどうして「千浪」なのだろうと里貴が考えていることなど、平蔵は推察もしなかった。

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2010.11.27

川すじの元締衆(2)

「婆ぁさんが風邪で寝こんでおりやして、嫁は2人目の産み月が近いもんで、艶けしですが倅れを連れてめえりやした」
愛宕下(あたごした)〕の伸蔵(しんぞう 48歳)が息子の伸太郎(しんたろう 28歳)をうながして酌をさせた。

「元締のところの船宿は---?」
「高輪の大木戸の手前までで48軒でやす。雪洞(ぼんぼり)を乗っけてくれておりやすのが103艙になりやした」
(1艙に4張の雪洞を点すとして10日間のお披露目代が1朱(1万円)---103艙が1ヶ月だと19両1分(300万円ちょっと)。ぼんぼりの張替えや筆書き料や灯油代、若い者(の)への扱い手間賃を支払っても、月に6両(100万円)は残る)
ざっと算用してみた平蔵(へいぞう 33歳)は、商人の時代だと感じいったが、口ではにこやかに、
「結構、けっこう」

ぱっとひらめいたので、呼びかけた。
「〔音羽(おとわ)〕の元締さん---」
重右衛門(じゅうえもん 52歳)をはじめ、一同が平蔵を注視した。

船雪洞だが、お披露目主(おひろめぬし)が替っても、いちいち張り替えることはない。雪洞には白紙を張っておき、お披露目主の屋号やお披露目文句は、より薄手の雁皮(がんぴ)紙に筆書きしたのを重ねれば、張替え賃が助かる。

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ちゅうすけ注】『鬼平犯科帳』巻7[泥鰌の和助始末]p167 新装版p174 に、熱海・今井半太夫製の雁皮紙が登場している。
また、巻13[熱海みやげの宝物]p7 新装版p7には、熱海の本陣として今井半太夫が紹介されている。

雁皮(がんぴ)紙はもとより、灯油もみんなでまとめて問屋から仕入れることにすれば、安くあがろう。

「長谷川さまの末は、勘定ご奉行でやすな」
品川宿をとり仕切っている〔馬場(ばんば)〕の与左次(よさじ 53歳)がはやした。

「いや。勘定ご奉行は最後のひとしぽりまで絞りとるのがお仕事。長谷川さまのお知恵は、町ご奉行のものでやしょう」
黒舟〕の権七(ごんしち 47歳)が訂正し、みんながうなずいた。

宴が終わったのは六ッ半(午後7時)すぎで、あっというまの1刻(とき)半(3時間)であった。
みんな話したりなげな面持ちで、それぞれが黒舟に乗った。
近くの店で食事をすませていた供の若い者(の)たちも、船着きでそれぞれの元締の乗り舟に手を貸した。

舟着きで最後の1艙jまで見送った権七(ごんしち 47歳)と〔黒舟〕根宿(ねやど)女将・お(きん 34歳)にあいさつを交わした里貴(りき 34歳)は、あとを女中たちにまかせ、いそいで帰り支度をした。


藤ノ棚へ帰ってみると、平蔵は袴を脱いで腕まくらをしていた。

「待っていてくだされば、いっしょに帰れましたのに---」
「そうすると、元締衆に見え見えになる---」
こうなっても、世間体を気にしている平蔵が、ちょっとうらめしかったが気をとりなし、平蔵がいる夜だけの
腰丈の寝衣に着替えた。

季節からいうと、涼しすぎようが、部屋はお(くら 58歳)婆やが暖かくしてくれていた。

しかし、平蔵は起きてこなかった。

「どうかなさいましたか?」
「いささか、呑みすぎたようだ」
「ご気分がすぐれませぬか?」
「水がほしい」

真水を飲んでいる横で、脱ぎすててあった袴を手早くたたみ、脇になおしながら、
「〔銀波楼〕の千浪(ちなみ 39歳)女将は、かしこい方ですね」
「なにか、いわれたのか?」
「そうではなくて、8歳も齢下の今助(いますけ 31歳)元締の手綱(たづな)を、それはみごとにおさばきになっていらっしゃいました」

千浪は、苦労人なのだ」
やっと里貴のはだけた胸元に両眸(りょうめ)を移した。


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2010.11.26

川すじの元締衆

「とにかく、組の者たちが元気づいたのがなによりです」
自分では平蔵とのなじみがもっとも長いと信じきっている〔木賊(とくさ)〕の今助(いますけ 31歳)が、〔音羽(おとわ)〕の重右衛門(じゅうえもん 52歳)があつさつをする前に嘆声を発してしまった。

参照】2008年10月8日~[〔尻毛(しりげ)〕の長右衛門] () (

船宿の数からいって、浅草から今戸・橋場までをシマにしている今助がいちばん地の利をえているといえるかもしれない。
船の雪洞(ぼんぼり)に、料亭や化粧品の名を入れる案を平蔵(へいぞう 33歳)が出し、その利権を〔黒舟〕の権七(ごんしち 46歳)があっさり元締衆に解放してしまったので、元締たちがお礼の席を設けたいといいだし、今宵の〔季四〕での集まりになった。

もっとも、〔化粧(けわい)読みうり〕のこともあるから、春秋2回は寄っている。
それで、縄張りのもめごとがぴたりとなくなった。
やはり、顔を合わせることで意思が通じやすくなったのである。

そのことにまっ先に気がついたのは、〔音羽〕の重右衛門と〔愛宕下(あたごした)〕の伸蔵(しんぞう 48歳)であった。
だれよりも平蔵に感謝していた。

参照】2009年6月29日~[〔般若(はんにゃ)〕の捨吉)] () (
2009年7月1日[〔愛宕下(あたごした)〕の伸蔵・元締


年2回のうち、1回は女房蓮れといいだしたのも、重右衛門の内儀・お多美(たみ 37歳)で、化粧指南師たちのおっ師匠(しょ)さんの一人でもあるから、内儀蓮も賛同した。
かわりに、その集まりには芸者衆は呼ばない---ということになった。

参照】2010年2:月4日~[元締たちの思惑] () () () () 

顔がそろったところで、重右衛門が、里貴(りき 34歳)を紹介した。
「こちらの女将には、ご老中・田沼主殿頭意次 おきつぐ 60歳 相良藩主)さまとご同郷で、一ッ橋にあった茶寮は、田沼さまのお声がかりでできたものと承っている。むろん、われっちのような半端な生業(なりわい)をしとる輩(やから)は出入できないほど、格式の高え茶寮だったそうな。

親御(ご)の介護のために紀州へお退(ひ)きになり、こんど、あらためてご出府なさると、田沼さまが、これからの繁華地は深川ゆえ、そこで人びとの風評を集めろと長谷川さまに仰せになり、新規のご開店となった。

みなの衆も、ご贔屓といっては恐れ多いが、せいぜい、お使いになるように。

この店の隣に、町駕篭〔箱根屋〕さんが船宿を開いて、雪洞にお披露目をいれる知恵を長谷川さまからさずけられた。権七(ごんしち 46歳)どんの度量で、その知恵をわれっちがわけていただけた。

木賊〕のが先刻もいったように、われっちは、船宿の舟いっぱいずつを組の若い連中(の)にわりあて、ぼんぽりのお披露目料の半分がその者たちの手にへえるようにしたので、連中も、せえだい、はげむようになったし、自然と知恵も働くようになった。

夜廻りの手札といい、〔化粧読みうり〕といい、こんどの雪洞といい、われっちはいうにいえねえほどの大きな知恵を長谷川さまからいただいとる。

今宵は、しっかりお礼を申し上げ、これからのお導きもよろしゅうにお願いいたします」

よほど、家で練習をつんできたのであろう、つまることなく述べ、乾杯となった。

いちばんに酌にきたのは、〔耳より〕の紋次(もんじ 35歳)であったが、その連れには平蔵がいささかあわてた。

参照】2010年1月8日~[府内板[化粧(けわい)読みうり] () () () (

両国橋・西詰広小路の並び茶屋をやっている美貌の女将・お(いく 32歳)であった。

参照】2010年9月2日[〔小浪(こなみ)〕のお信(のぶ)] (

「その節からこっち、お顔をお見せいただけないので、紋次兄(にい)さんにお願いしたのですよ」
向こうで聞き耳をたてている里貴にとどくほどの艶っぽい声でいった。

さすがに紋次が気がつき、
「あっしは、あいにくと女房持ちじゃねえもんで、頭数ぞろえのつもりで、つい---」
「ここの女将さん、おんながうらやましがるほど、色白なお方ですねえ。ひきかえ、江戸のおんなは地肌がねえ---」
紋次が袖をひき、〔於玉ヶ池(おたまがいけ)〕の伝六(でんろく 37歳)に酌をするようにと、席を立たせた。
西両国の元締・〔薬研堀(やげんぽり)〕の為右衛門(ためえもん 55歳)は、巨躯のせいでこのところの酒席は小頭の伝六に代理させていた。

里貴のほうをうかがうと、今助の女房・小浪(こなみ 39歳)となにやらおかしそうに話しこんでいた。
それにお多美が加わった。
上方弁で花を咲かせているのであろう、胸をなでおろした。

上野山下から広小路、神田側までをシマにしている〔般若(はんにゃ)〕の猪兵衛(ゐへえ 31歳)が、髪結いのお(しな 30歳)とともにもあいさつにきた。
気ままに育った女房・お(そめ 25歳)は、こういう席には出たがらないので、妾格のおがついてきていた。
2人は、茶店〔小浪〕で、同郷ということで知りあった。
般若〕の〔通り名 (呼び名ともいう)〕は、生地・武州秩父郡(ちちぶこおり)の村名であった(現・埼玉県秩父市般若)。

参照】2009年6月23日[〔銀波楼〕の今助] (

猪兵衛には、盟友・長野佐左衛門孝祖(たかのり 33歳 600俵 西丸書院番士)が孕ませた小間使い・お(ひで 享年19歳)の隠れ家のことで面倒をかけた。

参照】2010年4月3日[長野佐左衛門孝祖(たかのり)] (

その妻恋稲荷の奥のしもた家には、いまは、もう一人の盟友・浅野大学長貞(ながさだ 32歳 500石 本丸小姓組番士)の妹・於喜和(きわ 27歳)がおとなしく暮らしているはずであった。

参照】2010年5月17日~[浅野大学長貞(ながさだ)の憂鬱] () (2) () (4)

「ご両所、ややはまだかな?」
訊いてから、平蔵は悔やんだ。
里貴の耳にでもはいったら、悲しむとおもったからであった。
寝間では、いちど、できたら養子、養女の手くばりをするとささやいたことがあった。

その返事はしないで、猪兵衛がはたには聞こえないように、
浅野のお姫さまのことで、こんど、あらためまして---」

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2010.11.25

藤次郎の難事(7)

「母者が承知いたしますでしょうか?」
新八郎定前 さだとき 16歳 7000石)が不安げに、大伯父・菅沼主膳正虎常(とらつね 60歳 700石 小普請支配)に問いかけた。
自分ではまだ艶っぽく女ざかり---と自信たっぷりの於津弥(つや 40歳)であったから、平蔵(へいぞう 33歳)も同じ疑問をいだいていた。

「尋常の手段では、納得させられまいな」
虎常も、あっさり認めた。

新八郎が肩を落とすと、虎常平蔵を注視し、
相良侯田沼主殿頭意次 おきつぐ 60歳 老中兼側用人)から、主命であると申し渡していただく---」
「このような私ごとを、田沼さまへ---?」
「一人のおんなとその子の命がかかっておると、里貴(34歳)どのから訴えるのじゃ」
「あっ--」
夏目藤四郎信栄(のぶひさ 28歳 300俵)のところに嫁(い)かせておるむすめ・菸都(おと 25歳)から、里貴どのが紀州からお戻りと聞いておっての。はっ、ははは」
むすめ自慢をこめた、楽しげな笑い声であった。

参照】2009年12月22日~[夏目藤四郎信栄(のぶひさ)] () () (


新八郎を連れて〔季四〕で食事をし、里貴に頼ませると、あっさり承知し、
「お(きく)さまのほうがお齢上なのでございますね」
「はい。4歳---」
ちらっと平蔵に一瞥をくれ、笑みをたたえ、
「と申されますと、20歳(はたち)?」
「左様です」
「おんながいちばん美しく見える齢ごろでございます。きっと、可愛いお子さまをお産みなりましょう」

食事代は新大橋西詰の菅沼邸へまわしてくれといい、黒舟で平蔵を菊川橋まで送りながら、
「美しい方ですね。先生がうらやましい」
「おいおい。女将は田沼侯の---」
平蔵をさえぎり、
「拙の目にも、里貴さまが先生にぞっこんなのは見抜けます。もちろん、口がさけても他言はいたしませぬ」
「おれのことはいいが、里貴どのが田沼侯へ訴えることのほうを、墓場までもっていくように、な」
「肝に銘じました」


津弥は、将軍の内意ということで、全勝寺の塔司(とうじ)の全徳寺の庵室へこもったものの、半分狂気が見えており、座敷牢のような部屋で逝ったらしいが、明治に全徳寺が廃寺となったために、記録は残っていない。
全勝寺の住職・迪達師の手になる霊位簿の、

牧心院殿飛湧美津大姉 行年41歳

これが、それではないかともいわれていた。


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2010.11.24

藤次郎の難事(6)

<四谷杉>という言葉をご存じであろうか?
家康によって江戸の町が拓(ひ)らかれていたころ、全勝寺が開基したあたりは鬱蒼とした杉林であった。
その杉材で舟をつくったから、地名が舟(ふな)町。
杉材が<四谷杉>。
全勝寺の大門が<杉大門>。

明治36年12月25日号『風俗画報』に門前が描がかれ、塀ぞいに杉樹が林立している。

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(全勝寺杉大門 『風俗画報』 明治36年12月25日号 絵:山本松谷)

寺は、武州・岩槻(いわつき)染谷村の常泉寺の末。境内は6000余坪あった。

新八郎の父御(ご)の法事でしか参じたことはないが、あの寺に書籍(ほん)姫の墓があると聞き、そなたの母御・於津弥(つや 35歳=当時)どのに案内されて詣(もう)でた。3回忌であったから、5年前のことであった。そなたは11歳であったから---覚えてはおるまい」
「11歳のときから、長谷川先生について剣術の修行をはじめました」
「そうか。で、いまは---?」
「小野派一刀流、若松町の竹尾太吉先生の道場で、序2段をいただいております」
「結構、けっこう。末頼もしいことである。しっかり励め」

平蔵(へいぞう 33歳)に向かい、五代将軍・綱吉(つなよし)公の側用人を勤めていた牧野備後守貞長(さだなが 享年79歳 最終8万石 関宿藩主)侯は、綱吉公より一回り上の戌の仁であったが、公がまだ館林(25万石)侯のときから側近として仕えてい、養女に常子がいた、と説明した。

掲げた『風俗画報』は、こう記録している。

書籍(ほん)姫墓 四谷舟町六十七番地禅宗雄峰山全勝寺に在り。
徳川五代将軍綱吉公の妾牧野常子の墓なり。
常子は容姿艶麗にして、将軍の妾と為りしが、一朝頓悟するところありて、仏門に帰依し、当寺の住職某を師として、仏書を読み、終生の間に一切経を二度閲読し終え、同経を当寺に納め、経堂を建ててその傍らに自己の墓を築かしめたり。
書籍姫の名是より起る。

その墓に耳をあてると、姫が音読している声が聞こえると、世間でいい伝えたらしい。

ちゅうすけ注】墓は、昭和の初期に笠間へ移転している。
この牧野家は、関宿から日向の延岡藩へ転封、さらに笠間藩へ転じているからである。

寛政重修諸家譜』を検したが、備後守貞長侯の家譜には、それらしい姫はみあたらなかった。
しいて推測すると、

3女 実は小谷武左衛門守栄が女、おほせにより成貞が養女とし、戸田淡路守氏成に嫁し、後離婚す。

この人ではなかろうか。

ただし、淡路守氏成(うじしげ 享年=61歳)の個人譜には、離婚のことは記されていない。
氏成が1万石加俸されていることから勝手に類推をすると、お手つきの常子を側用人・貞長の養女とし、子を産まないまま、氏成に嫁がせたのではなかろうか。

徳川諸家系譜』の綱吉の項にも、常子の名はない。

しかし、いまの場合、牧野家と全勝寺のつながりが分かれば、常子はどうでもいい。
四谷区史』(昭和9年刊)にも、

寺に延宝四年(1676)三月鋳る所の梵鐘がある(中略)。備後守牧野成貞が其父越中守儀成の為に寄進したものである(中略)。これは成貞が妹(?)玉心院が全勝寺に葬ってある関係からと伝えられた。

「どうであろう、新八郎---母御に、全勝寺で授戒を受け、尼になってもらっては---?」

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2010.11.23

藤次郎の難事(5)

(難事---といえば、目の前の熟れきっておるお(かつ 37歳)も、難事の一つだ。
いつ、火の玉が弾(はじ)けるか、分かったものではない)
おんなを理屈で説得てきることは少ない。

袴の股にのばした手を、やさしくなぜ、
「お。聞いてくれ。いま、おれは、一人のおんなに惚れきっておる。もちろん、室の久栄(ひさえ 26歳)はなにより大切である。しかし、男というものは---」
「分かっているつもりです。ご内室さまをないがしろにはおもっておりません」
掌に力を入れてきたのを、入念ににぎり返し、
「惚れは、いつかは退(ひ)く」

「老婆になっても、(てつ)さまをお待ちしています」
「その一言、おれも、忘れはしない」
「うれしゅうございます」
腕が引かれた。

(尼寺のう---)
15年前、鎌倉の東慶寺へ入って前夫との縁切りを願った阿記(あき 22歳=当時)は、得度する寸前まで銕三郎と情を交わした。

参照】2008年2月3日~[与詩(よし)を迎えに] (40) (41

その結実を尼寺で産んだ。

京都で知りあった誠心院の有髪の貞妙尼(じょみょうに 25歳=当時)は、尼僧の性愛を禁じている戒律に反発し、還俗(げんぞく)を決心したために、嫉妬した僧たちになぶり殺された。

参照】2009年10月19日~[貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく) () () () () () () () () () (10


かつての盗みを恥じたかお(のぶ 36歳)は剃髪、平蔵(へいぞう 33歳)との交合を自ら断ち、仏道に徹することを告げた。

参照】2010年10月11日[剃髪した日信尼 ] 

3人とも自分が決めた生き方を選んだ。
(おれと親しくなるおんなは、男に頼らないでちゃんと生活(たつき)の立つ力を持っているようだ。
狐火きつねび)〕の勇五郎に囲われたお静(しず 18歳=当時)にしても、病気の父親をかかえ、愛宕下で茶汲み女をしていた)

平蔵は気がついていないが、相手のおんなたちが自立していたからこそ、向こうから銕三郎(てつさぶろう のちの平蔵)を誘(いざな)ったのである。


刺を通じておいた菅沼主膳正虎常 とらつね 64歳 700石)から、返事があった。
新八郎ともどもに参られよ」

2年前、将軍・家治(いえはる)の参詣を、日光奉行の一人としてつつがなくとり仕切った功で、この春から小普請支配という3000石高と格は高いが、さして忙しくはない職に就いた。
ふつうは、3~4000石の家禄の士が受ける名誉職で、700石の虎常は大抜擢であった。
足(たし)高が2300石ついている。

日光奉行の前、先手組頭で火盗改メをこなしていたとき、菩提寺・戒行寺であいさつをしたことから目をかけられていた。

参照】2009年3月10日~[菅沼摂津守虎常] () () () (
2010年6月13日[戒行寺での葬儀] 

新八郎とともに、との許しが出たので、御徒町の屋敷を訪れると、端正ながら古武士の風格をたたえた菅沼一門の者らしい風貌の虎常は、酒肴で迎えてくれた。

かしこまっている新八郎定前(さだとき 16歳)に代わり、平蔵が事態をかいつまんで話すと、
「16歳といえば、ご先祖の織部正定盈(さだみつ)さまは、初陣であった。そなたも、初陣よのう。はっははは」

ますますちぢんだ新八郎に、
「そなたのところの香華寺は、四谷舟町の全勝寺であったな?」
「左様でございます」
「たしか、曹洞宗---?」
「はい」
「そなたの母御(ご)の縁者に、常子(じょうし)という女性(にょしょう)がいたことを存じておるかの?」
「ふつつかで、存じおりませぬ」
書籍(ほん)と呼ばれたお人でな---」

ちゅうすけ注】この四谷舟町の全勝寺の杉大門の前で---『鬼平犯科帳』文庫巻4[おみね徳次郎]に、密偵として働くことになったおまさ(31歳)が、幼ななじみの女盗・おみね(27歳)と出会った、とある。

参照】2008430~[〔盗人酒屋〕の忠助] () () () () () (


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2010.11.22

藤次郎の難事(4)

「ご内室さまへ話したのか?」
新八郎(しんぱちろう 16歳)は首をふった。

「このままではすむまい。悪阻(つわり)がはじまれば、ご内室さまもお気がつかれ、問い詰められる」
「お(きく 20歳)を助けてやってください。母御(ご)は、嫉妬のあまり、おを殺しかねませぬ」
(7000石は、それで消える)

平蔵(へいぞう 33歳)は、自分が於津弥(つや 40歳)に教えたことの報いの重大さに、困惑した。
(ことが発覚(ばれ)れば、長谷川家も断絶かもしれない)

「おに会えるか?」
首を、またふり、
「四ッ目の別邸です」

菅沼一門で家禄がもっとも高いのはご当家だが、長老格としては、どなたであろうと訊いた。

新八郎が即座に名をあげた。
「先日、小普請支配職にお着きになられた御徒町の(主膳正虎常 とらつね 64歳 700石)大伯父ですが、さて、牧野家備後守貞通(さだみち 享年43歳 笠間藩主 8万石)を鼻の先にぶらさげている母者が聞く耳をもっているか、どうか」

参照】2010年4月6日~[菅沼家の於津弥(つや)]  () (

「ご内室の兄者におあたりになる、備後守 貞長 さだなが 48歳)さまは大坂(城代)だから、きょうの場には間にあわない---」
「おを、御徒町の大伯父に預かってもらうというのは?」
「一つの手立てではあるな。ま、もう2,3日、考えてみよう」


平蔵は、日本橋通南3丁目箔屋町の白粉問屋〔福田屋〕へ向いながら、
(男も33歳ともなれば、こういう難題にいくつも直面し、それを乗り越えて、まことの大人の男になっていくのであろうな)

〔福田屋〕で、化粧(けわい)指南師の仕事をしている、お(かつ 37歳)を呼び出した。

「あら、うあなぎの〔大坂屋〕ですか。不忍(しのばず)ノ池の傍の出合茶屋とまでは申しませんが、せめて船宿あたりへ呼びだしてくださると、いそいそと出向くものを---」
「おも、そういうことを口にする、37歳の大年増になったものよ」
「お正月がきたら、熟れきった38歳でございます」
「38歳は、おんなの厄だったかな?」
(てつ)さまに干されているこの数年間は、ずっと厄齢でございます」

冗談ごとではないのだ---と、新八郎とおとの難事を打ちあけ、
「於津弥に、あの道をおもいとどまらせる方法はないものか?」

「ご内室は、男を卒(お)えたあとで立役をお覚えになっていますから、いまさら、男をさし向けても、見向きもなさいませんでしょう」
「おは---?」
「わたしは、さまに岡惚れしておりましたから---うれしゅうございました。さまのお子種の暖かい精水が放たれたのを、躰の奥で受けとめたと感じただけで恍惚となりましたもの」

だから、その小間使いも、若の子種があそこの芯を打った感触で悟ったとき、離れまいと決心したはず、とおの心情を代弁した。

「考えを、於津弥にしぼってみてくれ。どうすれば、あの道をあきらめさせられるか?」
「ご内室といっても後家でしょ? 尼寺へ入れ、亡き殿の供養をさせるんですね」

こともなげにいい、串焼きの皿を横にどけて、平蔵の袴に手をかけた。

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2010.11.21

藤次郎の難事(3)

藤次郎(とうじろう)、いたな」
宿直明け日の服務を終えた七ッ(午後4時)過ぎの下城の途次、新大橋西詰の菅沼(7000石)邸である。

じつは、2年前に元服し、由緒ある新八郎(しんぱちろう)の名を相続、烏帽子名は定前(さだとき)を称していたが、2人きりのときの平蔵(へいぞう 33歳)は、親しみをこめ、ことさらに幼名で呼びかけていた。

参考】宮城谷昌光『風は山河より』(新潮文庫)

新八郎(16歳)は、大柄の躰を平蔵の前にかしこまった。
去年の春先から声変わりがはじまり、みるみる背丈が伸びた。
どうかすると、平蔵とどっこいどっこいであった。

鬚もうっすらと目につくようになっていたが、母親似のととのった面立ちには、童顔の面影がいくらかのこっている。

道場で竹尾先生が心配しておられるようだと告げると、
「いま、困っていて、剣のほうにも身が入らないのです」
正直に告白した。

「困る---?」
しばらく伏し目でいたが、少年時代の素直さがよみがえったか、
「放してくれないのです」
「しかし、藤次郎は16歳、18も齢が離れていては、傍目(はため)には、親子であろう」

大きくひらいた目で瞶(みつ)め、
「先生は、だれかとお間違えになっておられます」

こんどは、平蔵のほうがきょとんとなった。
佐和(さわ 34歳)ではないのか?」
「伯父貴のお下がりは抱きません」
(「伯父貴のお下がり」というが、父御(ご)のお下がりに初穂をつまれたくせに---)

気分を立て直し、
「相手は---?」
しばらく唇を咬み、返答を拒んだ。

「放してくれない---というが、金か?」
「ちがいます」
「相手がわからなければ、助けてやることができない」

新八郎には、初見(しょけん)がせまっている。
7000石の大身は、幕臣の中でもほんの数家しかない。
とうぜん、目が集まる。
身辺は清くしておかねばならない。

「家臣や知行地の領民のことも考えてみよ。実の兄とおもい、打ちあけよ」

それでも、しばらく沈黙していたが、
「母者こそ、家臣や領民のことに思いを及ぼさなければなりません」

平蔵は、つまった。
新八郎の母・於津弥の誘いをはぐらかすため、悦楽の別の道を教えたからであった。

参照】2010418~[お勝と於津弥] () (

「ご内室さま---?」

若松町の竹尾道場からの帰り、柳原堤で遣いにでていた小間使いのお(きく 20歳)に出会った。
道場で、半年後輩に3本のうちの1本をとられてむしゃくしゃしていたため、おを柳森稲荷の茶店で、問責した。

菅沼家のためにならぬと、責めました」
「おを---」
「そうしたら、おは、母者が放してくださらないと泣きました」

泣きやまないし、はた目にもつくので、泣きやむのを待とうと、稲荷の隣の出合宿に部屋をとった。
膝へ伏せてきた。
新八郎の下腹もたちまち応じ、抱いてしまった。

涙で化粧が落ちたので、暗くなるまで表を歩けないといわれれ、つい、長居になった。
(16歳という若さでは、たちまち、回復したろう)

新八郎はいわなかったが、於津弥の受け役をやっていたおが、初めて生(な)まの男を許したときのことは、立役(たちやく)のお(おりょう 享年33歳)を失ったお(かつ 31歳)と初めて合わせたときの言葉で推測がつく。

参照】2009年8月4日~[お勝、潜入] () (2) (3

いや、平蔵が思い出をたぐったのは、29歳のおとの最初のことであったろう。
銕三郎(てつさぶろう)は、23歳であった。

参照】2008年11月17日~[宣雄の同僚・先手組頭] () () (

その夜、藤次郎の寝所へ、寝衣のまま忍んできたのも、20歳のむすめとすれば、とうぜんのたしかめであった。

「ご内室さまと違い、藤次郎とでは、ややができる」
「寝所や出合茶屋で重ねているうちに、そのとおりになりました」
「いま、どれほどだ?」
「2ヶ月---とか」

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2010.11.20

藤次郎の難事(2)

奈良奉行に在職のまま逝った菅沼和泉守定亨(さだゆき 享年49歳 20250石)は、先手・弓の2番手組頭からその職へ転じていた。

弓の2番手組頭の実質の後任は、平蔵(へいぞう 33歳)の大伯父にあたる、本家の長谷川太郎兵衛正直(まさなお 70歳 1450石)だが、この年---安永7年'(1778)2月24日に持弓頭へ栄転していた。

太郎兵衛正直のあとがまの組頭は、小姓頭取から昇格した贄'(にえ)越前守正寿(まさとし 40歳 300石)であった。

ちゅうすけ注】この贄正寿は、平蔵宣以についで興味をもっている幕臣で、余命があれば、火盗改メとしての業績や堺奉行時代の市政を調べたいと思っている偉材である。
平蔵宣以---いわゆる鬼平が、弓の2番手の組頭および火盗改メとして最高の実績をあげえたのは、その10年前に5年間、贄'が火盗改メとして組下を鍛えておいたからともおもっているほどである。

もっとも、安永7年には、贄組頭はまだ火盗改メではなかったから、組は本城の蓮池、平川口、梅林坂、紅葉山下、坂下の5門の警備に交替であたっていた。

翌日、登城した平蔵は、顔なじみの同朋(どうぼう 茶坊主)に小遣いをつかませ、贄組の勤務日と受け持ちの門を調べさせた。

運よく、紅葉山下門を守っていると分かったので、筆頭与力・脇屋清吉(きよよし 50歳)あての書状に---かつて役宅につめておられた小石川吹上の菅沼邸のお顔見知りの用人なりだれかにお問いあわせいただきたいのだが、奈良へお連れになった佐和(さわ 34歳)と申す女性(にょしょう)が戻ってきているかどうか、人をやっておたしかめてただきたい---と認(したた)めてもたせた。

脇屋筆頭与力から、調べがついたと伝えてきた。
久しぶりでもあり、新しい組頭の風評もうがいたいからと、山下門で落ちあい、鍛冶橋下にもやりながら待っていた黒舟に乗りこんだ。

漕ぎ手に聞かれてもいいような馬鹿ばなしをつづけているうちに、〔季四〕の舟着きに寄せた。
出迎えた里貴(りき 34歳)が、
「お久しぶりでございます、脇屋さま。その節はおこころづかい、ありがとうございました」

姓を呼びかけてのあいさつに、脇屋与力は、まぶたをあげて大げさに喜んで見せた。
温顔でまぶたをいつもおろしているだけに、大げさな顔のつくりにしないと、そう見えないことをこころえているのだ。
「一ッ橋から、いつ、こちらへ?」

参照】2010年5月5日[筆頭与力・脇屋清助(きよよし)] () (

「両親を看(み)とるために、しばらく紀州へ帰っておりました。夏先きにこちらではじめさせていただきましたが、
お客さまのお名帳を前の店に置いたまま辞めてしまいましたので、ご案内をどちらさまへも差しあげることができず、たいへんに失礼いたしました」

部屋までのあいだに、手ぎわよく説明をするので、平蔵は、里貴の頭のよさ、女将としての客あしらいのたしかさをあらためて認識した。

盃の応酬がすむと、里貴が座をはずしたのを機に、
「前の前の組頭---菅沼さまのことですが、佐和という女性(にょしょう)は、ご不幸のあと、奈良から大塚吹上のお屋敷へ戻ったものの、お世継ということで、久世丹後守広民 ひろたみ 3000石 長崎奉行)さまのご3男で9歳の又吉(またきち)さまの養子ばなしがすすみはじめると、暇を願いでたとの、ご用人の話でした}

又吉さまは、9歳と申されましたか?」
「ご長女の婿---ということで」
「婿どの---?」
「ご継室のお子で、たしか14歳。ご先室さまとのあいだにはお子がありませんでした」

(14歳の許嫁(いいなづけ)といえば、もうほとんど、おんなといってよいが、婿どのが9歳とは---。いかなる初夜になるものか)

幼い夫妻の床入りを想像している自分を平蔵は叱るとともに、藤次郎(とうじろう 13歳=当時)と32歳(=当時)の佐和との接合の情景をよみがえらせた。

平蔵の胸のうちを読んだかのように、酌にあらわれていた里貴が、
「雛人形のように可愛らしいお組みあわせですこと」
(ちがうんだ。同じ菅沼でも、藤次郎はおれの剣の教え子で、弟のような者だ。又吉とは事情が異なる。ま、あとで、藤ノ棚の家では語ればよい)

話題を、贄組頭のやりようへ移した。

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2010.11.19

藤次郎の難事

竹尾道場から密かにお呼びだしがあり、剣師から、ちかごろ、若の稽古が上(うわ)のそらのようであるがと、こころあたりを訊かれました」

新大橋西詰の広小路に面して広い屋敷をかまえている7000石の大身・菅沼家の用人・森谷幸右衛門(こうえもん 40歳)が、思案にあまったといった面持ちで口を切った。

三ッ目通りの長谷川屋敷へ、下城の帰路、「お立ち寄りいただきたく---」との使いがきたのは3日前であった。

今朝、登城の途中に松造(まつぞう 27歳)に、夕べに伺うとの口上を伝えさせておいた。

表座敷へとおされると、上掲の愚痴であった。
菅沼家の若とは、継嗣・藤次郎(とうじろう 15歳)であった。
遺跡相続は7年前---安永元年(1772)3月10日、8歳のときにすんでいた。

その10日前に目黒・行人坂の大火事があったが、さいわいにも、菅沼家は類焼をまぬがれていた。

11歳のときに平蔵が剣の手ほどきをおこない、いまだにときどき、筋を矯(ただ)しにきていた。

「拙も公務多忙でしばらく稽古の立会いを省略しておったが、藤次郎は、本日は---?」
「学習塾から、まだ、お戻りではございませぬ」
「それなら、昼前に帰っておるはずだが---奥方さまは--?」
「2日前から四ッ目の下屋敷でご静養中で---」

津弥(つや 40歳)は、10年前に夫・定庸(さだつね 享年35歳)を逝かせていた。
(侍女・お(20歳)もいっしょですな---)
とは、訊くだけ野暮であった。

「そういえば、ご一門の奈良ご奉行・和泉守定亨 さだゆき)さまがお逝くなりになったような---」
「はい。公けには8月7日の逝去となっておりますが、じっさいは---」
「遠国奉行だった亡父のことで事情はわかっておる。実際に息をお引きとりになったのは---?」
「7月中旬のはじめとか---」
「うむ」

参照】2010721~[藤次郎の初体験] () () () () (
2010年5月20日[藤次郎の初恋

平蔵は、しばらくのあいだ、藤次郎の帰りを待ってみたが、らちがあかないので、森谷用人に、雑談のあいだに、なにげないふうをよそおい、かつて侍女頭をしていた佐和(さわ 34歳)の生家---通り旅籠町の乾物屋の屋号を訊きだした。

用人は、藤次郎佐和によって初体験をしたことには気づいているふうはなかった。

(おれの亡父は、男子の秘事として、父親といえども触れてならないこととしておくべきだと仰せられた。だから、おれも藤次郎の秘事は、実母・於津弥へも洩らさなかった)

参照】2007年7月15日[仮(かりそめ)の母・お芙沙(ふさ)] (
2007年8月3日~[銕三郎、脱皮] () () 


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2010.11.18

〔黒舟〕の女将・お艶(えん)(2)

「うちの旦那の好みも変わっていて、黒豆みたいな双眸(ひとみ)のおんなをみると、手放(てばな)せなくおなりなんですから---」
〔季四〕の隣りの船宿〔黒舟〕根宿(ねやど)店の女将・お(きん 34歳)が不服そうに愚痴た。

黒豆みたいな双眸のおんな---と侮蔑されているのは、船宿〔黒舟〕枝宿(えだやど)店の女将・お(えん 28歳)であろう。

1ヶ月ほど前に、権七(ごんしち 46歳)からひどい折檻をうけている現場に立ち会ってしまった。

梅雨のはしりの時季であったから、横川の水はつめたかったろうに、風邪も引かず、腹くだしもせずにすんだのは、根が丈夫な質(たち)に生まれついていたのであろう。

たしかに鼻筋もとおりととのった面高(おもだか)だし、躰つきも江戸の当時のおんなとしては上背があるほうで、権七とどっこいどっこいの背丈をしている。

目ぜんぶが黒目かとおもうほど、双眸(りょうめ)が黒々としていた。

ひきかえ、おは切れ長の絵師好みの美貌であった。
もっとも、里貴(りき 34歳)と同齢なので、笑うと目尻にすずめの足跡が深くでるようになっているのだが。

脊は、里貴よりも1寸(3cm)ほど低いが、それが愛嬌を強めていて、男客の評判もいい。
権七にいわせると、
「小柄なおんなほど音(ね)がいい」

最初は、名前の琴の弦のことかとおもっていたが、里貴に、
(てつ)さまともあろうお人が---」
笑われ、
「今宵、音(ね)を聞かせてあげます」

それで、権七のおんなの好みの多彩さを知らされた。

ふだんは動作も悠々としており、そういうところはつゆ感じさせないが、内儀のお須賀(すが 41歳)の外に、34歳と28歳の熟れた年増の手綱をたくみにさばいているのには、さすがの平蔵も、別の意味で感服していた。

しかし、権七にはそれなりの悩みがあるらしかった。
ぽろりと洩らしたところによると、若年増のお艶には、傷めつけられて高ぶる習癖があるようであった。
そのことは、10年後に、火盗改メになって拷問に立ち会ってはじめて納得した。

このことは、このブログの本筋ではないからこれ以上は触れないが、1ヶ月前のおの入水騒ぎも、もしかしたら、権七とおの情事のひとつであったかもしれない。

もちろん、おは、あの事件を知ってはいない。
ただ、里貴が、
「音(ね)をあげるまで責めてごらんなさいませ」
挑発が激しくなったのには、いささか辟易ぎみのところもないではなかった。

性は、ほんとうに微妙で、一様にはいかない。

平蔵銕三郎(てつさぶろう)と幼名を名乗って22歳だったとき、刺客から守ってやった女性(にょしょう)と躰が結ばれた。彼女は、12歳のむすめを育てている33歳の後家であった。
彼女より11歳下の銕三郎は、性愛の秘技を1年以上にわたった伝授されたが、被虐趣味は教科の中に入っていなかった。

参照】2008814~[〔橘屋〕のお仲]} () () () () () () (() (

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2010.11.17

〔黒舟〕の女将・お艶(えん)

「おんなという生きものは、ちょっと目を離すと、着るものに銭(ぜに)を捨てておりやす」
船宿〔黒舟〕の主(あるじ)・権七(ごんしち 47歳)がぼやいたのは、深川・冬木町寺裏の茶寮〔季四〕隣りの〔黒舟〕においてではなく、横川に架かる黒船橋の駕篭〔箱根屋〕のすぐ近くにひらいた〔黒舟〕枝宿(えだやど)のほうである。

〔季四〕の隣りの船宿は、枝宿に対して根宿(ねやど)と呼ばせていた。

新しいから新宿(にいやど)としては、最初の店が古宿(ふるやど)ということになってしまうし、支宿(わきやど)では意気があがるまい。

本宿(ほんやど)とつけると、いい気になりやすく、上からものを言いがちになる。

_200それはともかく、いま、源七平蔵(へいぞう 33歳)がいるのは、黒船橋に近い枝宿の舟着きの杭につながれ、障子戸を立てまわした屋根船の中であった。
(『童謡(わらべうた)妙々車』 写し:ちゅうすけ)

2人のほかに、もう一人いた。
若年増であった。
上半身は裸、両腕を後手で縛られ、下腹を覆った赤湯文字1枚だけ。
髷はすっかり解けている。

〔黒舟〕枝宿をまかされているお(えん 28歳)であった。

源七どん、おどのがなにをしたかはしらないが、いい加減のところで許してやったら---」
が助けをもとめる瞳(め)で平蔵を見上げた。

「せっかくの長谷川さまのお言葉でも、こればっかりは許すわけにはいきやせん。水漬けにし、横川の泥水をたっぷりと呑ませ、性根をたたきなおしてやります」
半死半生の責めを想像したおは、はやくも歯の根があわないほど、ぶるえはじめた。
そうなると、色気自慢のおの魅力が消えた。

源七によると、任されている〔黒船〕枝宿の売り上げから、自分の夏衣を1枚求めたのだと。

とすれば、3年も前から躰をあわせてきており、情婦(いろ)として女将をまかされた---夏衣の1枚ぐらい儲けの中から買ったとしても、どうせ店着なんだからという気があったのであろう。

「さあ、立て」
普段は温厚な店主をよそおっている権七だが、根は箱根の荷運び雲助の頭格の一人として貫禄を誇っていただけに、凄みがきく。

「ひぇっー」
背中をつつかれたおが悲鳴のようなものをあげ、
「旦那さま。お許しください。もう、2度といたしません」

かまわず、背中にまわっていた綱のむすび目をつかんで引き立て、川側の障子をあけ、おを突き落とした。

平蔵もすぐに立ち、権七の手から綱をもぎとってひきあげ、ぐったりしているおを船の中にころがせ、すばやく袴を脱ぎながら、
権七どん。手桶をここへ---」

うつ伏せのおの胃を自分の太腿に載せるや、背中を圧す。
が手桶に川水を吐いた。
さらに圧す。
少なくなった。

あお向けに寝かし、
「権七どん。真水と手拭い--」

権七がととのえて船へ戻ってきたときには、湯文字も脱がされ、まっぱだかであった。
真水をふくませてた手拭で顔から胸へ拭いてやった。

「下腹と尻は権七どんの手でな。内股のあたりは、とりわけ入念に。水を替えてくる」
平蔵は湯文字を丸め、手桶をもってでていった。

戻ってときには、権七に抱きついて甘えていた。
洗ってきた湯文字をひろげておの腰へかけてやり、
権七どん。用件は明日だ」

平蔵が袴に足をとおしているのをいいことに、権七が目をぬぐっていた。


〔季四〕へ里貴を迎えに行き、連れだって藤ノ棚の家でくつろぐと、
「妙な晩だ、袴を脱ぐのが2度目だ」
「あら。どこの美人年増のところでお脱ぎになりましたの?」
「脱ぎおわってから、どのようなもてなしぶりであったか、聞かせてやる」
「興味しんしん---」

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2010.11.16

茶寮〔季四〕の店開き(6)

〔季四〕は、里貴(りき 34歳)が江戸へ帰ってきて10日後に開店し、田沼主殿守意次 おきつぐ 60歳)侯のところの侍女・佳慈(かじ 28,9歳)が最初の客となった。

里貴は丁重にもてなし、深川は水が悪いので調理用はすべて買い水を使っていると、それとなく水道の増設を乞うた。
「それにしては、風味が江戸と変わりませぬ」
大川の右岸をうっかり「江戸」と呼んでしまい、本所育ちであることをうがわせてしまったのはご愛嬌---と、あとで里貴が寝所で平蔵(へいぞう 33歳)にささやいた。

音羽(おとわ)〕の重右衛門(じゅうえもん 52歳)が内儀・お多美(たみ 37歳)とともに多額の祝い金を包んで現れ、元締衆の次の集まりを約してくれた。

参照】2010627~[草加屋〕の女中頭助役(すけやく)・お粂] () 
) (

〔季四〕の賑わいもだが、大いにいそがしかったのは、隣りの船宿〔黒舟〕であった。

すべての舟縁(ふなべり)を黒塗りにしていたので、ひと目で権七(ごんしち)のところの舟とわかり、その往来が披露目(ひろめ せんでん)になった。

暮れてから〔季四〕から客が乗った舟に、〔茶寮〔季四〕〕の名入り、片側に〔冬木町寺裏〕と達筆した雪洞(ほんぼり)を灯(とも)したのも話題を呼び、店名入り雪洞を飾ることが流行した。
権七は、その利権を川沿いの元締衆にゆずり、またも顔を売った。

開店から1ヶ月ほどたち、義理がらみの祝儀客が一段落したころ、平蔵は、与(くみ 組)頭・牟礼(むれい)郷右衛門勝孟(かつたけ 58歳 800俵)を招待した。

はじめ、深川か、と帰りの足を心配した牟礼与頭であったが、鍛冶橋下まで黒舟が迎えにきていること、帰路も牛込門下まだ送ると口説かれ、しぶしぶながら承知したが、〔季四〕へ着き、出迎えた女将が里貴とわかると一変、部屋までにぎった手を放さなかった。
里貴も、父親への杖のように情愛をこめていた。

長谷川。いつからだ?」
席に着くなり、牟礼与頭が頬をほころばせながら咎めた。
「7日ばかり前に雪洞に〔茶寮〔季四〕〕と灯(とも)した舟を見かけ、その方に通じておる知己にたしかめました。したが、今宵まで席がふさがっておりまして---」

参照】2010年2月1日~[与頭・牟礼(むれい)郷右衛門勝孟(かつたけ)] () () (

里貴が酒を捧げて入ってくると、詮索はそっちのけとなり、
「報(し)らせてくれば、もっと早く訪(おとな)ったものを---」
嬉しそうな口ぶりで愚痴た。

形ばかりに盃を受け、
「母御(ご)も、父(てて)御もお眠りにつかれたそうで、愁傷であった」
盃を里貴へ返し、
「これからは、贔屓にさせてもらう---とはいえ、薄禄の直参ゆえ、口ほどのこともできぬが---」

「深川舌代でございます」
「羽織芸者も呼べるのかな?」
「いえ。一ッ橋同様、茶寮でございます」
「重畳、重畳。長谷川などと違い、もう、色気より眠気(ねむけ)での」
「ご冗談でございましょう」
「なに、鑓は錆びっぱなし。一戦をいどまれたら逃げの一手のみ。三方ヶ原の大権現さまよ。ふっ、ふふふ」
歯が数本欠けており、笑うときにも口をあけないようにしていた。

突然、三方ヶ原の負け戦さがでたので、平蔵は、牟礼家の祖が今川から織田右府を経て幕臣になったことをおもいだした。
長谷川の祖は、今川方から徳川へ走り、三方ヶ原で戦死した。

参照】2008年11月30日[三方ヶ原の長谷川紀伊(きの)守正長

できる幕臣は、上役、同僚、下役の先祖と家柄を覚えこむほど牽きが多くなった。


〔季四〕の仕舞いは六ッ半(午後7時)から五ッ(8時)前であった。
当時の江戸武士の夕餉は、たいてい七ッ半(5時)前ときまっていた。
商店も六ッ(6時)には大戸を降ろしていた。

〔季四〕から長谷川家の屋敷までは7、8丁(1km弱)であったから、一ッ橋のときの5分の1しかかからなかった。
ときによっては、権七が亀久橋下に黒舟をもやっておいてくれもした。
それだけ、里貴とのときが永くすごせたともいえた。
といっても、いっしょにすごせたのは、月に4度ほどであったが。

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2010.11.15

茶寮〔季四〕の店開き(5)

「船荷でだしておいた衣類やらなにやらが、先刻、とどきまして、このありさまです」
部屋いっぱいに、着物やら小物がちらかっていた。

「召し物が整わないことには、お役宅へご挨拶にもあがれませんから---」
役宅とは、神田橋門内の老中・田沼主殿頭意次 おきつぐ 60歳 相良藩主 3万7000石)のことである。

「早朝から、店の下検分で疲れておろうが、男手では用がたるまい」
平蔵(へいぞう 33歳)が笑うと、箪笥が、まだ、浜町の納屋からは来ていないので、柳行李を2つばかり、頼みに行くところだと言った。

松造(まつぞう 27歳)が気をきかせ、下働きのお(くら 58歳)婆やに店のあり場所を質(ただ)した。
そのまま、善太(ぜんた 8歳)のところへ帰ってよいというと、察して、出ていった。

も、夕餉(ゆうげ)の支度はこれとあれと言いおき、行水の湯も沸かしたから---と帰ってしまった。

里貴(りき 34歳)は、着いた荷の中から藍染めの浴衣を選んで着替えた。
「おいおい。道中の宿々で、まさか、あの尻切れですましていたのではなかろうな」
「そうだったとしたら、なんとおっしゃいます---?」
「眼福した奴の両目をくりぬいてやる」
「お生憎さま。ちゃんと足首までの寝衣でした」
冗談のやりとりが、里貴はうれしくて仕方がない。
この2年間、紀州の貴志村の生家で、病床の親とは冗談一つ交わせなかった。

いつものとおりに茶碗酒になった。
がつくった一人分の菜を2人でつついた。

「〔季四(きし)〕の按配は、どうであった?」
「お(くめ)さんの差配は、それはそれはみごとなもので、一ッ橋の〔貴志〕へ戻ったようでした」
「それは重畳---」

「なにか、お考えが---?」
「そうではない。おを〔草加屋〕から退(ひ)かせておいてよかった」
「〔貴志〕がお店を閉めたあとの面倒も見てくださったのだそうですね。ありがとうございます。わたしがあわただしく帰郷してしまったものですから---」
「いや。虫が報せたのであろう、おがあのまま〔草加屋〕にいたら、〔季四〕は商売仇だ」
「女中頭に引きぬきましたでしょう」
「それは困る。あれの〔草加屋〕づとめには、両国橋西の広小路一帯の香具師の元締がからんでいる。引きぬかれたら、黙ってはいなかったろう」
「怖いところだったのですね」
里貴は内心、平蔵の知己の幅ひろさにおどろいていた。

「そういえば、〔季四〕の隣りに、権七(ごんしち)さんが船宿をお出しになるのをご存じでしたか?」
「そんな手配までしてくれていたのか」
(てつ)さまに、これからは舟の時代だと教えられたとか--」
田沼侯の受けうりだが---。しかし、することが速いな」

「船宿は女将の愛想と機転でもっているようなものだが、そういう女将のこころあたりがあるのかな」
「わたしでは無理ですね?」
「おいおい。〔季四〕の女将がなにをいいだすやら---」

「行水、なさいますか?」
「いや。きょうは、このまま帰る」
「こんどは、いつ?」
「明日は宿直(とのい)だから---」
「では、明後日の昼間、おを帰しておきます」

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2010.11.14

茶寮〔季四〕の店開き(4)

寝間の行灯の芯をすこしあげて明るくする所作も忘れていなかった。

「その前に、決めておきたいことがある」
「はい---」
里貴(りき 34歳)の手が、すでにのびてきていた。

平蔵(へいぞう 33歳)も、硬くなっている小さな乳頭をつまみながら、
「店の名前だ。〔貴志〕でもいいとおもったが、ご老中・田沼主殿頭意次 おきつぐ 60歳 相良藩主)さまへのはぱかりもある---」
「はばかり---?」

〔貴志〕の用金がすべて田沼侯からでたことを思いださせた。
「それで、おなじ音(おん)だが、春夏秋冬の四季節、来客が絶えないように、〔季四〕---季節、四つ」
「〔四季〕でなく---?」
「〔四季〕ではあたりまえすぎ、客が女将に店名の由来を訊かない」
「あ、会話の糸口---」
「そうだ」
「すてき、です」
「気に入ってくれたか?」
「銕(てつ)さまの案ですもの」

いうなり上に乗り、腰をゆすった。
「少し、痩せたか?」
「年増痩せ--?」

「酒は古酒、おんなは年増---と、世間ではいう」
「初めて聞きました」
「味のことだ」

「味見してください」
「見るまでもなく、美味なことは承知しておる」
「お忘れになったのではないかと、気が気ではありませんでした」

舌がからまり、まさぐりあう。
そのあいだも、里貴の腰は微妙にうごいていた。

そのままずりさがり、平蔵のものを舌でなめはじめた。
腕をのばし、躰をまわし、芝生をわけ、舌を触れた。

「蜘蛛が巣でも張っておるのではないかと心配しておったが---」
「指で、ときどき、巣を払っていました」
「その指めに、もう、ご用済みだといってやれ。この指が代わったとな」
「むーん」

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2010.11.13

茶寮〔季四〕の店開き(3)

「これで、わたしたちの仲、(てつ)さまの親しい人たちのあいだでは、おおっぴらになりました」
腰丈の寝衣を羽織り、大きくひらいた衿元から右の乳房がこぼれ出、腰から下をあらわにしたまま、片膝(ひざ)立てで、まん前に座った里貴(りき 34歳)は、うれしそうに微笑んだ。

三河町の御宿(みしゃく)稲荷脇の家では、決して口にしなかった台詞(せりふ)であった。
耐えていたのであろうし、あいだがらを秘しておかなければならないこともこころえていたのであろう。

(可愛い奴---)
里貴のこころねをおもいやった平蔵(へいぞう 33歳)であった。
大徳利から片口へ移した酒を、平蔵の茶碗へ注ぐとき、片手をそえた。
一刻(いっとき)も早く、平蔵の躰に触れたい気持ちがそうさせた。

茶碗酒を酌(く)みかわした。
「お店がひらいたら、盃をもってかえっておきます」
「これのほうが、おれたちふうで、よい」

里貴の内股から視線をはずし、
「ふう---といえば、貴志村ふうのすわり方が、すっかり戻ってしまったな」
片膝立てを冷やかした。

「お嫌(いや)ですか?」
「おれには、なによりの眼福だが、ほかの男の前ではやってもらいたくない」
「ほかの殿方の前では、貞淑ふうな大和おんなと、決めております」

「貴志村といえば、狭い土地(ところ)ですから、年増の後家の里帰りということで、好奇の目が多く、家の中でも裸になれませんでした」
「つまり、鎧(よろい)を着つづけていたわけだ。窮屈であったろう」
「この寝着を、銕さまとのときに、こうして羽織ることができるのが、うれしいのです」
「ここは江戸だ。里貴の新しい家だ---」

「お話ししていただきたいことが山ほどありますが、湯が冷めます。行水を---」

里貴が布団をのべているあいだに、平蔵は着ているものを脱いだ。

「箱枕のほかに、もう一つ、男ものの枕が---」
権七(ごんしち 46歳)どんがお須賀(すが 41歳)にいいつけたのであろう」
「発覚(ば)れていたのですね」
「相方(あいかた)がおれかどうかは、ともかく---」
「意地悪ッ」
里貴平蔵の脊をぶった。
そうやって甘えられのが、いかにもうれしいのだ。

「銕さまのお寝着まで---」
ひろげて見せた。

踏み板の簀子(すのこ)も、2年前の家のものであった。

里貴は長旅であった。先にほこりを落とすがよい」
たらいの中で、里貴はすでに興奮し、肌のところどころを薄い桜色に上気させ、双眸(りょうめ)で、暮れかけた狭い庭で裸体で簀子にしゃがんでいる平蔵の曈(ひとみ)を見入った。

参照】2010年4月5日[里貴の行水

盥(たらい)の湯に、股の茂みが淡い藻のようにゆれているのも、里貴は気づかぬふうであった。

_200「どうした---?」
「変なのです」
「なにが---?」
「今日、初めての家なのに、ずっと前から、さまとこうしていたみたい」
「そう、おもってくれるだけでも、里貴を迎えた甲斐があった」

その言葉を待ってでもいたみたいに里貴は立ちあがり、簀子の平蔵に抱きつき、腰を引き寄せ、片足をあげてからませた。
(国貞『仇討湯尾峠孫杓子』 写し:ちゅうすけ)

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2010.11.12

茶寮〔季四〕の店開き(2)

口々に道中の苦労をいたわりながら寿司をつまんだが、お(くら 58歳)婆やが淹(い)れた湯呑み茶碗に目をとめた里貴(りき 34歳)が、
「あら---?」
三河町の御宿(みしゃく)稲荷脇の家で使っていたものであった。

田沼家の浜町の下屋敷の納屋から、茶寮〔貴志〕の什器・厨房器具類とともに、稲荷脇の家の荷も出てきたのであった。

「お布団は、黴(かび)くさくなっていたので捨てさせていただきました」
権七(ごんしち 46歳)の女房お須賀が世慣れた口調で言いわけする。

「女将さん。板さんが、新しいお店の板場さんを見立ててくれています。明日にはごあいさつに参りましょう」
(くめ 37歳)が元女中頭の気ばたらきを示した。

「お店のほうは、明日のお昼前にでもご案内いたします。ここから、ほんの3丁ほどのところです」
権七親方さん。お店、朝六ッ(午前6時)なら、わたしも参れます」
「女将さんがお疲れでなければ、それで---」
「大丈夫です。なにからなにまで、すっかりととのえていただき、ありがとうございます。これからも、いろいろとお教えください」

須賀が訊いた。
「銭湯になさいますか、それとも、行水?」
「行水のたらいまでも---?」
「桶屋に見せたら、5日前から水をはってなじませておけば、湯漏れはないとのことでした。裏庭は塀で囲いました。出歯亀のご心配はもありません」

「では、きょうは行水で汗をながさせていただきます」
里貴のその言葉をしおに、平蔵(へいぞう 33歳)とお婆やをのこして引きあげた。

婆やが竈(かまど)から手桶に湯を移し、行水の準備をはじめた。
「女将さん。このあたりは井戸水がよくねえので、川向こうからの上水道の水か、売り水を買うだよ」
「わかったわ」

寿司の平桶を表へ出したおは、水屋と押入れの説明をし、帰っていった。

里貴は、手荷物をほどき、;例の腰丈の寝衣を取り出した。
「これ、2年ぶりに着ます。行水、ごいっしょにいかがですか?」
「む。戸に芯張り棒をかってくる」

平蔵が戻ってくると、酒がでていた。

参考】2010年4月5日[お里貴の行水


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2010.11.11

茶寮〔季四〕の店開き

里貴(りき 34歳)の新しい店は、深川・冬木町寺裏に決まった。
町名になっている江戸の材木商〔冬木屋〕の寮に手を加えた。

A_360_2

(深川・油堀支流ぞいの冬木町寺裏 青○=茶〔季四〕の位置)

〔冬木屋〕は、上野(こうずけ)国・中山道の板鼻(いたはな)宿から江戸へ出、木曾の材木を商って財をなした豪商として知られている。

寮の買い手が、老中・田沼意次(おきつぐ 60歳)の縁者とわかると、上(うわ)ものの値を法外な20両(320万円)に下げ、手をうった。
もちろん、その金子は当座の運転資金の20両とともに、田沼侯からでた。
地代は、冬木屋へ年々払う。

茶寮への模様替えにもその半分ほどの費(つい)えがかかったが、それは、平蔵(へいぞう 33歳)が〔箱根屋〕の権七(ごんしち 46歳)から、〔化粧(けわい)読みうり〕の板元料の前借りですませた。

客部屋々々の模様は、かつて〔貴志〕の女中頭をしていたお(くめ 38歳)の記憶にたよった。
ちなみにいまのおは、御厩の渡しの舟着き前の〔三文(さんもん)茶亭〕のれっきとした女将であった。

什器類は、〔貴志〕時代のものが荷造りしたまま、浜町の田沼家の下屋敷の納屋にしまわれていたもののほとんどが使用に耐えた。

〔冬木屋〕の寮の話をもちこんだのは、深川・〔丸太橋(まるたばし)〕の元締代の雄太(ゆうた 45歳)であった。

あとは里貴当人が入府し、これも権七が用意した、亀久橋北詰、俗称・藤ノ棚のしもうた家に入居するばかりであった。

それともう一つ、里貴を待っていたのは茶寮の店名---〔季四(きし)〕。
〔季四(きし)〕はもちろん、里貴の生地---紀州の渡来人村・貴志のもじりでもあり、一ッ橋北にあった〔貴志〕からの連想でもあった。

安永7年(1778)3月(陰暦)末、紀州から、里貴がやってきた。
20ヶ日を越えた旅であった。
一人ではこころもとないというので、紀州侯の参府の行列の末尾にしたがい、宿だけは別にとった。

その日、おは店を半日休み、松造(まつぞう 27歳)、お(つう 10歳)、善太(ぜんた 8歳)を連れ、平蔵とともに札ノ辻まで出迎えた。

陽笠、手脚絆での道中ながら、白い透きとおらんばかりの里貴の顔はそれでも陽にやけて赤くなっていた。
看護づかれでできた目じりの小皺,も、隠せなかった。

札ノ辻で紀州侯の行列と別れ、一同は〔愛宕下(あたごした)〕の元締、新網北町の伸蔵(しんぞう 48歳)の家で一休みさせてもらい、金杉橋の下で船を仕立てた。

永代橋のたもとでお善太を降ろし、里貴平蔵、それに松造とおは亀久橋まで船であった。

藤ノ棚のしもた屋には、源七と女房・お須賀(すが 41歳)が、寿司の出前をとって待っていた。

A_360
(仙台堀・亀久橋北詰の俗にいう、藤ノ棚)


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2010.11.10

里貴(りき)からの音信(ふみ)(4)

「堺の佐野備後(守 政親 まさちか 47歳 1200石)からの継(つぎ)飛脚便がとどいた」
田沼主殿頭意次 おきつぐ 60歳 相良藩主 3万7000石)の木挽町の中屋敷である。

2年前にも会ったことのある美貌の召使い・佳慈(かじ 28,9歳)が、目元にかすかに微笑をうかべながら、平蔵(へいぞう 33歳)に酌をした。

里貴に薬料を送ってやってくれたこと、主殿(とのも)からも礼をいわせてもらう」
「とんでもございませぬ。麦の畝づりでご老中から下賜された報賞をまわしただけでございます」
「それが、並みの者にはできがたいことよ。金銭は、あったからといって困るものではないゆえな」
意次が嘆息した。

「殿さま。例のことを---」
佳慈がせかした。

西丸の若年寄・鳥居伊賀守忠意(ただおき 62歳)から出た噂だが、化粧(けわい)指南師という女性(にょしょう)が幕閣の役宅へ出入し、奥向きのおんな衆の人気をあつめておるらしい。
その指南師を呼ぶには、一枚噛んでおる町駕篭の〔箱根屋〕の主(あるじ)の許しが要(い)り、その主の裏にはさらに幕臣の某が控えておるとのこと。

長谷川うじは、その某を知らぬか?」
「そのようなことまで侯のお耳に達しておりますとは---。某は知りませぬが、〔箱根屋〕の主・権七(ごんしち 46歳)とは、15年越しの知己でございます」
「それは重畳。しかし、顔がひろいの---」
「たまさかでございます---」
「その〔箱根屋〕に、ここの佳慈をはじめ、神田橋門内の役宅奥のおんな衆が待ちわびていると伝えてくれまいか?」
「造作もないことでございます。日取りは指南師から佳慈さまへお報らせさせます」
佳慈。聞いたとおりじゃ。あとは、よきに取りはからえ」

平蔵は、その化粧指南師は、京都の禁裏役人の不正の手がかりをえるために発案したものだが、実はあがらなかった---顛末をかいつまんで話した。

「やはり、そうであったか。長谷川うじが金銭(おたから)がらみで考案するはずがないとはおもっていた。はっははは」

参照】2009年9月20日~[御所役人に働きかける女スパイ] () () (
2009年9月20日~[『幕末の宮廷』 因幡薬師] 
2009824~[化粧(けわい)指南師のお勝] () () () () () () () () (

意次は、佳慈をさげ、里貴が江戸へ戻ってきたら、〔貴志〕のような茶寮をやらせたいが、こんどは、町人たちの風向きを知るために、開発がすすんでいる深川に店をだしたい。
江戸でこれから伸びるのは深川を措(お)いて考えられない。
それというのも、物の荷動きは、これからさらに船に頼ることになろう。それには堀が縦横にはしっておる土地でなければならない。
つまり、深川ということになる。

そう話したあと、
「化粧指南師に、幕府の重役たちの役宅の奥向きのおんな衆のうわさ話で、気になることがあったら、ひそかに通じてもらいたい」
声をひそめて、依頼した。

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2010.11.09

里貴(りき)からの音信(ふみ)(3)

飯台の茶が冷えきっているのもかまわず、平蔵(へいぞう 33歳)は、紀州・貴志村の里貴(りき 34歳)の文を、暗記するまで、くりかえして読んだ。


きょう、堺ご奉行の佐野備後守政親 まさちか 47歳 1200石)さまが突然、いらっしゃいました。

------
------

これから村をでていくなら、さまのいらっしゃる江戸でなければ、おんなとして生きている意味がないと思いきわめております。

そのときは、また、こころの支柱になってくださいますか。  
                             かしこ


「お武家さま。店を閉めます」
小女にせかされ、数寄屋橋門外の弥左衛門町の茶店をでた。

夕暮れがきている下町に、片袖(裃 かみしも)姿は場違いであったが、気にならないほど昂揚していた。
里貴が帰ってきたいと申している)

その願いは、老中・田沼主殿頭意次(おきつぐ 60歳 相良藩主 3万7000石)にも達していようか。

「お里貴(りき 30歳)を可愛がってやってくだされ。あれは、ふしあわせなおなごゆえ」
なにかのときに、意次が、老中という鎧(よろい)を脱いで、しみじみといった言葉が、いまでも平蔵の耳にのこっていた、

参照】2010330[茶寮〔貴志〕のお里貴] (5

長患(ながわずら)いの両親のために費(つい)えもかかったであろう。
とりあえずの住いを考えておかねば---。

平蔵の足は、迷うことなく、深川・黒船橋北詰の〔箱根屋〕へ向かっていた。
裃姿に権七(ごんしち 46歳)が目を見張った。
「なにか、火急なことでも---?」

「金が要(い)ることになった」
「いかほどですか---?」
「家を一軒ほど」

参照】2010年2月7日 [元締たちの思惑] (

わけを話すと、
長谷川さま。〔貴志〕の女将さんがお一人でお住みになるだけなら、いますぐお買いになることはありません。とりあえずは、お借りになればよろしいでしょう」
「そうか。御宿(みしゃく)稲荷脇の家を、里貴の持ち家とひとり決めしていたやもしれない」
「御宿(みしゃく)稲荷脇の家---?」
「いや、なに---」

参照】2010年11月18日~[三河町の御宿(みしゃく)稲荷脇] () (
2010年4月5日[お里貴の行水

屋敷には、田沼侯からの伝言(でんごん)が待っていた。

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2010.11.08

里貴(りき)からの音信(ふみ)(2)

きょう、堺ご奉行の佐野備後守政親 まさちか 47歳 1200石)さまが突然、いらっしゃいました。

いきなりの書き出しであった。
いかにも、決断のはやい里貴(りき 34歳)ふうである。
いつぞやも、腰丈の寝衣をあつらえさせたといって着替えたのにはおどろかされ、そそられた。

参照】2010518[浅野大学長貞(ながさだ)の憂鬱] (

ご老中・田沼主殿頭意次 おきつぐ 60歳 相良藩主 3万7000石)のお言いつけとのことでした。

1刻(2時間)ばかりお話をしましたが、話題は、(てつ)さまのことばかり。
弟のようにいつくしんでいらっしゃいましたのね。

お帰りになってからも、火がついたように、御宿(みしゃく)お稲荷の脇の家で)さまとすごした宵のあれこれが走馬灯のようにはっきりとよみがえりました。

参照】2010118~[三河町の御宿(みしゃく)稲荷脇] () (

父は、わたくが帰郷してまもなくみまかりました。
でも、さまが薬料の足しにと大金を送ってくださいましたときの文に、返書は無用---とありました。
これは縁切りかと、どんなに泣きましたことか。

佐野さまとお話しして、さまが、ひそかにわたくしのことをおもってくださっているとわかり、おもい切って筆をとりました。

(西丸の目付であった佐野の兄者は、牟礼(むれい)(郷右衛門勝孟(かつたけ)与頭あたりにまで手をまわしていたに違いない)

参照】2010年2月1日~[与頭・牟礼(むれい)郷右衛門勝孟(かつたけ)] () () (

まず、大金を2度もお送りくださいましたことに、あつくお礼を申しのべます。助かりました。

父の死で、母の老耄と衰えが一気にすすみました。
足が弱りきっているので、出歩きはしませでしたんが---あ、こういう愚痴をお報らせするために筆をとったのではございません。
ええ、母も先日、逝きました。

いまや、恐れるもののない、天涯孤独です。
これまでに輪をかけて、われなりに生きられます。

佐野さまは、堺へでてこい、〔貴志〕のようなしゃれた店をみつけてくださるとのお申し出でした。

でも、さまを知ってしまったわたくしには、こんご、さま以上の男iここの世であえるとはおもえなくなっているのです。
やさしくて、たくましくて、私欲のない、まことの男というものを知ることができ、しわせでした。

(おいおい、自惚れるなよ。里貴に助けられたことも多いんだから)

参照】2010321[平蔵宣以、初出仕] () (
2010年4月23日~[女将・里貴(りき)のお手並み] (1) (2) (

溺れて悔いのない営(いとな)み、頂点のない高みまでの睦(むつ)み---味あわせていただきました。
(それは、おれのほうもだ)

参照】2010年4月9日[里貴の行水
2010年5月16日[鑓奉行・八木丹波守補道(みつみち)] (

これから村をでて行くなら、さまのいらっしゃる江戸でなければ、おんなとして生きている甲斐がないと思いきわめております。

そのときは、また、こころの支柱になってくださいますか。  
                             かしこ

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2010.11.07

里貴(りき)からの音信(ふみ)

「ご小納戸の夏目藤四郎信栄 (のぶひさ 27歳 300俵)さまからでございます」
とどけてきた同朋(どうぼう 茶坊主)に、すばやく懐紙に包んでわたした。
平蔵(へいぞう 33歳)からのこころづけが多目なことは、本丸・西丸の同朋たちのあいだでは定説になっていた。

表が白紙でしっかりと封されている包みは、かなりな厚みがあった。
夏目からなんであろう。きやつ、小姓組番士から小納戸へ移った祝いに一杯やろうとでも---それにしては、ちょっと部厚いな)

封紙を取りさると、

長谷川平蔵宣以さま」

表書きの、忘れもしない筆跡であった。
里貴(りき 34歳)だ)

一刻(いっとき)も早く読みたかった。
が、西丸の営中で開封するわけにはいかない。

与(くみ 組)頭の牟礼(むれい)郷右衛門勝孟(かつたけ 59歳 800俵)をさがし、風邪ぎみで咳がとまらないので、同輩に感染(うつ)しては難儀なので、早引けしたいと許しを求めた。

「せいぜい、大事になされよ」
与頭はあっさりゆるしてくれたばかりか、ご用で小菅(こすげ)の鳥見番まで出かけるという通用口門番へ見せるための差し状まで書いてくれた。

A_160_2西丸大手門を抜け、もっとも近い茶店ということで、数寄屋橋門へ向かった。
歩きながらでも読みたかったが、武士からぬ所作とおもい、じっと我慢した。
(そういえば、里貴は、紀州の貴志の村へ帰るときの文も、夏目信栄に託した。
あれなりに久栄(ひさえ 26歳)に気をつかっているのだ)

あのときの経緯は、すでに記している。

参照】2010年6月19日~[遥かなり、貴志の村] () () () () () () () 

 
別れの文面は、ほとんど覚えていた。

茶屋が見つかるまで、里貴と離れがたいあいだからになった経緯も、はっきりと思い出した。

(おれを茶寮〔貴志〕へ連れて行ってくれたのも、夏目であった。
5年前---安永2年5月8日の遺跡相続の許しをもらって日であったな)

参照】2010330~[茶寮〔貴志〕のお里貴] () () () () (

しかし、このきは、躰を交わえ、このように忘れがたくなくなるとは、つゆ、おもいもしなかった。
幕政の秘密をかいまみようというほどのこ好奇心でしかなかった。

参照】2010年1月12日~[お人違いをなさっていにらっしゃいます] () () (

2010129~[貴志氏] () () (

それが、ふとした偶然から、躰を知りあい、思い出を重ねることになった。
いまかんがえても、あんなふうにことが運ぶとはおもいもしなかった。

参照】2010118~[三河町の御宿(みしゃく)稲荷脇] () () 

数寄屋橋をわたった弥左衛門町で、落ちつけそうな茶屋がみつかった。
町奉行所に近いので、門が開いている八ッ半(午後3時)までは客が立てこんでいるが、この時刻になると
ほとんといなかった。

茶を注文し、封を切った。


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2010.11.06

お勝の杞憂(3)

息がふだんに戻り、それでも目をつむって余韻をまさぐっているお(かつ 37歳)に、
「相談ごとは---?」

は、指で平蔵(へいぞう 33歳)のものをゆっくりともてあそびながら、平蔵の中指をおのれにみちびいた。

「お(さき)のことなんです」
「いくつになった?」
「16です」
「おんなの兆(しる)しはあったか?」
「はい。去年」

の相談ごとは、おと姉のお乃舞(のぶ 19歳)のふつうでない愛情に気がつき、
乃舞あんちゃんがお嫁にいかれへんのは、おかぁちゃんのせいや」
毎日にのように責めるようになったのだという。

もちろん、お乃舞は、やめるつもりはないと断言している。
しかし、男を迎えいれた体験がないから、いつ、どうなるかはわからない。
いっそ、体験させ、どちらを選ぶか決めさせようかとおもわないでもない。

手を焼いているのは、おのほうであった。
髪結い・化粧(けわい)師の手職は身につけたいが、いっしょには暮らしたくない、姉妹の縁も切らないと自分に好きな男ができたときに嫁にもらってもらえない---といい張り、いまにも出ていきそうだと。

「好きな男(の)がいるのか?」
「〔福田屋〕の手代の達吉(たつきち 20歳)に気があるみたいだけど---まだ、あの齢ですから、いつ気が変わるかしれたものではありません」
「〔福田屋〕でも、20歳の手代に所帯を持たすはずがない」
「だから、手職をおぼえて---とおもっているようなんです」

ふたたび、おが乗ってこようとしたが、平蔵が、
「今宵は、もう、いいだろう」
「でも、こんなに元気なのに---」
「それはおが、すすめ上手だからだ」

じつは、平蔵は気がついたのである。
以前とちがい、おんなと過ごすなら、ひと夜ずっとでありたい。
帰宅を気にしながらの逢う瀬は、自分の気を晴らすことはできるが、ただそれだけにすぎない。


は、けっきょく、家をでていくことになった。
引きとってくれたのは、〔音羽(おとわ)〕の元締・重右衛門(じゅうえもん 52歳)・お多美(たみ 37歳)夫妻で、〔音羽〕分の〔化粧読みうり〕のお披露枠を買いきっている市ヶ谷八幡下の紅白粉問屋〔紅粉屋〕で腕を磨くことになった。

ちゅうすけ注】後日談を書き添えておく。
の相手は、なんと、〔越畑(こえはた)〕の常平(つねへえ 26歳)であった。
多美(たみ 37歳)とおが交わす京言葉にころりとまいり、躰をあわせたらしい。
宇都宮での〔化粧(けわい)読みうり〕の刊行が軌道にのり、おの髪結・化粧の腕も一人前になった安永8年(1779)年春、招かれて平蔵夫妻、〔音羽〕夫妻、お・お乃舞の2人連れが日光街道を下っていた。

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2010.11.05

お勝の杞憂(2)

(てつ)さま。お訊きしてはならないことをお訊きしても、お怒りにならないでくださいますか?」
(37歳)は、すでに酒がまわったか、浴衣の胸元がはだけ、乳房は丸見え、横すわりの裾も割れ、太腿の奥の黒いところまでのぞけた。

「怒られるとおもったら訊くな」
「いいえ。しりたいのです」
「おの尻(しり)の肉(しし)置きなら、先刻、触ってたしかめた」
平蔵(へいぞう 33歳)が笑ったが、おの目はすわっていた。

「お教えください。さまには、いま、お情けを受けているおんながいますか?」
「いたら、どうする?」
「どうもしません。おもその一人にお加えください」

参照】20101011[剃髪した日信尼] 

(抱くしかないようだ)
jしてやったりという笑顔を見せたおは、膳を板戸の外へだし、二つ折りの布団をのべた。
泊まる者の用向きが用向きだけに、部屋々々の間仕切りは厚い板戸を配慮していた。

「初めての時、死んだようにしていよ、とおっしゃいました」
裸で目をつむり、仰向けに寝た。
「おは、死にます」

「死ぬ前に訊いておく。お乃舞(のぶ 19歳)とは終わったのか?」
箱枕をあてがったかぶりをかすかにふった。
「相談ごととは、そのことではなかったのか?」

参照】2009928~[お勝の恋人] () () (

平蔵も横に添いながら上掛けを覆うと、おが躰を脇に変え、腰を抱き、秘所を押しつけた。
平蔵のものが硬くなっているのを感知し、
「長い6年でした。この硬くて、弾みがついているのをいただくのは---上に乗っていいですか?」
「好きにせよ」

里貴(りき 30歳=当時)も、このように接したがったことがあったな)

参照】2010年3月22日[平蔵宣以の初出仕] (

は上にまたがり、脊を立てたまま、しばらくじっとしていたが、
「あっ、あたりました」
「ん?」
「ここです、ここ---」
の上躰が前へ傾き、腰を激しくゆすった。
両掌は、平蔵の胸板で支え、指先で乳首をなめらかにいたぶった。

(おれをお乃舞とまちがえておるのか?)
微妙な性感を感じはじめたこともいなめなかった。

「あたるんです、ほら---」
「なにがだ?」
「すごい。す、ごう、く、---い、い---わかりますか? わかってぇ---」

がかぶさり、首に腕をまわし、しめつけ、また上躰をおこし、腰をゆさぶり、倒れこみ、平蔵の上で小きざみに震え、うめいた。
「来て。きて---」

「よし---」
平蔵が腰を動かすと、おは悲鳴のように喉を鳴らし、泣きだし、うわごとのようなつぶやきを洩らした。
「う・れ・し・い---」

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2010.11.04

お勝の杞憂

「殿。お(かつ 37歳)どのから、お(つう 11歳)が文を預かってきました」
郎党の松造(まつぞう 27歳)が、下城どきに、ほかの供にかくして渡してた。

は、日本橋通り3丁目箔屋町の白粉問屋〔福田屋〕文次郎方で、契約化粧(けわい)指南師として、お乃舞(のぶ 19歳)ともに稼ぎまくっていた。
このごろでは、お乃舞の妹・お(さき 16歳)まで見習いとして働いているらしい。

そのことは、5日ごとに朝一番に結髪してもらっている〔三文(さんもん)茶亭〕の看板むすめ・おから、義父・松造を経由して平蔵(へいぞう 33歳)の耳にとどいていた。

参照】2010年10月14日[〔三文(さんもん)茶亭〕のお粂(くめ)] (


---お目もじして、ご相談いたしたきことができました。
夕方でも、お店にお立ち寄りくださいませんか---かつ。

歩きながらほどいた結び文に、こうあった。

鍛冶橋をわたり、丸の内をでたところで松造を呼びよせ、
「〔福田屋〕へ立ち寄らねばならぬゆえ、先に帰館し、おを迎えに行ってやれ」
裃を抜いてわたすと、すばやくはさみ箱から羽織をとりだした松造が、strong>平蔵の肩にあてた


〔福田屋〕をのぞくと、帳場から鼻眼鏡ごしに目ざとく見つけた一番番頭・常平(つねへえ 52歳)が、小僧をおのところへ報らせに走らせた。

長谷川さま。おかげさまで、お髪は大評判でございます」
「それは、重畳。こんごも、お、お乃舞をよしなに、な」

身姿(みなり)をととのえたおが、番頭に会釈をし、平蔵を押すようにして店をでた。
陽が長くなりはじめてい、七ッ半(午後5時)前なのに、陽は沈む気配さえ見せなくなっていた。

さま。朝から働きづめで汗を流したいのですが、坂本町の家でもよろしいでしょうか。湯をわかして行水します」
「ちょっと遠くてもよければ、内湯のある旅籠がある」
「遠いって、どのあたりでございますか。まさか、寺島村の〔狐火(きつねび)のお頭の寮では---?」

このころ、町人の家は湯殿をつけることをほとんど禁じられており、もっぱら銭湯に通っていた。

「いや、深川の浄心寺裏の山本町の旅籠〔甲斐山〕だ」
「旅籠なら、お酒もでますね?」
「多分---」
「猪牙(ちょき)でひと漕ぎです」

箔屋町の突きあたりの楓川の船宿から、仙台堀の亀久橋のたもとまでおのいうとおり小半刻(こはんとき 30分)とかからなかった。

〔甲斐山〕では、2本差と町女房風の客にいささか不審をおぼえたようだが、おはこころえたもので手早く、なにがしか、女中につかませ、
「風呂は、2人でも遣えますか?」
掌の中の額を感触で推量し、
「はい。すぐにお浴衣をそろえてお持ちします」

背中を流してもらいながら、平蔵がうしろ手におの尻部をまさぐり、
「いちだんと肉(しし)置きがたくましくなったな」
さまのは、筋肉ばっかり---」
重い乳房が押しつけられた。

部屋には早くも布団が敷かれていたが、酒肴を頼むと女中が二つ折りした。

膳を運んできた別の女中にも、おはぬかりなくこころづけをにぎらせる。
37歳、その世馴れぶりはさすがで、伊達には齢をくっていない。

盃をあわせ、
「ところで、相談ごととは---?」
「京都以来の、6年ぶりの逢う瀬です。お急(せ)きにならないで---」

参照】2009年8月4日~[お勝、潜入] () () () (

「最初は、三条の旅籠〔津ノ国屋〕の中庭が見えるお部屋でした」
「よく覚えているな」
「太い。硬い。やさしい。熱い。長いものが奥の骨にあたりました」
「うむ」
「躰が少女のようにやわらかだ---とおっしゃってくださいました。うれしくて、うれしくて、ちょっと腰がうごいたら、初めての快感が躰をつらぬきました」

「そうだったかな」
「この6年、忘れられませんでした」

盃をだした平蔵の手をにぎり、
「2度目は、東川端三条上ルの〔俵駒〕でした」
「そうだったかな」
「おんなは、躰がおぼえたことは、決して忘れません」
「こわいな」
不謹慎にも、おがしったら怒りそうなことが頭をよぎった。
(里貴(りき 34歳)も覚えてくれているであろうか)

参照】2009年8月24日~[化粧(けわい)指南師お勝] () () () 


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2010.11.03

勘定見習・山田銀四郎善行(4)

「鍋をつつくまえに、魚沼郡(うおぬまこおり)のほうの長森村字(あざ)暮坪(くれつぼ)は放念したほうがよい---と申されたな」
食事のあとの茶を喫しながら、平蔵(へいぞう 33歳)が、話題を本筋へ戻した。


勘定見習い・山田銀四郎善行(よしゆき 36歳 150俵)は、湯呑みを置いて姿勢をただし、
「山師と申しておるその男、蒲原郡(かんばらこおり)の暮坪の出にまちがいありませぬ」
「なぜ、言いきれるかの?」

平蔵が瞶(みつ)めたのを、きっと見返し、
「早出(はいで)川ぞいの暮坪は、貧しい村で、戸数は20戸に満ちませぬ。村人も100人を大きく割りこんでおります。表向きの村高は67石余と記されてはいても、半分は炭焼きや山うさぎの代価などを換算してのこと---」

A_360_5
(早出(はいで)川ぞいの緑○=暮坪の小里 赤○=村松藩庁)

「1戸あたりでは、正味で2石に満たぬな?」
「はい。引きかえ、長森村の字暮坪のほうは、1戸あたり6石近くになります。勘定奉行所の者の目からしますと、生活(たつき)のくるしさゆえの棄村は、早出川の暮坪の小里の若者のほうと見ますのが当然かと---」
「うむ。大きに理のあるところ」

もっとも平蔵は、盗賊の世界に身を沈める若者が、生活の困窮だけではなことは、百もわかっていた。
しかし、この場では、銀四郎の説に異をとなえず、すんなりとうなずいておいた。

銀四郎が、勘定奉行・石谷(いしがや)淡路守清昌(きよまさ 64歳 2500石)に報告しやすいようにしおいてやるためであった。

:渓谷ぞいの小里・暮坪育ちの伊佐蔵(いさぞう 26,7歳)は、山師とはいいながら、父親が猟師も兼ねていたように聞いたおぼえがある。
当人も鉄砲で猪(いのしし)や熊を射ったろう。
危険と隣りあわせの気分の昂まりが、盗みをうまくしてのけた興奮と似ていないともかぎらない。
道場での試合に、5,6合も撃ちあっているうち、つい、相手を必殺の敵と見てしまい、稽古であることを忘れて意地なることも、剣士として経験していた。

二ッ目の橋をわたったり、竪(たて)川ぞいに左へ折れ、最初の枝道で弥勒寺裏へ帰るという銀四郎と別れた。

辰蔵(たつぞう 9歳)さまの儀は、服部の実母から、お屋敷のほうへあつさつをさせます。その節は、わが豚児・益弥(ますや 8歳)もご相伴させていただきます」
別れぎわに、律儀に約してくれた。

暗い土手道を東へ歩みながら平蔵は、勘定奉行所によい知己ができたことをよろこんでいた。
役人として、あらゆる部署に知己・盟友をつくっておくにしくはない。

銀四郎の実母の息・服部造酒次郎保好(やすよし)も、律儀で能吏のようであった。
その家へ通うことは、長谷川家とは異なる家風の幕臣の家があることを、辰蔵が学ぶであろう。

益蔵という、もしかしたら一生の友人の一人をえることになるやもしれない。

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2010.11.02

勘定見習・山田銀四郎善行(3)

「お互い、身の上話は措(お)き、本題の暮坪(くれつぼ)の小里に話題を戻そう。拙がこの小里に興味をもったのは、さる男にかかわったためでな」

平蔵(へいぞう 33歳)は、寺社奉行・戸田因幡守忠寛(ただとを 41歳 宇都宮藩主 7万7000石)の奇妙な盗難事件の顛末をかいつまんで語り、その犯人とかかわりがあるらしい暮坪育ちで、山師をしている男のことを知りたいのだと打ちあけた。

「そういうことですと、残念ですが、魚沼郡(うおぬまこおり)のほうの長森村字(あざ)暮坪は放念しなければなりませぬ」

「?」
平蔵の表情を察した勘定見習い・山田銀四郎善行(よしゆき 36歳 150俵)が、さらに話そうとするのを、酌をしてやり、
「まずは、目の前の軍鶏をたいらげてからのことにしようではないか」

長谷川さま---」
銀四郎が、箸を置き、口の中のものをすっかり嚥下してから、呼びかけてきたのを見、平蔵は、
(おや---?)
改めて、銀四郎を見直した。

口へあてる箸先を手前に、頭を向かいの平蔵の側へそろえたのであった。

鍋越しに瞶(みつ)め返すと、

「歯ごたえが、並みの鶏と違います。もっともわが家では、並みの鶏もめったに口にしませぬが---」
「お口にあったかな?」
「申すまでもなく、生まれて初めての珍味でございます」
「重畳」

しばらく鍋をつつき、平蔵のほうから呼びかけてみた。
山田うじ---」

銀四郎は、さきほどと同じく、汚したほうを手前に向けて置き、平蔵の言葉を待った。
その所作はなめらかであった。

「つかぬことを伺うが、山田うじのその箸の休めようは、どこのお仕こみかな?」
銀四郎は、きょとんとして置いた箸に視線を落とし、
「なにか、不調法を---?」

「いや、そうではない。まことに礼にかなった箸の休め方ゆえ---」
「実家の母から躾けられました」
「実家---?」

銀四郎は養子であった。
そのことは、当時の幕臣としては珍しくもなんともない。
継嗣がいないと改易になるので、かならず、養子を迎える。

服部家の3男に生まれた銀四郎は、役方(行政畑)の山田家の養子に入った。
しかし、常の養子ではなかった。
2歳年長のすぐ上の兄・藤蔵(とうぞう 享年19歳)が、21年前に山田清三郎正尚(まさなを 享年33歳)の末期養子に入ったが、1年を経ないで病没し、その時に17歳であった銀四郎がただちに後継養子となり、家禄をついだ。
めったにない、兄弟養子であった。

それはそれとして、2人の実母は、同朋(どうぼう 茶坊主)・池田貞阿弥(ていあみ)のむすめで、所作の礼法・運筆にきびしかったという。

「わが家には、そのような礼法をき究めたものがおらぬ。いかがであろう、拙の息・辰蔵(たつぞう 9歳)を山田うじのところへ通わせるゆえ、仕こんでいただけまいか。お住まいがニッ目の弥勒寺の裏ということであれば、近までもあるし---」

銀四郎の返事は、自分より、実母(67歳)が長兄(造酒次郎保好 やすよし 47歳 100俵5人扶持)のところに現存している。
実母からじかに学んだほうが間違いがなかろう。
住いは山田家と脊中あわせであるから、通う道筋も同じであると。


A_360
(本所ニッ目橋南 弥勒寺浦の服部家 山田家は同敷地内)


ちゅうすけ注】辰蔵は、もちろん、剣術や弓術、馬術なども学んだが、この礼法のせいで出仕後、両番の家がらにもかかわらず小納戸組で大いに重宝され、山城守にも叙されている。


_360
(実家・服部家の善行の個人譜)

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2010.11.01

勘定見習・山田銀四郎善行(2)

《味方にしなくてもいいから、敵にまわすな》
信条の一つにしている平蔵(へいぞう 33歳)とすると、勘定方見習い・山田銀四郎善行(よしゆき 36歳 150O俵)の突然の沈黙が気になったが、初対面同様のあいだがらではあるし、予告なしの来訪であったから、察しがつかなかった。

このまま言葉を積むと、どのような失言になるやもしれないので、
「もうすぐ、そこです」
それだけであとは黙し、歩きつづけた。

陽がおちて半刻(1時間)たらずというのに、〔五鉄〕の入れこみは、ほぼ、満席に近かった。

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(しゃも鍋〔五鉄〕の入れ込み図 パース:知久秀章氏 建築家)

店の小女が平蔵を認め、板場の三次郎(さんじろう 29歳)に報らせたらしい。

あらわれた三次郎に、目で2階を指した。
心得て、階段口までみちびく。

2階の広間に落ち着き、
「鍋の支度ができるまでのつなぎに、石谷(いしがや)淡路守 清昌 きよまさ 64歳 2500石)ご奉行のお託(ことづけ)を承ります」

山田見習いは、調べてきたことを、明瞭な口調ですらすらと告げた。

(先刻のことは、どうやら、失言でなかったらしいな)

越後国蒲生郡(がもうこおり)、早出(はやで)川と杉(すぎ)川が落ちあう左手の谷あいの小里---暮坪(くれつぼ)でよいか、と念を押された。

「ほかにも、暮坪という村があるのかな」
「はい。もっと南の魚沼郡(うおぬまこおり)の長森村に、暮坪という字(あざ)がございます、こちらは、出雲崎代官所の支配地です」

「うかつであった。早出川ぞいしか考慮していなかった」
「どのようなお調べでございますか?」

三次郎と小女が七輪(しちりん)と鍋を運んできたので、平蔵は、山田見習いを、初見でいっしょであったと紹介した。
「初見でごいっしょと申されますと、たしか、浅野大学長貞 ながさだ 32歳 500石 本丸・小姓組番士)さま、長野佐左衛門孝祖 たかのり 33歳 600俵 西丸・書院番士)さまは、その後、お見かぎりでございます」

(まずい。山田見習いに身分違いをさとらせた)
「呑みあう口実がなくてな」
「新しいおんなができたとかなんとか、男ざかりの方々ですから、口実なんぞ、いくでもつくれましょう」
三次郎は、笑いながら鍋をつくり、
「煮えたら、どうぞ、箸をおつけになってください」
2人に酌をすると、降りていった。

山田銀四郎が沈黙したまま、鍋を見つめているので、酒をすすめがてら、
「しゃもはお嫌いか---?」
「いえ。左様なことではございませぬ。先刻の息・益蔵(ますぞう 8歳)のことでございます。じつは、脇腹の生まれで---」

銀四郎が苦しげに告白した。
正妻は長男を産んだ。
しかし、早世した。
その衝撃で、夫を受けつけない躰になった。

しかたなく、継嗣をつくるために脇腹をつくった、
軽輩にはすぎたことと思うが---と、唇を噛んだ。

山田うじ。気になさるでない。拙も正腹の子ではない。それどころか、連れ子でござった、はっ、ははは。いまでは、連れ子をしてくれた亡父に感謝をしておる」

救われたように、山田見習いがつられて、笑った。

参照2007年4月16日~[寛政重修諸家譜] (12)(14) (15) (16) (17) (18
2007年5月2日[『柳営補任』の誤植

_360_4
(山田善行の個人譜)

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