« お勝の杞憂(3) | トップページ | 里貴(りき)からの音信(ふみ)(2) »

2010.11.07

里貴(りき)からの音信(ふみ)

「ご小納戸の夏目藤四郎信栄 (のぶひさ 27歳 300俵)さまからでございます」
とどけてきた同朋(どうぼう 茶坊主)に、すばやく懐紙に包んでわたした。
平蔵(へいぞう 33歳)からのこころづけが多目なことは、本丸・西丸の同朋たちのあいだでは定説になっていた。

表が白紙でしっかりと封されている包みは、かなりな厚みがあった。
夏目からなんであろう。きやつ、小姓組番士から小納戸へ移った祝いに一杯やろうとでも---それにしては、ちょっと部厚いな)

封紙を取りさると、

長谷川平蔵宣以さま」

表書きの、忘れもしない筆跡であった。
里貴(りき 34歳)だ)

一刻(いっとき)も早く読みたかった。
が、西丸の営中で開封するわけにはいかない。

与(くみ 組)頭の牟礼(むれい)郷右衛門勝孟(かつたけ 59歳 800俵)をさがし、風邪ぎみで咳がとまらないので、同輩に感染(うつ)しては難儀なので、早引けしたいと許しを求めた。

「せいぜい、大事になされよ」
与頭はあっさりゆるしてくれたばかりか、ご用で小菅(こすげ)の鳥見番まで出かけるという通用口門番へ見せるための差し状まで書いてくれた。

A_160_2西丸大手門を抜け、もっとも近い茶店ということで、数寄屋橋門へ向かった。
歩きながらでも読みたかったが、武士からぬ所作とおもい、じっと我慢した。
(そういえば、里貴は、紀州の貴志の村へ帰るときの文も、夏目信栄に託した。
あれなりに久栄(ひさえ 26歳)に気をつかっているのだ)

あのときの経緯は、すでに記している。

参照】2010年6月19日~[遥かなり、貴志の村] () () () () () () () 

 
別れの文面は、ほとんど覚えていた。

茶屋が見つかるまで、里貴と離れがたいあいだからになった経緯も、はっきりと思い出した。

(おれを茶寮〔貴志〕へ連れて行ってくれたのも、夏目であった。
5年前---安永2年5月8日の遺跡相続の許しをもらって日であったな)

参照】2010330~[茶寮〔貴志〕のお里貴] () () () () (

しかし、このきは、躰を交わえ、このように忘れがたくなくなるとは、つゆ、おもいもしなかった。
幕政の秘密をかいまみようというほどのこ好奇心でしかなかった。

参照】2010年1月12日~[お人違いをなさっていにらっしゃいます] () () (

2010129~[貴志氏] () () (

それが、ふとした偶然から、躰を知りあい、思い出を重ねることになった。
いまかんがえても、あんなふうにことが運ぶとはおもいもしなかった。

参照】2010118~[三河町の御宿(みしゃく)稲荷脇] () () 

数寄屋橋をわたった弥左衛門町で、落ちつけそうな茶屋がみつかった。
町奉行所に近いので、門が開いている八ッ半(午後3時)までは客が立てこんでいるが、この時刻になると
ほとんといなかった。

茶を注文し、封を切った。


|

« お勝の杞憂(3) | トップページ | 里貴(りき)からの音信(ふみ)(2) »

147里貴・奈々」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« お勝の杞憂(3) | トップページ | 里貴(りき)からの音信(ふみ)(2) »