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2010年12月の記事

2010.12.31

〔三ッ目屋〕甚兵衛

桜花(さくら)が早緑(さみどり)にかわり、深川の堀の水面が靄ってみえるころ、平蔵(へいぞう 35歳)は、一夕を〔季四〕へ招かれた。
招いたのは火盗改メの組頭・(にえ) 越前守正寿(まさとし 40歳)であった。

贄家は紀州藩出身で、老中・田沼主殿頭(おきつぐ 62歳 相良藩主)とも音信があるということで、女将・里貴(りき 36歳)もかなり緊張して奉仕しているのが、平蔵の目にもはっきりとわかった。

越前守は、偉ぶったところを微塵もみせず、平蔵がくつろげる気くばりを示した。
「町奉行どののほうは、偽の人参を高麗ものと偽った罪で所払い、こちらは盗品を売買したということで島送りとの伺いあげた」
「盗賊の一味との自供はとれませぬでしたか?」
にやりと平蔵をみた 組頭は、
長谷川うじは、お上(家治 いえはる 42歳)が、有徳院殿吉宗 よしむね 享年68歳=宝暦元年)同様、深夜まで、評定所(幕府の最高裁判所)やそれぞれの奉行所の評決をお改めになっていることをご存じかな?」
「いえ---」
「お上の伽衆や小姓としてお側近くお仕えしたわれが、疑いだけで証拠もなしに重刑を科するわけにはいかぬ」
「恐れいりました」

里貴の酌でしばらく快げに盃を重ねながら、紀州のうわさをしていたが、
長谷川うじの示唆で、捕らえることができた〔三ッ目屋〕一統であるが、奥医・多紀(たき)法眼どのの被害であったので、お上はことのほかご機嫌であったと洩れてきておっての」
「それはよろしゅうございました」
「ついては、お礼だが---」
「その儀は、多紀さまから過分に---」
「いや、そうではない。長谷川うじを、とくべつに、〔三ッ目屋〕の主・甚兵衛を尋問させる機会をつくろうとおもってな」
「は---?」
「西丸の書院番頭・水谷(みずのや)出羽 勝久 58歳 3500石)どのには話はとおっておる。日時をお決めあれば、その前後3日の休仕を、与頭・牟礼(むれい)(郷右衛門勝孟 かつたけ 60歳 800俵)うじと、われのほうの脇屋清助(きよよし 52歳)がとりはからう」

(なにかの試問かも---)
平蔵はその疑念をふりはらい、
「ありがたき好機にございます」
「やってくれるか?」
「はい。よろこんで---」
里貴が、ほらほらといわんばかりの双眸(りょうめ)で微笑んでいた。

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2010.12.30

浅野家の妹・喜和(2)

猪兵衛(ゐへえ)どん。このこと---」
「へえ---」
「しばらく、静視しておいてもらえまいか?」
平蔵(へいぞう 35歳)の双眸(りょうめ)の奥をのぞきこんだ〔般若(はんにゃ)〕の猪兵衛(ゐへえ 33歳)は、真意を察したらしい。

浅野のお殿さまへもお報らせしねぇということでやすね」
「そう、願いたい」
「わかりやした。そういうことにいたしやしょう」
猪兵衛が莞爾とほころばせた。

「男とおんなの関係は、夫婦でないかぎり、よい思い出になるかそうでないかはわからぬが、いつかは熱が醒(さ)めよう。無理に冷まそうとすると、寝ざめの悪い結果になりがちだ---」
「むたいもないことをお耳にいれやした---、お許しを---」
「いや。かたじけなかった。 だいがく 浅野長貞 ながさだ 34歳 500石)に代わり、お礼を申す。喜多郎とやらも、見守ってやってくれ」
「誓って、そのように、いたしやす」


帰路、筋違橋のたもとで舟に乗り、藤ノ棚へ寄った。
舟の、「上野御山下」「あは雪 御奈良茶所」「浜田屋」と記した洞(ぼんぼり)の灯が、水面(みずも)に揺れていた。

_360_2
(〔浜田屋〕あは雪なら茶所)

「船頭さん。そこの雪洞の口が:け人は---?」
「え? へえ。〔般若〕の元締のところの、喜多郎っていい若い衆で---」
「いい若い者(の)---?」
「へえ。齢はまだ20歳(はたち)めぇ---ってことですが、なにしろ、気風(きっぷ)がいいんで---ありゃあ、もうすぐ、小頭ですぜ」
「そうかい。そんなに気風がいいかい---」

亀久橋下の舟着きで降りしなに、こころづけをはずみ、
(馬鹿みたいに、(だい)に肩入れしてしまった)


戸を叩くと、里貴(りき 36歳)がすぐに立ってきた。
ふつうの寝衣だったのを、新しい腰丈のに着替えた。
「また、つくったな」
「やはり、(てつ)さまのおいいつけどおり、尾張町角の恵比寿屋さんにしました」

「真っ黒のでは、雀がおどろかないだろうって、不思議がられなかったか?」
「そういわれてみると、若い手代が妙な顔をしていました」
里貴は、案山子(かがし)に着せるのを口実にしていた。

黒衣だと、白く透明にもみえる肌がいっそう引き立つと考えたうえでの黒であった。
自分の美質をより主張するのは、おんなの天性のようなものかもしれない。

参照】2010年5月18そ日[浅野大学貞長の憂鬱] () (

真っ黒のだと、里貴の白い肌がよけいに白くうきあがった。
立て膝の奥の芝生も淡いのが目立ち、気分を刺激した。

医心方 第二十八 房内篇』で折り紙がついた、好女(寝間でのいいおんな)の資格の一つであった。

参照】2010年12月21日[医師・多紀(たき)元簡(もとやす)] (

喜和(きわ 30歳)と喜多郎の顛末は話さなかった。
里貴が齢上とはいえ、1歳しか違わないし、藤ノ棚では、里貴は妹のつもりで甘えている。
11歳も違う男とおんなのあいだがらを、里貴に想像させてはいけない。

ましてや、夫婦でない男とおんなの間には、いずれ終焉がくるなどと悟ったようなことを、里貴の耳に入れることはない。
先のことはともかく、いまは、ずっとつづくつもりでいる平蔵でもあった。

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2010.12.29

浅野家の妹・喜和

「お相ぇ手をしておるのは、あっしがとこの若ぇ者(の)の、喜多郎(きたろう 18歳)って奴でして---まことに面目しでぇもございやせん」
双手をついた〔般若(はんにゃ)〕の猪兵衛(ゐへえ 33歳)が、額を畳にすりつけるほどにして謝った。

猪兵衛は、香具師(やし)の元締である。
上野山下から広小路、筋違橋北詰までを縄ばりにしていた。
ところは、湯島天神の男坂下の料亭〔松金屋〕の離れ座敷であった。

_360
(料亭〔松金屋〕 湯島天神・男坂下)

般若〕の元締の本宅のある三組坂下の同朋j町は、この男坂下から1丁と離れてはいない。
この店にしたのは、湯島天神の集会室を、〔音羽(おとわ)〕の重右衛門(じゅうえもん 54歳)の内儀・お多美(たみ 39歳)が化粧師(けわいし)の稽古場に借りてい、ときどきここでおいしいもの会をひらいているからであろう。
猪兵衛のおんなのお(しな 32歳)が、髪結いの師匠格で手伝っていた。


「元締どん、顔をおあげなさい。おんなと男のあいだの出事(でごと 情事)に、配下とかお頭とかは、きこえないことで---」
平蔵(へいぞう 35歳)も、途方にくれて吐いた。

盟友の一人で本丸の小姓組に出仕している浅野大学長貞(ながさだ 34歳)の寡婦となって戻ってきていた妹・於喜和(きわ 30歳)をめぐる事件のことであった。

参照】2010年5月17日~[浅野大学長貞(ながさだ)の憂鬱] () () (

6年前、於喜和が、母ちがいの兄と関係をもった。

喜和は、平蔵がほかのことで猪兵衛に手配をしてもらっていた妻恋稲荷社の脇のしもた家で一人暮らしをするため、浅野家の市ヶ谷牛小屋跡の屋敷をでた。

猪兵衛からは前々、於喜和のことで相談がある---とはささやかれていたが、前払いの家賃がきれているだろうぐらいにかんぐり、いつでも始末がつくとたかをくくり、目前の用事にかまけてきた。

「3年前からだとわかりました」

3年前の夏、於喜和から、竈(かまど)の焚き口の加減がおかしいといってきたので、当時15歳だった喜多郎をやった。

喜和は、行水をしてい、焚き口を見る前に背中を流してくれと誘った。
「濡れるから、脱いで流して---」
喜多郎は下帯まではずされた。

喜多郎は15歳とはいえ、稼業がら、もちろん、おんなは初めてではなかった。
般若〕のシマ内には、岡場所はいくつもあった。
初経験は、その中の一つ---下谷j町2丁目の俗に提灯店(ちょうちんだな)の娼家で〔けころ〕が相手であった。

ちゅうすけ注】下谷の岡場所の一つであった提灯店は、聖典巻6[猫じゃにしの女]に初登場した。
「ちょうちんだな」の由来は、かつてあたりにが「生池院(しょうちいん)」の持ち地であり、それがなまったのだとの説が強い。

「<喜>の字つながりなの。前世からこうなるって、きまっていたの」
耳元で甘くささやかれ、喜多郎は単純に信じたし、娼婦(くろうと)でなく、れっきとしたて武家の女性を抱き、よろこばせている自分の格があがったようにおもえた。

骨がないみたいに包むようにまとわりついてくる27歳の熟れきった於喜和の女躰を、喜多郎は離れがたくなった。

「いや。18歳では、30おんなの方が離すまい」
銕三郎(てつさぶろう)時代にぐうぜんに知りあった人妻・阿記(あき)は21歳、こちらは18歳---飽きるということがなかった数日間であった。

参照】2007年12月31日~[与詩(よし)を迎えに] () (12) (13) (14) (15) (26) (27) (28) (41

(男とおんなのあいだがらは、そのときは無上のものでも、歳月を経ると、淡い思い出でしかない。里貴(りき 36歳)とのあいだもそうなるのであろうか---)
平蔵が首をふった。


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2010.12.28

同心・佐々木伊右衛門(3)

長谷川の殿さま。〔三ッ目屋〕の強精薬の朝鮮人参は、野州産だってことですぜ」
耳より〕の紋次(もんじ 37歳)が、妙な噂を聞きこんできた。

紋次には、先日、〔三ッ目屋〕の朝鮮人参の仕入れ先をあたるように頼んでおいた。
両国橋広小路の並び茶屋のお(いく 31歳)が、効き目を実感したふうな口をきいていたからであった。

参照】2010年12月16日[医学館・多紀(たき)家] (5

「野州産---?」
(和産の竹節(ちくせつ)人参ではないのか?)
疑惑を腹におさめ、平蔵が訊く。

参照】2010年2月18日~[竹節(ちくせつ)人参] () () () () () (

〔三ッ目屋〕の小僧の亀太(かめた 14歳)を脇へ呼び、牡丹餅を2ヶつかませ、新しく売りだしている〔牛車(ごしゃ)剛気丸〕ってなあ、効きのつよい高麗人参入りだってなと鎌をかけた。

八味丸に高麗人参を加えたのが〔三ッ目屋〕の特製〔牛車剛気丸〕であった。

すると、高麗人参なんかじゃなく、下野(しもつけ)国日光今市の植え場で育った竹節人参だが、対馬藩渡来の高麗人参入りという触れこみが効いているらしく、求めた客が「効いた、効いた」と告げまわってくれ、店の旦那も番頭も喜んでいると、バラした。

早漏、萎茎(いけい)に処方される〔八味丸〕は、

地黄(じおう) 乾燥した根
茯苓(ぶくりょう 和名=マツホド) 菌核内部
山茱茰(さんしゅゆ 和名も同じ) 果実
山薬(さんやく 和名=ながいも)  根
沢瀉(たくしゃ)
牡丹皮(ぼたんぴ 和名=シャクヤク) 乾燥した根 
桂枝(けいし 和名=シナモン 樹皮の内側)
附子(ぶし 和名カラトリカブト) 根

「でえてぇ、あっちのほうが弱くなったと落ちこんどる45歳から上の男たちの半分は、おもいこみが因(もと)だっていいやすから、あいつに効いて、おれに効かねぇはずがねぇと念じりぁ、イワシの頭でさあ」


平蔵はすぐさま、筆頭与力・脇屋清吉(きよよし 52歳)へ町飛脚を立てた。
書簡には、(にえ 越前守正寿 まさとし 40歳)組頭と同心・佐々木伊右衛門(いえもん 42歳)同道で、いまいちど、〔三ッ目屋〕の主(あるじ)・甚兵衛(じんべえ 39歳)と番頭・小兵衛(こへえ 53歳)をお調べになるように、すすめた。

吟味の要点は、仕入れ帳と売り掛け帳とつけくわえた。
とくに、符丁(ふちょう)の正体を、あらかじめ、手代を役宅の白洲で吐かせ、聞きとっておいてから乗りこむのが肝心と書いた。

結果、売り掛け帳に大量の朝鮮人参の記載があり、出所を追求され、故買の疑いが濃くなり、そのまま入牢となった。

のちの調べで、〔三ッ目屋〕は、盗品専門の故買屋であることが発覚(バレ)た。

亀太が危ない)
察した平蔵は、紋次にいいつけて連れだし、とりあえず〔音羽(おとわ)〕の重右衛門(じゅうえもん 54歳)のところにかくまってもらい、添え状をつけ、〔左阿弥(さあみ)〕の角兵衛(かくべえ 49歳)の上方へ逃がした。

参照】2009年8月22日~[左阿弥(さあみ)〕の角兵衛] () (

先代の円造(えんぞう 享年68歳)は、去年の秋に逝き、いまは角兵衛が祇園一帯の元締となっていた。

佐々木同心が、押収した〔三ッ目屋〕のあり金の中から5両(80万円)をたくみに消し、亀太にもたせた。

店と家宅改めには、躋寿館(せいじゅかん のちに医学館)の多紀家の嫡男・元簡(もとやす 26歳)にも助(す)けてもらったところ、持こまれた朝鮮人参の半分25両(400万円)分が手つかずのままで見つかった。

また、売り掛け帳をたどり、16両分(256万円)は根姿のままで取り戻せた。
盗品と知らないで買っていても、現物は没収されるしきたりであった。

多紀法眼元悳(もとのり 51歳)奥医は、人参が見つかった謝礼として、10両(160万円)を元簡(もとやす 26歳)に持たせ、〔季四〕で平蔵に渡した。

打ちあけると法眼が最初に包んだのは5両(80万円)だったが、息・元簡がきつくいさめ、5両を上乗せさせた結果の10両であった。

平蔵はそれを、藤ノ棚の家で、そっくり里貴(りき 36歳)の手にのせ、
里貴の蔭の仲人の礼金とおもって受け取れ。家を買う蓄えの足しにでもするんだな」


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2010.12.27

同心・佐々木伊右衛門(2)

「目黒・行人坂の大火のあと、躋寿館(せいじゅかん のちの医学館)と居宅の再築を請けおったのは、最初の学舎も手がけた駒込片町の棟梁・大銀です」
佐々木伊右衛門(いえもん 41歳)がつづけた。

「駒込片町---とは、ずいぶん遠くの棟梁に頼んだものだな」
「遠くではありませぬ。多紀(たき)家の拝領屋敷は駒込片町の白山社前なのです」
「そうか。そのつながりか---」
平蔵(へいぞう 35歳)は納得し、そのあたりまで出張ったことをおもいだした。
戸祭とまつり)〕の九助)(きゅうすけ 22,3歳=当時)の隠し荷をあらために旅籠〔越後屋]を糾問したときであった。

参照】2010年10月27日[〔戸祭(とまつり)〕の九助] (

躋寿館は、薬園を犬や猫にあらされないように敷地には板塀がめくらされてい、てっぺんには猫もくぐりぬけられないほどの幅の狭い忍び返しがしかけてあった。

盗賊たちは、家人のくぐり戸から侵入したとおもわれる。
とすると、内側から桟をあけたものがいなければならない。

(たぶん、みんなといっしょに縛られたお(すぎ 40すぎ)---正体はお(てい)であったろう)
戸締まりを外しただけでも、死罪に値(あたい)するので、火盗改メの追求がきびしくなったのを機に消えたとおもえる。

学頭・多紀法眼元悳(もとのり 50歳)は、盗まれた受講料の再納入を強いると、辞めていく塾生も少なくなかろうとみたらしく、いまは富裕な町医として繁盛している百人近い卒業生に、建学15周年ということで奉加帳をまわしていた。

盗難のことを率直に訴え、講師陣へ支払う謝金として、盗難額のほぼ7割にあたる---170両(2,720万円)をも目安にしているのも良心的といえると、佐々木同心は評していた。

「朝鮮人参のほうはどうなりましたかな?」
「江戸の薬種(くすりだね)問屋には、町奉行と連名で触書(ふれがき)をまわしましたが、いまのところ、申し出はありませぬ」

超安値で買える好機を、商人がむざむざ見逃すはずはない。
(見込みはほとんどないといってよかろう)

佐々木うじ。橋本町に〔三ッ目屋〕という、大人の手遊び屋があることはご存じかな?」
「薬研堀の〔四ッ目屋〕なら存じおりますが---」
「いや、〔三ッ目屋〕のほうです。なにか、いいががりをつけ、おどしてごらんになるのもおもしろいかと---。ただし、躋寿館の塾生たちの月夜ばたらき(隠れ仕事---いまでいうアルバイト)による遊び金づくりのこともあるので、ほどほどに---な」

参照】2010年12月19日[医師・多紀(たき)元簡(もとやす)] (

後日、平蔵は、先手弓の2番手組頭・(にえ)越前守正寿(まさとし 40歳)が、みずから〔三ッ目屋〕へ出向き、店内の商いの品々をたしかめ、主(あるじ)の与兵衛(よへえ)を糾問したことを報らされた。

(馬先召し取りの火盗改メではなかった)
先夜の応対、現場をふむ態度は、亡父・宣雄(のぶお 享年55歳)の面影をしのばせ、より、親近感が強まった。

参照】馬先召取り---2006年6月11日[現代語訳『江戸時代制度の研究』火附盗賊改] (

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2010.12.26

同心・佐々木伊右衛門

下城してみると、火盗改メで先手・弓2の組の同心・佐々木伊右衛門(いえもん 41歳)が表の間で待っていた。

寄り道---というのは、冬木町寺裏の茶寮〔季四〕のほかにはないのだが---をしなくてよかったと安堵するとともに、火盗改メの組頭・(にえ)安芸守正寿(まさとし 40歳 300石)の依頼に応えていないことを自責した。

横川に架かる菊川橋たもとの酒亭〔ひさご〕へ連れだそうと、一瞬、浮かんだものの、伊右衛門が甘党で酒がだめだったことをおもしだし、このまま、話を聞くことにきめた。

同心がまっさきに報告したのは、佐々木奥医・多紀(たき)法眼元悳(もとのり 50歳 200俵)の居宅から、奥女中としてはたらいていたお(すぎ 40すぎ)が逐電したことであった。

とつぜん消えたので、その前に紀州へ行くといって旅だっていた継嗣・安長元簡(もとやす 26歳)と示しあわせての出奔かと疑ったが、父・元悳への、東海道・宮宿から元簡が出した手紙を示され、疑念は捨てざるをえなかった。

その飛脚便は、宮からわざわざ常滑(とこなめ)へ足をのばし、注文してあった製薬に用いる製磁の乳鉢50ヶのすすみ具合を報じていた。

それも兼ねた、紀州行きであった。

贄組としては、武州多摩郡(たまこおり)中山道の大きな宿場の熊谷へ同心見習を出張らせた。
の生地としてとどけられていたのが熊谷宿の北、下石原村であったからである。

無駄足であった。
というのは江戸での名前で、村を出る16歳まではお(てい)であったが、それ以後、一度も村へ帰ってはいなかった。

(甲斐国古府中の近辺へひそんでいるか、府内のどこかにあるはずの盗人宿で骨休めをしていることであろうよ)
ただし、おもわくのある平蔵(へいぞう 35歳)は、このことを口にはださなかった。

佐々木うじ。無駄かもしれないが、甲州者をもっぱらにしている口入屋をあたってみてはいかがであろう?」
「甲州者---? おは、武州熊谷在の生まれですが---? そういえば、甲州なまりのことを仰せになっていましたな。賊が甲州者とでも---?」

平蔵は、10数年前に鉄菱(てつびし)を印伝革の袋から出してばらまいた賊がい、つい、そうかなとおもっただけだとはぐらかした。

参照】2008年8月17日~[〔橘屋〕のお仲] () () () (

「しかし、多紀家の事件では、鉄菱を撒く前に、みな、目隠しをされたということなので、鉄菱が印伝革の袋に入られていたかどうか、判然としていない」
平蔵の説明に、佐々木同心はうなずきはしたが、どう受けとったかまでは顔にださなかった。
(さすがに老練---あるいは、火盗改メ組頭の(にえ)安芸守正寿(まさとし 40歳)から、表情を消すようにとの訓練を受けているのか。
(そうだとしたら、組頭は相当のご仁だ)

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2010.12.25

医師・多紀(たき)元簡(もとやす)(8)

多紀(たき)元簡(もとやす 26歳)さまのお相手のこと、ほんとうにお探しするのですか?」
藤ノ棚の家で、小茶碗で冷や酒を酌みかわしながら、里貴(りき 36歳)がたしかめた。

「探してやらなければ、いつまでも里貴にまとわりつくぞ」
医心方 巻二十八 房内篇』の[第二十ニ章 好女(こうじょ)---寝間でいいおんな]によると---、

骨は細く、肌は肌理(きめ)細やかで艶があって若々しい。
しかも、透きとおるほどに清らか。
毛髪は絹糸のように細くてまっすぐ。
しかも秘所は無毛か、うっすら。

---ということで、里貴のあのときの裸の姿態を想像しておると、平蔵(へいぞう 35歳)がというと、眉根をよせ、
「うとましい」
内心は、まんざらでもないところがおんなごころの微妙であった。

里貴の裸躰を、ほかの男が頭の中とはいえ、ねめまわしているとおもうと、おれだっていい気はしない」
平蔵が嫌がることは、避けたほうがいい。

「うれしい」
小茶碗をおき、立て膝をおろしたので、飛びかかられてもいいように、平蔵も茶碗をわきに離しておいた。

腰丈の寝衣なので、太腿(もも)までは裾がきていない。
その膝小僧をひらき、下腹を見下ろし、
「ここの芝生が淡いのを、恥じなくてもいいのですね?」

「おれは、三国一の果報者とうぬぼれている。動物や花にはある発情の季節というものを人間は忘れ去り、四季をつうじて交接するようになったから、玉陰のとば口を隠すための恥毛は無用の長物ともいえる」

「そういう考え方は、初めて---あら、〔季四〕の店名はそのことだったのですか? 恥ずかしい」
会えば、季節をとわないで抱きあってきた。

夜ごとに客が登楼してくる吉原の花魁(おいらん)たちは、湯殿でその茂みを軽石で磨(す)って縮めたり、まびきもすると聞いたことがあると平蔵の解説に、自分のものを指でなぶり、
「おかしな気分---」
笑った。

貴志村には、多紀安長元簡に似合いそうな17歳になる姪がいた。
色白で、里貴の妹のようだと村でいわれている。
行水姿を見たとき、下の絹糸もうっすらとしていた。

「江戸へ呼びましょうか?」
「いや。っさんを紀州へ行かせよう」
「では、文を書きます」
「正妻になれなくてもいいか?」
田沼意次 おきつく 62歳)さまのお口ききで、ご家中のどなたかの養女という形はとれませぬか?」
里貴似であれば、養父に横どりされかねないぞ」
「一生、可愛がってくだされば、側室のままでも、よろしいでしょう」

元簡は大乗り気で、父・元悳(もとのり)法眼を口説(くど)き、紀州へ旅だち、1ヶ月後には17歳の奈保(なほ)を伴って帰ってきた。
仮の挙式は貴志村で挙げ、江戸では躋寿館(せいじゅかん のちに医学館)の居宅に離れを建て増し、そこに落ちついた。

なんと、9ヶ月たつかどうかのうちに、女児を産んでいた。
さらに一年ちょっとのちには、左膳(さぜん)をもうけた。
名づけ親は、平蔵---というより、里貴であった。

里貴は、後家になっとき左膳という武士に言い寄られたな」
冷やかすと、
「10年前には、そんなこともございました:げな---」
けろりと応えた。

両親の看病のために紀州の村へ帰っていたとき、左隣に蔭膳をいつもつくり、そこに銕三郎(てつさぶろう)がいるかのように話しかけていたことは告白しなかった。

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2010.12.24

医師・多紀(たき)元簡(もとやす)(7)

長谷---いや、(へい)さん。きれいな女将ですね」
部屋へ案内し、平蔵(へいぞう 35歳)から〔黒舟〕の権七(ごんしち 48歳)にすぐくるように使いを出してくれといわれ、合点した里貴(りき 36歳)が退(さ)がると、多紀(たき)安長元簡(もとやす 26歳)が無遠慮に嘆声をもらした。
よほどに感銘をうけたらしい。

「女将が聞いたら、嬉しがろう」
「お世辞ではありませぬ」

医心方 巻二十八 房内篇』の[第二十ニ章 好女(こうじょ)---寝間でいいおんな]にいう、
---骨は細い、肌は肌理(きめ)細やかで艶があって若々しい。
しかも、透きとおるほどに清らか。
肉づきはたおやかだが、指の関節はくぼむほどに細い。
毛髪は絹糸のうに細くてまっすぐ。
脊丈は中肉中背。

この条々をそのまま具現している、と力説、恥毛もないか、あっても薄いとまで予言した。
「手前がこの10年近く、夢にみていた女性(にょしょう)です」

「これ。聞こえると、大変なことになるぞ」
「は---?」
「この茶寮は、ご老中・田沼意次 おきつぐ 62歳)侯のお金で成った」

酒と手軽な肴を配膳した里貴に、
「夢ごこちです」
ぬけぬけと告白した。

「え---?」
平蔵が、わけを伝えると、
多紀さまより10歳も上の姥(うば)でございます」
いなしたが、元簡里貴を瞶(みつめ)ている。
(これはいかぬ。頭の中で、里貴を裸にし、内股の絹糸までたしかめているかもしれない)

里貴どのの縁者に、齢ごろの処女(むすめ)のこころあたりはありませぬか?」
里貴が生まれた貴志村が、半島からの渡来人が故郷のしきたりをかたくなに守ってくらしている村であることをおもいだし、問うてみた。

参照】2010年3月31日[ちゅうすけのひとり言] (53

「冗談ではございませんのね?」
っさんの顔を見れば、冗談ごとではないことがわかろう?」
「おんなにとっては一生の大事でございます。一見(いちげん)のお言葉だけで軽々しくはお受けするわけには参りません」
「それもそうだ」

ちょうどうまく、権七があらわれ、話題がかわった。

互いを引きあわせ、元簡が医師としての美顔術の囲みの短文を書いてもいいといっていると告げると、
「それは重宝ですが、上方からの版木でなく、江戸で版木を彫ることになります」

そのことは、元締衆の賛同をとりつけるとして、囲みの短文の一例を元簡に求めた。

美しくなりたいと願っている若い女性をなやますものの一つに、ニキビがある。
自分も、10代の後半には悩まされた---と前置きし、
「『医心方 第四巻 美容篇』の[第十四章 治面方---ニキビの治療法]に、3年酢(黒酢)を満たした陶器壷に鶏卵を殻つきのまま沈めて油紙の蓋をし、首を紐でくくって密閉し、七日おくと、殻がぶよぶよになります。そこで白身と黄身をべつべつの容器にわけ、それぞれをニキビに塗ると、早いときには一晩であとかたもなく消えました」
「あら。うちの女中にニキビでなやんでいるのがいますから、早速、ためさせます」
里貴どの。効いたら教えてくだされ」
平蔵が他人をよそおった、

権七が口をはさんだ。
「清らかな色白になるとか、精が増し、ひと晩に数回も戦えるようになるというのはにわかには信じられないが、ニキビが一夜のうちに消えるというのは、ほんとうにできそうです」

「残った液で手の甲に塗り、乾いてから洗い流しますと、みごとに白くなっています。信じられないなら、片方の手の甲だけでためし、両手を比べれば信じざるをえません」

ちゅうすけ注】『医心方』ついては槇 佐知子さん訳の筑摩書房版を参考にさせていただきました。


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2010.12.23

医師・多紀(たき)元簡(もとやす)(6)

多紀うじ---}
平蔵(へいぞう 35歳)の呼びかけに、安長(やすなが)元簡(もとやす 26歳)が提案した。
長谷川さま。これからは、安長(やすなが)と呼びすてにしてください」
「では、(やっ)さん---ということに。そのかわり、おれのことも(へい)さんでとおしてくれ。おれを[さん]と呼べるのは、っさんが3人目だ」
「かたじけのう---」
嬉しげな元簡の謝辞であった。

「閨房での好女(こうじょ)---好ましいおんな---はわかった。その、好女になる手順も『房内篇』に書かれておるのかね?」

元簡によると、[第ニ十六章 養薬石]に、男性の精力増強薬のこと、、[第ニ十七章 陽茎小]は、小さい太陽物を増長させる薬にあてられており、使いすぎや経産でゆるんだ女性の玉門(膣口)をすぼめる薬のつくり方などが述べられているとも。

「はっ、ははは。すぼめる薬まであるとは---」
平蔵がおもわず嘆声をあげてしまい、店の小女が聞き耳をたてているのに気づいた。
鬢(びん)をかき、
「肌の肌理(きめ)を細かくする薬は---?」

小女がわざとのように茶を淹(い)れかえにやってき、ゆっくりした動作で、元簡の言葉を待った。
平蔵が目顔で応えをうながした。

「そのことは『第二十六巻 仙道篇』に、いろいろ、あります」
小女はがっかりし、離れた。

「おもしろい。その『仙道篇』は、まさか、盗られてはおるまいな」
「あ奴らが狙ったのは、『房内篇』だけでした、『仙道篇』と『第四巻 美容篇』の写本は書庫蔵にしまってありました」
「『美容篇』---?」
「はい。ニキビやシミ・ソバカスを消し方などの美容一般が説かれております}

平蔵は、[化粧(けわい)読みうり]のことを話し、『美容篇』から若いおんなが喜びそうな知識を適当に選んで書きとめられないか。まとめは〔耳より〕の紋次(もんじ 37歳)がやるから、と頼んだ。

寄ってきた小女が、たもとから[化粧読みうり]の[脊丈が低いのを高く見せる化粧と着こなし]号をとりだして示し、
「お武家さん。これ、とってもためになるよ」

「ほら、ご覧のとおりだ。[化粧読みうり]に、広がった玉門をすぼめる薬の囲みを入れると、飛ぶように売れる。その相談は、版元の権七(ごんしち 48歳)どんをまじえて、のちほど---」
「承知いたしました」
「暇があるなら、これから深川の冬木町寺裏の茶寮へ行き、相談をつづけてもいいが---」
「お伴します」


ちゅうすけ注】『医心方』ついては槇 佐知子さん訳の筑摩書房版を参考にさせていただきました。

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2010.12.22

医師・多紀(たき)元簡(もとやす)(5)

「どうして妻帯をしないのか? とお訊きになりました」
筋違橋の手前で、多紀元簡(もとやす 26歳)が立ち止まり、平蔵(へいぞう 35歳)を瞶(みつめ)た。

「そこの茶店で、答えをお聞きくださいますか?」
「よかろう」


店の小女に注文をだしておき、
長谷川さまは、先刻、『房内篇』にお触れになりました」
「うむ」
「[第二十二章 好女(こうじょ)---いい女とは]をお読みになりましたか?」
「いや」
「『房内篇』がいう好女---とは、美人のことではありませぬ。交接にぴったりのおんなという意味です」

要するに、セックスが最高に楽しめるおんなについて『房内篇』は、古今の体験の結果を次のように総括していると、元簡が暗誦した。
暗誦できるほどに読みこんでいたのである。


入相(にっしょう)女人(にょにん)〕とは、天性が素直(すなお)、気質も声も温和。
毛髪は黒く、細く、艶やかで絹糸のよう。
肌は白くて柔らかで、骨は細く、中肉中背。
秘所は上つき。
そのときの愛液はたっぷりめにだせる。
恥毛はないか、あっても絹糸ようのが少し。
年齢は25歳から30歳までで、子を産んだことはない。

この条件を満たしている女性は、
交接のときに淫水を流れるほどに出し、
ゆれうごく躰を自分ではとめることができない。

しかも、男性の求めるままに躰が柔軟に応ずるので、
男性は、交接によって精力を減ずることがない。

里貴(りき 36歳)のことがいわれているようだ。
もっとも、里貴はいまでこそ36歳だが、初めてのときは、おれが29歳、里貴は30歳---ぎりぎりのところであったな)


また、こうも書かれている。


骨は細い、肌は肌理(きめ)細やかで艶があって若々しい。
しかも、透きとおるほどに清らか。
肉づきはたおやかだが、指の関節はくぼむほどに細い。
耳も目も高めになっている。
脊丈は高からず、低からず。
腿(もも)の肉(しし)おきはたっぷりしている。
玉穴は高めについているほうが具合がいい。
躰中の感覚が鋭敏で愛撫にすぐに応ずる。
しかも、真綿(まわた)のように柔軟。
体の生毛(うぶげ)は目立たない。
玉陰はたっぷりとうるおっている。
このような女性から生まれる子は、
才知がすくれていよう。


「このような女性(にょしょう)には、なかなかめぐりあえませぬ。それで、妻帯を逸してきました」

(おれは、芙沙阿記、お、お久栄貞妙尼里貴---と、それぞれに肌あいは異なるとはいえ、恵まれすぎたのだ)

「望みが高すぎるとは申さぬ。元簡どのがお求めの女性(にょしょう)は、かならず、みつかりましょう」
(げんに、おれが、5指にあまるほどめぐりあっているではないか)

こころの悩みの一つを打ちあけた元簡は、平蔵を真友のひとりに加えたようであった。


ちゅうすけ注】『医心方 巻二十八 房内篇』ついては槇 佐知子さん訳の筑摩書房版を参考にさせていただきました。

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2010.12.21

医師・多紀(たき)元簡(もとやす)(4)

「医家の平井(ひらい)うじ---?」
聞きなれない姓氏だったので、平蔵(へいぞう 35歳)が訊きかえした。

多紀(たき)元簡(もとやす 25歳)が経緯(ゆくたて)を話した。

平井家は、山城(やましろ)の京都の出である。
本家筋にあたる半井(なからい)瑞策(ずいさく)は声名が高く、天皇家の脈もとったことから、宮中につたわっていた『医心方』30巻を下賜されていた。

医家としてたった庶流は、そのうちの数巻ずつをひそかに写本することを許された。
幕府に番医として仕えていた平井家(300俵)も、そうした一軒であった。

写本のうちに、世の数奇者たちが読みたがる[房内篇]がふくまれていたことが、ここへきて幸いした。

というのは、元簡と同学であった平井由庵正好(まさよし 22歳)の実父・省庵正興(まさふさ 43歳)は、小石川養生所の番医の森専益正元(まさもと 享年52歳=寛保3年)のニ男で、21歳のときに平井家へ養子にはいったが、病身でいちども幕府の役に就けなかった。

本所の幕府材木蔵の裏で、頼まれると患者をみていた。

そういう家計(たつき)であったから、[房内篇]をはじめとする[産科治療篇][五臓六腑気脈骨皮篇]などを同業者へ貸し出しては余禄としていた。

「わかった。このことは秘して洩らさない」
確約したことで、平蔵は、のちの奥医・由軒(ゆうけん)を生涯の友とすることをえた。

「そういうことだと、盗賊たちが盗んだ[房内篇]は、原本ではなく、写本のまた写本なわけだ」
「さようです。売ったとしても、2朱(2万円)程度でしょう」
「では、この件は、火盗改メの役宅で話しあったとおりに町奉行所の扱いとして、奥女中のお(すぎ 40歳すぎ)が、お父上かそなたか、またはご舎弟のいずれかに、色事をもちかけたことは---?」

「手前にはありませぬ。すぐ下の2歳ちがいの弟・安貞(やすさだ 23歳)は、17歳のときに奥医・湯川家へ養子にだされていますから、おとそうなる機会はありませんでした。その下の弟・安道(やすみち)は、まだ10歳ですから---」

家譜をみると、安道の下に3男2女が記録されていいる。
生母は記述されていないが、学頭・元悳(もとのり 50歳=安永9年)が[房内篇]を服膺(ふくよう)していたことはこれでわかる。

の誘いにのったかって?
房内篇]には、30歳以上の女性とまぐわってはならないとあり、大奥の30歳でのお褥(しとね)すべりは これによっているともいわれている。

アラフォーの現代女性にはぜったいに認めがたい文言である。

もっとも、元悳が鼻の先でその禁令を笑いとばしていれば、40歳を越えてなお妖艶さを保っていたおの誘い応じていたかもしれない。

元簡どの、奥方は---?」
「機を失していまして---」

医家であった湯川家へ養子にいった舎弟・泰道の妻となった女性をひそかにおもっていた---などと考えるのは、小説の読みすぎであろう。

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2010.12.20

医師・多紀(たき)元簡(もとやす)(3)

越前)さま。わざわざ申し上げるのも口はばったいことですが、火盗改メのお役目は、一に、火付けと盗難をあらかじめ察知して防ぐこと、一に、被害を確認すること、一に、火付けと泥棒および博打にかかわった者たちを追捕すること、一に、刑を課すること、と存じおります。写本が取り締まるべきものであれば、それは、お町(奉行所)のしごとであります」

平蔵の言葉のうらを明察した(にえ) 越前守正寿(まさとし 40歳 300石)は大きくうなずき、
「人参の売りさばき先を、町奉行とともに手配することだな」
「御意(ぎょい)」
脇屋、すぐに手配を---」
筆頭与力・脇屋清助(きよよし 51歳)がでていった。

佐々木うじ。お願いしておいた、躋寿館(せいじゅかん のちに医学館)と多紀家の使用人のうちで、甲州弁かそのなまりをもった者は---?」

事件担当の佐々木伊右衛門(いえもん 41歳)は、老練な同心であったが、このときばかりは緊張したか、つまりぎみで、
「おりませぬ。甲州弁ではありませぬが、なにかの拍子に、上州なまりに近いのをもらすのが一人だけおりました。もっとも、ふだんはお座敷ことばでとおしていたようですが---」
「何者?」
越前守が聞きとがめた。

多紀家の奥女中で、お(すぎ)と申す、熊谷宿はずれの下石原村生まれで、府内の大きな店で行儀作法を仕こまれた、40を出たばかりのおんなです」
「じかに会ってたしかめたか?」
「はい。一皮むけたいいおんなでした。問いただしたときの所作に、疑わしいところはありませぬでした」

(たぶん、引き込みのお(てい)が化けたおであろうよ。14年前に本所の古都舞喜(ことぶき)楼から柳橋の〔梅川〕の仲居へ移ったお(まつ 29歳=当時)---あの女狐め、またぞろ、江戸へあらわれよったか。それにしても、おからおへ変名とは、思慮が浅いな)

参照】2008年8月18日~[十如是(じゅうにょぜ)] () (


解放された多紀元簡(もとやす 25歳)と並んで神田川にそって歩きながら、
「先刻、お打ちあけいただいた『医心方 房内篇』の元本からの写本はどなたの手で---?」
平蔵の問いかけに、あきらめきっていたか、
「焼失した館を、安永2年(1783)の春に父・法眼元悳 もとのり 49歳 )が再興したおりに、18歳であった手前が---」

「18歳といえば、あのように扇情的な内容のものを写筆なさると、陽棒が怒張しませんでしたか?」
「はい。相手のおんなの姿態をおもうと、とうぜん、玉茎(ぎょくけい)が直立・硬化します。それで、写本をもう一冊つくり、それを娼家の主(あるじ)にあたえて---」
「なるほど、わかります。ところで、元本の拝借は、やはり、橘家から---?」
元簡が凝立(ぎょりつ)して平蔵を見た。

「ちがいます」
「ほう、ちがいましたか。では、どちらから---?」
観念し、
「躋寿館(せいじゅかん のちに医学館)で同学であった平井寅五郎正好(またよし 22歳)の父御(ててご)・少庵正興(まさおき 43歳)どのからと聞いています」


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2010.12.19

医師・多紀(たき)元簡(もとやす)(2)

「多紀どの。どうしても合点がいかないところがあるのです」
役宅の表座敷に2人だけにしてもらった平蔵(へいぞう 34歳)が相談でもするように問いかけた。

相手は、盗賊に襲われた躋寿館(せいじゅかん のちに医学館)の多紀家の嫡男・元簡(もとやす 25歳)である。

8人の盗賊の首領格は、身の丈が5尺8寸(174cm)ほどの大男であったが、顔は覆面でかくしていた。
側についていた副将格は小男で、くしゃみの仕方、足の運びから60歳に近いと見えた。

平蔵は、首領は〔初鹿野(はじかの)〕の音松(おとまつ 50歳前後)、副将格は〔舟形(ふながた)〕の宗平(そうへえ 60歳前)と推察していた。

参照】2008年8月2日~[〔梅川〕の仲居・お松] () () () () () (7) (

しかし、口にはしなかった。

「合点がいかないとは---?」
「その盗賊たちが、現金のほかに、50両(800万円)相当の朝鮮人参と、さらにほかのものを奪っていったことです。賊は、現金はついでで、50両(800万円)分の朝鮮人参と、ほかのものが狙いであったようにおもえる」
「まさか、写本など---」
「いま、写本といわれたが、なんの写本かな? 『房内篇』?」
多紀元簡が口を抑え、瞠目(みつめ)た。

元簡が告白したところにころによると、躋寿館の塾生たちのほとんどは町医の子弟だが、中には清廉な医師の子もいる。
そればかりではなく、精気さかんな齢ごろなので、岡場所で遊ぶ金もほしい。
そういう塾生たちに『医心方 巻二十八 房内篇』の30章のうち、精気が衰えかけている男が好みそうな章---たとえば、

養陽 陽棒の巧みな使い方
養陰 思わず「死ぬ」と洩らさせる法
和志 互いに歓喜に達する交わり方
臨御 前戯のあれこれ
--- -------
--- -------
五徴 女性の快感の徴候の看察
五欲 :そのとき、女性がしてほしがっているのは
十動 そのときの女性のしぐさの意味
--- -------
--- -------

15章ばかり選んで写本させ、吉原遊郭の茶屋とか、岡場所のそういった店に買ってもらっていると。

「医者の卵たちが写本する---というより、和訳するのですから、勝手にふくらませた空想を加筆しているのです。そこが精気の減じている数寄者爺さんたちに喜ばれているのだそうです」
つまり、帝王たちのそれとは似ても似つかない、とんでもない色道の極意が流布しているとおもえばいい。

「その、元本が奪われた---と?」
「いえ。奪われたのは写本の写本です。賊たちは原本と思いこんでもっていったのでしょうが---。父・元悳(もとのり 49歳)といたしますと、そのようないかがわしい写本が、躋寿館の塾生によって行われているということがお上の耳に達することを恐れたのです」

「よくぞ、話してくださった。このことは、この部屋かぎりの秘密としましょう」
「かたじけなく---」

「もう一つ、お教えくださらぬか。50両分の朝鮮人参はなんのために---?」
「長崎の会所から、特別にまわしていただいたものです」
「ですから、なんのために---?」
「塾生たちの父親---すなわち、町医が、心易い富限者たちから万金をおしまないからと求めたとき、分与する備えです」
「ということは、多くの町医が、そのような人参が多紀家にあることを知っておると---?」
「はい」

多紀元簡が別室へ去ると、隣室から火盗改メ組頭・(にえ) 越前守正寿(まさとし 40歳 300石)と筆頭与力・脇屋清助(きよむよし 52歳)、同心・佐々木伊右衛門(いえもん 42歳)があらわれた。

組頭が感にたえたといった口調て、
「いや。じつにみごとな訊問でございった」
「いえ。犯人どもの手がかりは、まだ、つかめておりませぬ」

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2010.12.18

医師・多紀(たき)元簡(もとやす)

「すぐさま、(にえ) 越前)どののご役宅へおもむくように---」
呼びだされた平蔵(へいぞう 35歳)が 控えの間へあらわれると、西丸書院番4の組の与(くみ 組)頭・牟礼(むれい)郷右衛門勝孟(かつたけ 60歳 800俵)が告げ、用意してあった通用証をわたした。

今年にはいり、上の左の前歯がさらに欠けたらしく、言葉の切れがいっそうにぶくなっている。
息・千助勝昌(かつまさ 20歳)は3年前に初見をすませ、いつでも家督できるのに、当人は隠居する気はさらさらないようだ。
 
平蔵が退出しようとすると、呼びとめ、
「〔季四〕で、与頭の会合をもちたいのだが---部屋は抑えられるかの?」
予定日は、半月も先であった。
下城の道すがら---と応じようとし、思いとどまった。

「明日の七ッ(午後4時)に鍛冶橋下に黒舟を待たせておきますから、ご自身で下見に行かれてはいかがでしょう? 女将も喜びましょう」
「そうじゃの」
牟礼与頭の皺の多い頬がゆるんだ。


火盗改メの組頭・贄 越前守正寿(まさとし 40歳 300石)の居宅兼役宅は、九段坂下の堀に架かっている俎板(まないた)橋西詰であった。

とっさに判断し、桜田門を抜け、さいかち河岸から千鳥ヶ渕、九段坂の、人家を避けた道順をとった。
それは、昨夜読んだ『医心方 房内篇』の写本の出回りについて、考えごとをするためであった。

堀ぶちの柳樹がかなり芽ぶき、細い枝々のすき間をふさいでいた。

耳より〕の紋次(もんじ 37歳)は、初音ノ馬場脇の〔三ッ目屋〕が、『房内篇』の写本を売っているといっていた。

今朝、早めに起き、日課の鉄条入りの木刀の素振り300回を150回で切りあげ、昨夜、途中で読むのをやめた「第五章 臨御」---一事におよぶ前---(前戯)とでもいう章のつづきを開いた。

女性の丹穴(たんけつ)に淫液がこぼれるほどに満ちてきたら、すぐに陽棒を挿しいれ、たまらず精液を射(う)てば、双方の性液が丹穴の奥、襞という襞のすみずみでまじわりあい、女性は幽玄の極地に酔いしれる。

(丹穴のことを、里貴(りき 36歳)は、いま「見ておる芝生の真ん中の竪(たて)の割れ目を指で開くとあらわれる深い渕---」といったが、里貴の芝生はうすいが、絹糸のように細く艶やかだ)

陽棒を進退させながら、躰を接触させたり刺激したりしていると、女性はたまらず、〔死ぬ」とうめき、「どうかなっちゃう、助けて---」とうわごとを口にする。

そこまで読んだところへ、久栄(ひさえ 27歳)が朝餉(あさげ)を持った召使いをしたがえ、意味ありげな笑みをうかべたが、何げないふりで閉じ、手文庫に秘蔵した。

しかし、久栄のことだ、いまごろ、手文庫から出してのぞき読み、躰を熱くしているであろう。
(今夜は、危険かも---あとの2冊は戸袋へ隠しおいたが、「第五章 臨御」は携行すべきであったな)

贄 邸には、盗賊に襲われた躋寿館(せいじゅかん のちに医学館)の多紀家の嫡男・元簡(もとやす 26歳)が呼ばれていた。

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(移転後の医学館=緑の○と隣接した多紀家居宅 尾張屋板)


ちゅうすけ注】『医心方巻二十八 房内篇』ついては槇 佐知子さん訳の筑摩書房版を参考にさせていただきました。

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2010.12.17

医学館・多紀(たき)家(6)

井上立泉(りゅうせん 60歳)先生からお預かりして参りました。『医心方』の写本の中のものだそうでございます」
包みを受けとり、松造(まつぞう 28歳)をいたわった。

「お(つう 11歳)と善太(ぜんた 9歳)に食べさせてやれ」
両国橋西詰の店で買っておいた初霜せんべいをわたした。
「かたじけのうござります。喜びましょう」

包みには、写本のほかに、立泉らしい達筆の書簡が入っていた。

要点だけ写すと---

医心方』といっても、ご希望のものは巻ニ十八の[房内篇]であろう。
すなわち、閨房(寝間での男女の営み)での秘技と悩みを説いた篇のことである。
平安王朝のころ、天子のために伝来していたが、200年ほど前(16世紀)に天皇家より医師・半井(なからい)家へ下賜され、「禁闕の秘本」とされてきた。
ところがどういうルートかはしらないが、一部が写本として流布している。

わが手元の[房内篇]は、奥医・橘 隆庵法印どのから借りて写させてもらったものである。
ただし、第一章から第十二章までと、医師としてこころえておくべき第二十五章からおしまいの第三十章までである。
うち、「第五章 臨御」「第六章 五常(玉茎)」「第七章 五徴(女性の快感の五つの兆し)」ほかをお貸しする。
くれぐれも扱いに配慮のうえ、なるべく早くご返却いただきたい。


臨御]---房事におよぶ前---(前戯)とでもいう章の冊子を手にとり、平蔵(へいぞう 34歳)は、ぱらぱらとめくった。

私流に訳して記す。

第五章 臨御(ことにのぞんでの前戯)

初めて同士があいまみえるときは、とりあえず(全裸になって)座り、女性が左側に寝る。
男性はその右側に、枕を並べ、横たわる(こうすれば、男性の利き腕---右腕がなめらかに動く)。

女性はあおむけになり、股をひらき、腕を布団にのばす。
男性は女性がひらいた股のあいだに移り、かがむ。

堅くなっている玉棒で、芝生が茂っている隠唇の割れ目のあたりをこつこつと敲く(ノックする)。

割れ目の唇をちゃぴちゃと音を、立てて吸うのもいいし、灯をかざして看察すれば相手は興奮する。

乳房とおなかのあいだあたりを軽く撫ぜまわしたり、敲いたり、陰核の頭を指でやさしくなぞったり、掌を軽くまわしてみたりしてもその気を昂めよう。

ここまでじらすと、女性はもう、その気になりきっているし、男性も気がはやってきていよう。

しかし、まだ本番ではない。

玉門のあたりを金棒でかまわし、衝(つ)いたり、下の唇(金溝)をなぞったり、叩いて固めたり、入り口にちょっとあてて気をひいたりして、愛液の滲出ぐあいをたしかめつつ、しばし、休息。

平蔵は、おもわず周囲をみまわし、廊下の足音をうかがい、唾(つば)を飲みこみ、吐息をついた。
まずおもったのは、10年前の久栄(ひさえ 17歳=当時)との初夜の手順であった。

そこは、 〔狐火きつねび)〕の勇五郎(ゆうごろう 45歳前後=当時)という盗賊が囲っていたお(しず 18歳=当時)と短い情事をもった向島の寮だったから、部屋や湯殿になじみがすこしあった銕三郎(てつさぶろう 24歳=当時)は、花嫁に対して、いささか手順をはぶいていたかもしれない、と反省した。

参照】2008年6月2日~[お静という女](1) (2) (3) (4) (5

とはいうものの、読んでいるときに連想していたのは、なんと、里貴(りき 30歳)との最初の---『医心方』の用語にしたがうと「交接」、あるいは「交合」---を想起していたのは、不謹慎というか、それほど印象が深かったのであろう。

参照】2010118~[三河町の御宿(みしゃく)稲荷] () (a href="http://onihei.cocolog-nifty.com/edo/2010/01/post-6fa8.html">2)

われにもなく、躰が火照っていた。
もう、読みつづける気はしなかった。
秘本がどうして、〔三ッ目屋〕へ洩れたかも、いまは考えたくなかった。
寝間へ行き、寝衣に着替えた。

そのとき、襖があき、久栄が立っていた。
「おお。声をかけようとおもっていたところだ。休んで行け」
「お珍しい仰せですこと---」
舌先で上唇をなめた。

「そなたが嬉しいときのその癖、久しく出なかったな」
久栄は黙笑し、かかえていた枕をならべた。

(全裸であおむけになり、股をひらき、腕をのばせ)

平蔵が寝衣を脱ぐと、久栄もならった。


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(橘 隆庵法印の個人譜 『寛政重修l諸家譜)


ちゅうすけ注】『医心方巻二十八 房内篇』ついては槇 佐知子さん訳の筑摩書房版を参考にさせていただきました。

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2010.12.16

医学館・多紀(たき)家(5)

「壮年にもどすといえば、三河町の御宿(みしゃく)稲荷脇の家でもっていた、秘画はどうした?」

参照】2010年5月17日~[浅野大学長貞(ながさだ)の憂鬱] (

「紀州へ帰るときに、一つだけ残して処分しました」
立って、戸袋から絵草子を取りだし、ひらいた。

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(北斎『嘉能会之故真通(かのえのこなつ)』部分 小蛸のつぶやき
「親方がしまうと、またおれがこのいぼで、さねがしらからけつのあなまでこすってこすって、きょやらせたうえでまた、すいだしてやるにヨチウヨチウ」)

「どうしてこの絵なのだ?」
(てつ)さまの愛技に似ています」
「満ちたりているのだな?」
「たっぷり---」

平蔵は、春本の絵を睨んでは、里貴(りき 35歳)へ視線を移す仕草をくり返した。

「絵のような表情には、抱かれていないことには、なれません」
「そうではない。朝鮮人参を求める客は、このような春本や秘画も購(あがな)うはずと、おもいついたのだ」
「齢をとればとるほども、執着が増すといいます」

(こういうものを扱っている店のことは、〔耳より〕の紋次(もんじ 37歳)か、〔於玉ヶ池(おたまがいけ)〕の伝六(でんろく 39歳)代頭(だいがしら)だが、佐々木伊右衛門(いえもん 41歳)同心も気がついていよう)

さま。蛸---」


翌日、下城の道すがら、両国橋西詰・米沢町2丁目西露路で、紋次を呼びたした。
広小路の並び茶屋の美貌の女将・お(いく 31歳)の店へ案内された。

は飛び上がらんばかりにすり寄ってきたが、
「内緒の話がすんでからにしな」
紋次がさえぎると、不満げに茶釜のところへ下がった。

「このあたりで、精のつく朝鮮人参を売っている店は---?」
「みんなが知っていやすのは薬研堀の〔四ッ目屋〕でやす」

_360_2
(女小間物の〔四ッ目屋〕 『江戸買物独案内』)

聞き耳を立てていたおが、
「〔四ッ目屋〕って、あたしのような独り者の年増が、手なぐさみで満足するものを売っている店です」
「そういう下卑た話じゃねえんだよ。もちいと、引っこんでな」
腰を折っておいて、
「しかし、ここんところ、金持ちの旦那衆がひそかに通っているのは、橋本町4丁目、馬喰町・初音ノ馬場北の〔三ッ目屋〕で、ここの人参は、種馬になったかとおもうほど効くそうで---あっしは、まだその齢じゃねえんで、験したこたぁねえが---」

027_360
(馬喰町・初音の馬場 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

またもおが口をはさんだ。
「〔三笠屋〕の旦那の話じゃ、〔四ッ目屋〕のは3ヶ月も服用をつづけないと硬くならないけど、〔三ッ目屋〕のはその半分のうちに連戦できるようになるって---」
紋次がじゃけんに押しかえした。

〔三ッ目屋〕の仕入れ先をあたってくれるように頼み、ほかに噂を聞いていないか問うと、
「なんでやすか、『医心方』ってえ、唐土の天下将軍さんが密(ひそ)かに読んでるそっちのことを手ほどきした写本を売っているってささやかれていやす」
「『医心方』---?」

松造(まつぞう 29歳)を芝新銭座の表番医・井上立泉(りゅうせん 62歳)のところへ走らせた。

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2010.12.15

医学館・多紀(たき)家(4)

「手文庫にあった受講料はともかく、薬棚から朝鮮人参が盗まれたというのも、なんとなく気になるな」

_130平蔵(へいぞう 34歳)には、平賀源内(げんない 50歳)の飄々とはしているが、どこか神経質そうな風貌が浮かんだ。

参照】2008年2月29日[南本所・三ッ目へ] (

ちゅうすけ注】平賀源内は、翌年---安永9年(1780)12月に死んだという説のほかに、田沼意次によってひそかに相良藩領内へ送られ、70歳前後まで生きていたとの説もある。

それと、朝鮮人参に代わる竹節(ちくせつ)人参を源内からもらい、故郷の上総(かずさ)国寺崎村で栽培している下僕だった太作(たさく 70歳すぎ)の老顔であった。

参照
2010218[竹節(ちくせつ)人参] () () () () () () 

太作は、銕三郎(てつさぶろう 14歳=宝暦9年)がさなぎから男へ脱皮する手助けをしてくれた。

参照】2007年7月16日[仮(かりそめ)の母・お芙沙(ふさ)]

佐々木うじ。お手数だが、朝鮮人参を50両(800万円)分も、居宅においていたわけを、ご子息の元簡(もとやす 25歳)どのに、そっとお訊きくださるまいか?」
「それがしが訊くより、長谷川さまが元簡どのにじかにお訊きなるほうがよろしいかと。長谷川さまのご都合のよき日に、こちらへでも招じておきます」

承知し、さらに、躋寿館(せいじゅかん のちの医学館)と居宅に、甲州生まれ、あるいは甲州なまりのある使用人がいるかどうか、目黒・行人坂の大火で類焼したあと、再建したときの大工の棟梁の名前と住まい、そのときに働いた職人でいなくなった者はいないかどうかを調べるように頼んだ。

さらに、いま受講している者の親元が施療している科目も知りたいと告げた。


その夜、藤ノ棚の家で、立て右膝の里貴が、
「朝鮮人参ですが、紀州の貴志の村で、回春に効き目が高いと聞いたことがあります」
「回春---?」
(てつ)さまにはまるで縁遠いことですが、万金を積んでも、男としてのものを壮年のときに戻したいと願う殿方も少なくないと---」
「効くのか?」
「効くからこそ、万金を惜しまないのでございましょう」
「万金をくれるなら、拙のを貸してもいいぞ」

「馬鹿ばっかり。いやですよ、ほかの丹穴(たんけつ)に入るなんて---」
「丹穴?」
「芝生の真ん中の竪(たて)の割れ目を指で開くとあらわれる深い渕---」

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2010.12.14

医学館・多紀(たき)家(3)

「それが---です、元悳(もとのり 50歳)奥医どのと、息・元簡(もとやす 26歳)どのの話が微妙にくいちがっておりまして---」
先手・弓の2番手の(にえ)安芸守正寿(まさとし 39歳 300石)組の老練な同心・佐々木伊右衛門(いえもん 41歳)は、茶寮〔季四〕の凝った造作にはいっこうに興味をしめさず、まっすぐに本題にはいった。

気をきかせた里貴(りき 36歳)が、筆頭与力・脇屋清助(きよよし 52斉)の盃を満たしたあと、佐々木同心にもすすめたが、平蔵(へいぞう 34歳)を注視していた伊右衛門は気がつかない。

佐々木うじ、女将が酌をしたがっておりますぞ」
平蔵が笑いながら注意すると、
「あっ。これはご無礼を---。じつは、わたくし、生来、不調法でございまして---、一滴もうけつけないのでございます」
40歳をすぎても朴訥さを失>っていないので、親しみを覚えるとともに、海千山千の盗賊たちをあいての火盗改メの同心としてはどうかな---と案じもした。

ちゅうすけ注】鬼平ファンのあなたは、もう、お気づきであろうが、この佐々木伊右衛門は、文庫巻4[あばたの新助]に登場している新助の亡父である。
新助の甘いもの好きは、伊右衛門ゆずりであろう。

注がれかけた盃を膳へもどし、
法眼どのは、盗まれたなにかを隠しておられるように感じました」

神田佐久間町の躋寿館(せいじゅかん のちに医学館)に付属して建てられている学頭舎を兼ねた住居が襲われたのを、佐々木新之丞が係り同心としてなっているのであった。

ひとわたり酌をすますと、里貴は目顔で平蔵に会釈を送り、座をはずした。

賊は8人ほどで雨戸を庭側からはずして侵入し、抜き身でおどして元悳夫妻、元簡、奉公人たちを一部屋へ押し込んでしばりあげ、口封じの猿轡(さるぐつわ)をかけた。

手文庫から受講料として納入されたばかりの40人分240両(3,840万円)のほか、薬箪笥から50両(800万円)相当の朝鮮人参を奪い、廊下一面に鉄菱を打ちこんで引きあげたという。

「鉄菱を撒いた---のですな。その鉄菱は?」
「これです」
手拭で包んでいた鉄菱を佐々木同心が手渡した。

(14年前の、あの一味かもな)

参照】2008年3月31日~[初鹿野(はじかの)の音松] () () () () (
2008年4月27日~[〔耳より〕の紋次] () (2
2008年8月16日[〔橘屋〕のお仲] (

鉄菱を脇においた平蔵は、配膳された熱々のさざえの壺焼に箸をつけるようにすすめた。
切り刻んだ身のほかに、きくらげの刻みが散らしてあり、食べ加減の味付けがしてあった。

あと2品ほどと嫁菜飯を食し終えてから、、
佐々木うじ。法眼どの親子の口うらが合わないとお感じになられたのは---?」
元簡どのが何かいいかけたのを、法眼どのが一方的に、[それきりでござる]とさえぎったのです」

佐々木うじは、それが何であったと思われますか?」
鉄菱のことは伏せて平蔵が、問いかけた。


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2010.12.13

医学館・多紀(たき)家(2)

「奥医の多紀(たき)どの、のう。平安朝のころから御所の典医をつとめていた家柄で、江戸へ移ってからも、ずっと奥に伺候しておられる。家柄から申せば、わが家など、はるかにおよばぬ」

非番の日、久しぶりに芝・新銭座町に井上立泉(りゅうせん 62歳)先生を訪ね、多紀元悳(もとのり 50歳 200俵)法眼について訊いた平蔵(へいぞう 34歳)への応えであった。

参照】2007年8月9日[銕三郎、脱皮] (

「先代の平蔵宣雄 のぶお 享年55歳=1773)どのが放火犯を逮捕なされた目黒・行人坂の大火(1772)で躋寿館(せいじゅかん のちに医学館)も類焼した。しかし、いまの法眼どのは、私財を注ぎこんで再建なされた」
「私財を---?」
「左様、私財を---」
「美談でございますな」

「塾生たちの親元や終了者へも寄進状がまわされたが---当時、うちの息・茂一郎(もいちろう 銕三郎と同年配)もあそこで学んでいたから、応分の寄進をさせてもらったがの」
立泉の苦笑ぶりを見、平蔵は大方の経緯を推察した。

多紀家の祖は、大陸から半島へ移った王族の渡来人・兼康氏(かねやすうじ)であるといわれている。

躋寿館の建築をおもいたった31代目にあたる法眼元孝(もとたか 享年72歳=明和3年 1766)が、幕府の許可をもらったのは明和2年(1765)の5月(陰暦)であった。
江戸および近郊にも医学校の必要が感じられていた。

明和2年といえば、銕三郎(てつさぶろう)は20歳で、長谷川家は築地鉄砲洲tから、三ッ目通りの1238坪の敷地に新築なった家へ引っ越した年でもあった(敷地を購入したのは前年末)。

Photo50年以上も前に求めておいた富士川遊博士『日本医学史』(裳華堂 1904)が初めて役立った。

上掲書[徳川氏中世の医学 医学教育]からの引用---。

織・豊ニ氏時代ニ至テハ大学及ビ 国学ハ既ニ廃頽セラレ、医学ノ教育ハ学校ニテ施サルルコトナク、医学ヲ修メントスルモノハ各々其師ニ就キテ、其経験シ来タレル所ヲ伝授スルニ過ギズ、徳川氏ノ代ニ至リテ、江戸ニ多紀元孝ノ躋寿館(せいじゅかん のちに)医学館ヲ興セルアリ。

京都ニ畑黄山ノ医学院ヲ立ツルアリ。
各藩ニテモ鹿児島ノ造士館内ニ医学院アリ(安永ニ年 1773 創立)。
熊本ニ再春館アリ(宝暦六年 1756 創立)。
福岡ニ采真館アリ。
萩ノ明倫館内ニ医学部アリ。
会津ノ日新館内ニモ医学部アリ。
学校ヲ設ケテ、秩序的ニ医学ヲ教授スネコト此頃ヨリ始マレリ。

躋寿館ハ明和ニ年(1773)五月、多紀元孝ガ江戸神田佐久間町ニ創立スル所ニシテ、薬苑及ビ書庫ヲ始トシテ諸般ノ設備ナリ。
教課ハ本草経・素問・霊枢・難経・傷寒論・金匱要略ノ六部ヲ講究シ、更ニ経絡・計灸・診法・薬物・医案・疑問ノ六課ヲ設ケ、医案疑問ハ文辞ニ預カリ其他ハ皆事ニ就テ之ヲ伝へ、診法ニハ諸生ヲシテ鄙賎ノ治ヲ乞フモノヲ診シ、都講之ヲ教導シテ習熟セシム。

元孝歿スルノ後ハ其子元徳(元悳 もとのり)代リテ之ヲ監理シ、天明四年(1784)ヨリ百日教育ノ挙ヲ始ム。
其法格ハ毎年ニ月十五日ヨリ百日ノ間、有志ノ生徒ヲシテ学舎ニ入リテ研学セシメ、又外来ノ生徒モ日々講義ヲ聞クコトヲ得サシム。

其教説明ハ、前例ニ仍リ、六部ノ書ニシテ、元徳ノ子・元簡(もとやす 桂山ト号ス)ハ素問ヲ講ジ、山田図南、桃井陶庵ハ傷寒論、目黒道琢ハ難経、服部玄広ハ霊枢、加藤俊又ハ難経、田村元雄ハ本草、小坂元祐、岡田道民ハ経絡ヲ講ジ、儒家井上金峨、吉田篁墩、亀田鵬斉等モ亦経書を講ゼリ。

すでに記したように、医学館は2度の被災のあと、新シ橋北の向う柳原に再建された。
配置図が手元にあるので掲示する。

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引越し前の神田佐久間町の配置も似たようなものであったろう。
多紀家の所在も薬園も書庫も記載されている。

帰宅した平蔵は、松造(まつぞう 29歳)を、松島町に居宅を拝領している野尻助四郎高保(たかやす 63歳 35俵3人扶持)のところへやり、多紀家の諸事を依頼させた。

野尻高保は、庭番の子として生まれ、40歳まではその職にあったが支配の才と知識を認められ、3年前から書物奉行(役高200俵 役扶持7口)に抜擢されていた。

用を弁じていた長谷川主馬安卿(やすあきら 享年61歳=安永8年 1779 150俵)がそのころから病気がちになり、依頼を野尻助四郎へふったのである。

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2010.12.12

医学館・多紀(たき)家

茶寮〔季四〕の舟着きでは、最後の客が黒舟に乗ったところを里貴(りき 35歳)が見送っていた。
雪洞の灯でぼんやりと見ただけだが、一人の武士には見おぼえがあった。

平蔵(へいぞう 34歳)は船頭・辰五郎(たつごろう 50歳)に、
「船宿〔黒舟〕の舟のあいだにいれてくれ」
舟底へ伏せ、そこにあった刺し子の半纏をかぶった。

向こうの舟の櫓(ろ)の音が消えてから、舟を降りた。

帰り支度の里貴に、
「さっき、見送っていたのは、庭番の倉知政之助満済 まずみ 39歳 60俵3人扶持)だな」
「はい。お客さまをお連れしてくださったのです。歩きながらお話ししましょ」
「客とは、もう一人のほう---」
「〔越後屋〕さんの次席番頭の伴蔵(ばんぞう 51歳)さんとおっしゃいました」

遠国への用をいいつかった庭番が駿河町の越後屋(三井呉服店)の特別な部屋で変装に着かえることは、平蔵も承知していた。

「〔越後屋〕が接待に使ってくれると、現金掛け値なしで集金の手間がはぶける」
「ご冗談ばっかし---今宵はどちらからのお帰りですか?」
並んで歩きながら里貴は、人通りがないのを見透し、提灯を持ちかえ、掌をにぎってきた。
握りかえし、
「悪いが、武士は右手はいつでも刀が抜けるようにあけておかねばならない」
「では、左手を---」
里貴が武家屋敷の塀がつづいている左側へまわろうとした。

「左の手は、鯉口を切るためのものだ」
「おなごは、恋の口です」
左腕の上膊をとって胸に抱いた。

「飯田町中坂下の〔美濃屋〕で、火盗改メの(にえ)越前守 正寿 まさとし 39歳 300石)どのにご馳走になった」
「どうせ、捕り物の頼みごとだったのでしょう?」
「忘れないうちに、伝えておく。あさって、どのの組の筆頭与力と〔季四〕で落ちあう」
(てつ)さまは、捕り物となると、お目がなくなるのですもの---」

他愛もないやりとりをしているうちに、藤ノ棚であった。

「川風にあたって酒気が引いたようだ。すこし喉を湿めらせていくか」
「わたしのほうは、もう、湿っております」

すばやく冷酒をだし、隣の部屋で腰丈の寝衣に着替えた。
平蔵の寝衣をもってあらわれ、
「〔越後屋〕さんとつながりができましたから、新しいのを仕立ててもらいます」
にこにこと告げ、〔三井呉服店〕でのいいわけを工夫している。

「〔越後屋〕は〔季四〕の客になってくれる店であろう? そこで腰丈のものを買えば、番頭や手代がそれを着ているときの里貴の姿を話題し、みだらな笑いをかわすぞ」
「あ、ほんと---」
立て膝をやめたが、開きぎみの自分のまる見えの太股のつけ根を上から見おすと吹きだし、
「ご開帳のこの姿は、さまだけのものですものね」

冷や酒を呑みか酌みかわしたところで、
「一ッ橋の茶寮〔貴志〕のころに、奥医の客はいなかったか?」

言うべきか言わないでおくべきか迷っていたが、
「奥医のお方が、なにか---?」
「おお。和泉橋北の神田佐久間町に躋寿館(せいじゅかん のちに医学館)があることは知っておるな?」
「明和の初めに、多紀さまが建白なされて建てられたとか、うかがっておりますが---」

「あそこへ、賊が入った」
「あら---」

「〔貴志〕へは、田沼のお殿さま(意次 おきつぐ)が一度だけ、奥医・河野仙寿院法印さまをお招きになったことがございますが---」
「仙寿院通頼(みちより)どの---あっ」

参照】2010年9月20日~[佐野与八郎の内室] () () () () (

ちゅうすけ注】明和2年(1765)、神田佐久間町の幕府・測量所跡の1500坪に、薬園つきの躋寿館(医学館)Iが建てられたが、同9年(1772)の目黒・行人坂の大火で被災、多紀家は私財で再建したが、文化3年(1806)再び焼失。
神田川のすこし下流、新し橋北詰の1000坪の地に幕府の医学館として移転・再興。
下は、移転後の場所。

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(神田川左岸・向う柳原の医学館=赤○)

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(上切絵図=部分拡大 池波さん愛用の近江屋板 )

  


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2010.12.11

先手・弓の2番手組頭・贄(にえ)安芸守正寿(8)

有徳院殿吉宗 よしむね 享年68歳=宝暦元年)さまが復活なされた徒(かち)の士による大川の水練、水馬も、再興されておる」

(にえ) 安芸守正寿(まさとし 39歳 300石)の言葉に、平蔵(へいぞう 34歳)は躊躇なくうなずいた。
たしかに、家治(いえはる)は、祖父・吉宗の教えをよく守っていた。

「われを火盗改メにお命じになったのも、盗賊どもがはびこっては町々の者が安眠できまいとのご温情からであった」
「いかにも---」
応じた 組の筆頭与力・脇屋清吉(きよよし 52歳)は湯呑みを茶托へ戻し、平蔵へ、
「秘報であるが、先夜、神田佐久間町の躋寿館(さいじゅかん のちに医学館)に侵入した賊があった---」

正寿がすぐに言葉を足した。
「躋寿館の敷地つづきに居宅を賜っておる多紀(たき)法眼(ほうがん)どののほうだがな」

医科学校ともいえる躋寿館の学頭が多紀家であった。
当夜、学頭の法眼・元孝(もとたか 69歳 200俵)は、持病の血のめぐりの具合が悪く、駒込追分村の本屋敷に臥っており、敷地内の居宅には息・元悳(もとのり 50歳)夫妻と孫・元簡(もとやす 25歳)が起居していた。

長谷川うじ。このような供応の席で披露する話題ではない。あらためて、お暇なおりにでも役宅へお越しになって脇屋筆頭から聞くなり、係りの同心を呼ぶなりしてくだされ」

組頭が鷹揚にいい、お開きとした。

玄関で、脇屋筆頭に、、
「あさって夕刻でも、深川の{季四}で---」

耳に入れた正寿が微笑をたたえ、
相良田沼意次 おきつぐ)侯がおこころ入れをなされておる店とか---。今宵もそこでと、おもわぬでもなかったが、お客の陣地というのもどうかと案じての---はっ、ははは」

玄関を出た 組頭は、脇屋筆頭に
脇屋は中坂を上ったほうが組屋敷への近道であろう」

脇屋と小者が消えるのを見きわめ、俎板(まないた)橋西詰まで歩きながら、
「組の者たちの重荷になっては---と気づかい、座敷ではあのようにいったものの、法眼元悳どのはお上の脈もとっておっての」
「承りました」
「頼みますぞ」

くぐり戸から門内に消えたのを見送った平蔵松造(まつぞう 28歳)は、小石川橋のたもとで提灯をふり、それを合図に雪洞に灯をいれて船宿〔黒舟}と筆書きの字を浮きあがらせた小舟へ乗った。

小舟は神田川をくだり、浅草橋で松造をおろすと、大川から上(かみ)の橋をくぐり、油堀に入り、その先を曲がって〔季四〕の舟着きへつけようとした。

参照】2010年12月4日~[先手弓の2番手組頭・贄(にえ)安芸守正寿] () () () () () () (

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2010.12.10

先手弓の2番手組頭・贄(にえ)安芸守正寿(7)

長谷川うじは、煙草を喫するや?」
酒食が果て、茶を手にした(にえ)越中守正寿(まさとし 39歳 300石)が、平蔵(へいぞう 34歳)に問うた。

心得ていた料亭〔美濃屋〕の亭主・源右衛門が、茶とともに煙草盆を運ばせていた。

「いたって不調法でございまして---」

傍らに置いていた煙管(きせる)入れから抜きだした、小ぶりの銀煙管の雁首に薩摩(きざみ煙草)をつめながら、
「いまどき、珍しいの。実はわれが覚えたのは、伽衆として竹千代ぎみに近侍しておった14歳のときでの---」

{上さま(家治 いえはる)もお嗜みでございますか?」
「公けの席とか、人前ではお遣(や)りにはならないから、藩侯たちのほとんどは存じおるまいが、薩州侯長谷川うじが伺候しておる西丸の少老・鳥居丹波守忠意 ただおき 63歳 下野国壬生藩主 3万石)侯などは、定例の時献上(ときけんじょう)とは別に、領内産の煙草を呈しておられる。なに、大奥では老女たちも嗜んでおる」

ただ---と、正寿はつけ足した。

家治が上に立つ者の自戒の資となしている『貞観(じょうがん)政要』に、「嗜欲喜怒の情は賢愚皆同じ。賢者は能(よ)く之を節して度に過ぎしめず。愚者は情を縦(ほしいまま)にして、多く所を失うに至る」とあり、自らを律することひととおりではない。
火壷は真鍮の器にかぎり、煙管は銀づくりまでしか用いないと。

太宗は即位してすぐに、侍臣たちにいっている。
「人、明珠有れば、貴重せざるは莫(な)し。若(も)し以て雀を弾ずれば、豈(あ)に惜む可きに非ずや」
雀を撃つのに宝石を飛ばす者を正気の沙汰とはいわない。
ものに執着しないことが肝要である。

煙草といえぱ---と、平蔵は、12年ほど前に、東海道・六郷の渡しで出会い、煙草をすすめてくれた小柄な40男の述懐を話した。

参照】2008年6月25日[明和4年(1767)の銕三郎(てつさぶろう)] (

「しかし、煙草というのは便利なものですな。いままで存じあげてもいなかった、お逢いしたばかりのお若いお武家さまへ、煙草をおすすめしただけで、このように話の糸口がほぐれます。お武家さまが煙管におつめになるのは、1文するかしないかの寸量です」

話している平蔵も、聞いている正寿も、その男が大盗・〔蓑火みのひ)〕の喜之助(きのすけ 57歳)と知ったら、どれほど驚いたことであろう。

「そのような功徳もあろう。試みますか?」
「いえ。亡父の遺訓でありますので---」

備中(びっちゅう  享年55歳)どのは、火盗改メとして、われの目標でもある」
「恐れいります。父が聞いたら、どれほど喜びましょう」

ちゅうすけ注】聖典では、宣雄が京の西町奉行時代に、新竹屋町寺町西入の煙管師・後藤兵左衛門に50両(800万円)で替え紋の釘抜きを彫った煙管をつくらせたとある。
ちゅうすけは、愛煙家であった池波さんが創作の一つと推測していることはたびたび書いた。

その一つ---、2005年10月16日[名工・後藤兵左衛門作の煙管


参照】2010年12月4日~[先手弓の2番手組頭・贄(にえ)安芸守正寿] () () () () () () () 

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2010.12.09

先手弓の2番手組頭・贄(にえ)安芸守正寿(6)

有徳院殿吉宗 よしむね 享年68歳=宝暦元年)さまは、早くから竹千代(たけちよ のちの家治 いえはる)ぎみを鷹狩りにお連れになっていた。われが伽衆としてお傍(そば)にあがったとき(竹千代 15歳=宝暦元年)には、りっばに鷹をお使いであった」

前置きした(にえ)越前守正寿(まさとし 39歳 300石)は、平蔵(へいぞう 34歳)に問うた。
長谷川うじは、家基(いえもと 享年18歳=安永8年)公の鷹狩りに供奉なされたことがおありであろうな? 射鳥は---?」
「残念ながら---」
「ふむ」

参考】2010年5月7日[ちゅうすけのひとり言] (54

正寿は、自分が射的の褒美を授かったことはいわず、竹千代と鷹匠頭・能勢河内守頼忠(よりただ 享年72歳=安永3年)との秘話を語った。

有徳院殿さまがご崩じになった翌年の初春であったな。16歳におなりの竹千代さまが、吹上の池にきて求餌していた鴨へ、鷹をお放ちになったが逃げられておしまいになった」

後ろに控えていた小納戸・内山七兵衛永清(ながきよ 31歳 100石100俵)が、お腕は正しいが鷹の羽ぶりがよくないから獲りそこなった、と追従をいった。

鷹匠の頭の能勢頼忠(50歳)は、主君を愚昧にするなとばかりに、内山永清をじろりと睨み、
七兵衛の申しようは実ではありませぬ。その鷹はこれまで、手前が丹精こめて餌付けしたもので、羽ぶりは申し分ないほどに立派です。若君の腕が、いますこし練熟にいたっていなかったために逸ししたのです」
叱声をおそれずに直言した。

不快げな表情をおさえた竹千代が、
「それではその方、三角矢来にきておる白鷺(さぎ)を、この鷹で捕らえてみよ」

承った河内守は、ほどなくして白鷺をたずさえて御前へあらわれた。

河内)どのの直言、技(わざ)に、これこそ、『貞観(じょうがん)政要』(政体第2・第1章)にある、木(もく)、縄(じょう)に従えば則(すなわ)ち正しく、君、諫(かん)に従えば則ち聖(せい)なり、と公はいたく反省なさった」

「仕候している良臣の諫言(かんげん)を受けいれる帝たる者は聖人のごとくになれるというのは、分かります。木、縄に従えばすなわち正しい---とは?」
平蔵が興味深げに訊いた。

越前守正寿が解説した。

竹千代ぎみが弓技にすぐれていることは周知のことである。
武力でもって「貞観の治」をなしえた太宗も、弓術が自慢で、弓のことは奥義に達してしいると自惚れていた。
それで、10数張の良弓を手にいれたと吹聴し、弓工に示した。

ところがその弓工は、
「いずれも、良材ではありません」
理由を訊かれ、木目が曲がっていると応えた。

このことを引いた諫臣(かんしん)の一人である王珪(おうけい)が、先の言葉---

どんなに曲がった木でも、墨縄(すみなわ)にしたがってきればまっすぐになるし、どんな君主であっても、諫言を呈する家臣に従えば聖なる君主になれるものです。(「『貞観政要』に学ぶ。上に立つ者の心得」 渡部昇一・谷沢永一 致知出版社 2008)

(越前()どのは、盗みの世界にはいった者でも、法のあて方で正しい道に帰すことができるとおもっているのであろうか)

自分が、麦畑の畝を日光道中に竪(たて)にと進言したために、沿道の村々の者が苦労したことを、平蔵は苦くおもいだしていた。

現に、〔戸祭とまつり)〕の九助(きゅうすけ 23歳)を〔強矢すねや)〕の伊佐蔵(いさぞう 28歳)の許へ走らせてしまった。

参照】2010年10月20日~[戸祭(とまつり)の九助] () () () (4) () () () (


参照】2010年12月4日~[先手弓の2番手組頭・贄(にえ)安芸守正寿] () () () () () () () 

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2010.12.08

先手・弓の2番手組頭・贄(にえ)安芸守正寿(5)

「われは選ばれ、火盗改メの重責をになうことになり申した---」
(にえ) 越前守正寿(まさとし 39歳 300石)は言葉をつないだ。

お上(家治 いえはる)として西丸から本城へお移りになったので、われも小姓組番士として従い移った。
その後、しばしば、火災がつづいたことがあった。

「いや、明和9年(1772)の目黒・行人坂の大火事のときのことではない。行人坂の大火といえば、長谷川うじのお父上(宣雄 享年55歳=安永2年)が火付け犯をおあげになりましたな」
正寿の敬意の視線を感じた平蔵(へいぞう 34歳)は、軽く頭をさげて受けとめた。

参照】2009年7月2日~[目黒行人坂の大火と長谷川組] () () () () () (

「お上は、自らお庭の山へお登りになり、火の勢い、風の向きをたしかめたのち、齢の若い近習の者たちに火事場の実情を見てくるようにと仰せになった」

「なにか役立ちたくてうずうずしていた若い近習たちが、このときとばかりに喜びいさんでわれ先に駆けだそうとすると、お上は、しばし待て、とお止めになり、

「火災は、民の憂いの大なるものの一つである。民の憂いはすなわち余が憂いである。面白がることなく、地の遠近、火の緩急により、ほどこすべき術もあろう。汝ら、そのこころを体して見てまいれ。

「そのあと、残っていたわれらに、しみじみとお洩らしになった。

「近年、火事が多いのは、余の政事を天がおいましめになっているのであろう。、一層、心して政事に励まねばならない」

_100貞観政要』にも、こうある。

「水旱(すいかん 天候)、調(ととの)はざるは、皆、人君の徳を失うがためなり。朕(ちん)が徳の修まらざる。
天 当(まさ)に朕を責むべし。百姓、何の罪ありて、多く困窮するぞ」(山本七平さん『帝王学 「貞観政要」の読み方』 日経ビジネス人文庫 2001)


こんなことも最近、小納戸の根来内膳長郷(ながさと 35歳 500石)から聞いたことがあると、越前守正寿が話した。

湯殿で背中をお流ししていた根来内膳長郷(ながさと 33歳=安永6年)に、家治(41歳=安永8年)が、屋敷の場所と隣家を訊いた。

「駿河台小袋町(現・千代田区神田駿河台2丁目)に拝領しており、隣家はおなじく小納戸役を勤めておる平岡藤次郎道章(みちあきら 36歳=同 150俵)にございます」
もう片側の隣家がさらに訊かれた。
三渕(みつぶち)縫殿助(ぬいのすけ)正広(まさひろ 34歳 1200余石=同)も小納戸組なので、朝夕、公私ともに話しあっていると応えると、
「うらやましいかぎりである。予の近隣は、仲良くもなく、行き来もない」

はて、三家や三卿とは交誼が厚いはずだが---とおもつつ、ご近隣とは? と問うた。
「唐土、朝鮮、天竺、阿蘭、その他いかなる隣国があるか、もっといろいろあるであろうが、わからない」

「気宇壮大でございますな」
筆頭与力・脇屋清助(きよよし 51歳)が感にたえずといった声をあげた。

正寿は、そうではない、と柔らかくさえぎり、
「『貞観(じょうがん)政要』に[戦を忘るれば、即(すなわ)ち、人殆(あやう)し]---無防備のままでは、攻め込まれて国民を侵略の危険にさらす、とある。

しかし、[戦を好めば、人、凋(ちょう)す]---国民の生活が疲弊する、ともある。

武力の武は、もともと、弋(ほこ)を止めるという字である。武力をつかわないで先方から和と礼を求めてくるようにするのが最善である。

唐の太宗は、北荻(ほくてき)のある部族の凶暴な長(おさ)にむすめを縁づかせ、懐柔に成功した。

「お上がお考えになっている隣の国々との和も、これではなかったか」

平蔵(へいぞう 34歳)は、考えこんでいた。
田沼主殿頭意次 おきつぐ 61歳 相良藩主 3万7000石)侯が、愛妾でもなくむすめでもない里貴(りき 35歳)を、可愛がってやってくれ、といわれたのは、どういう意図からであったろう? いまさら、わかったとて詮ないことではあるが---)


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(根来内膳長郷の個人譜)


参照】2010年12月4日~[先手弓の2番手組頭・贄(にえ)安芸守正寿] () () () () () () () 

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2010.12.07

先手・弓の2番手組頭・贄(にえ)安芸守正寿(4)

「われが『貞観(じょうがん)政要』に初めて接したのは、宝暦元年(1751)、すでに大納言であられた竹千代(たけちよ 15歳)ぎみの伽衆として出仕したときでな」
先手・弓の2組の組頭(くみがしら)で、安永8年(1789)正月16日に火盗改メを拝命した(にえ)安芸守正寿(まさとし 39歳 300石)が、目を細め、思い出をかみしめる口調で話しはじめた。

列席していた同組の筆頭与力・脇屋清助(きよよし 52歳)は、すでに幾度も聞いているはずだが、初めてしる挿話のごとくに耳をかたむける。

講じたのは、竹千代が9歳のときからの四書五経の師・成嶋道筑信遍(のぶゆき 72歳=安永8年)であった。
将軍となったときに信条となる書籍を、のちのち諫言の士となってくれる者とともに学びたいと望んだので、『貞観政要』を、大御所・吉宗(よしむね)が選んだという。

徳川実紀』の[淩明院殿付録]に、

有徳院殿(よしむね)、常にのたまひしは、竹千代(淩明院殿御小字)に物学びさするも、我世にあるほどの事こそあれ。わが世になからん後には、いかなる障礙の出来て、廃学に及ぶ事のなかるべきにもあらず。

竹千代の修学をいそいでもいた。

_130山本七平さんに『帝王学貞観政要」の読み方』(日本経済新聞社 1983 のち日経ビジネス人文庫 2001)があり、前書きに---

「貞観の治---これは中国では、理想的な統治が行われた時代の一つとして、後代の模範とされた時代である。日本は中国の影響を強く受けたといわれるが、正しくはむしろ「唐の時代の影響を最も強く受け、後に宋学の影響も受けた」というべきあろう。
これは日本の文化にとって、非常に幸運であった。他の文化を輸入して継承したケースは多くの国にあるが、それは必ずしもその国の最高とされる時代のものではなく、時には頽廃を輸入・継承する場合もある。
ところが日本は、唐が衰退・頽廃の時代に入ったころは、遣唐使の派遣をやめてしまって、すでに得たものを自己の伝統の中に組み込むことに専念していた。
従って、「貞観政要」的な考え方・見方は、一種の「感覚(センス)」となって現代にも残っている。
(略)
本書はまず帝王の必読書として天皇に進講され、やがて北条、足利、徳川氏らが用い、民間でも知識人の必読書として読まれた。
(略)
面白いことに日蓮はこの書を筆写している。
(略)
そういう一般的な影響とは別に、本書から強く影響をうけた代表的人物をあげれば、一人は尼将軍北条政子、もう一人が徳川家康である。
(略)
政子や家康が、、「貞観政要」を一心に読んだのも、その前に「創業」に成功して「守文」に失敗したものがいたからであろう。
武家政治の創業はむしろ平清盛であろうし、全国統一の創業は信長、完成者は秀吉であろう。
なぜ彼らは維持・守成できなかったのか、どうしたらその轍を踏まないですむか。
この問題意識があったからであろう。
私は、政子が読んだのは頼朝が読んでいたからでないかと想像しているが、そう想像する理由は、頼朝自身に常に「守文」(維持)という意識が明確にあるからである。
そして、以上のような意識をもてば、「貞観政要」はまさに格好の教科書だからである。
というのは、この書の主人公である唐の太宗が、頼朝や家康に、やや似た位置にいたからである。
そして、「貞観政要」から唐のニ百八十九年の維持の基本を学んだことが、鎌倉百四十年、徳川ニ百七十年の、重要な要因であったろう。


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(竹千代たちに『貞観政要』を講じた成嶋道筑信遍の個人譜)


参照】2010年12月4日~[先手・弓の2番手組頭・贄(にえ)安芸守正寿] () () ()  () () () () 

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2010.12.06

先手弓の2番手組頭・贄(にえ)安芸守正寿(3)

大御所となって西丸に移り、病身の将軍・家重(いえしげ)を蔭で支えていた吉宗(よしむね 享年68歳)は、同じく西丸で育っていた竹千代(たけちよ)をことのほか可愛がり、膝にのせ、天下を治める次期将軍としてのこころえを聞かせたといわれている。

吉宗が少年・竹千代に語り聞かせたものの一つが、唐の太宗(たいそう)の治績を記した『貞観(じょうがん)政要』であったことは、吉宗が紀州侯時代から愛読していたとの風評もあるから、まず、間違いなかろう。

幼い竹千代は、耳にたこができるほど、太宗の逸話を聞かされたろう。

その吉宗は、宝暦元(1751)年6月20日に没した。
竹千代は15歳であった。

吉宗が没する3ヶ月前の3月19日に、大納言竹千代の伽衆として、秋山豊三郎正員(まさかず 10歳 4,700石)、贄(にえ) 市之丞正寿(まさとし 13歳 300石)、建部(たけべ)金之丞広通(ひろみち 10歳 300石)が発令された。

おそらく、選抜には、吉宗の意向が反映していたろう。

とりわけ、贄 市之丞の祖父・掃部正直(まさなお)は、紀州藩の家臣時代、200石の小姓組番士として吉宗に近侍しており、赤坂の中屋敷から随伴、そのまま本城の小姓となったが、3年後に28歳で卒した。
遺跡と職席は弟・左膳正周(まさちか 享年70歳)が継いだ。

市之丞正寿はその嫡男だが、正腹の子ではない。
母は、町方の女と推測。
父・正周の正妻は、やはり紀州藩近習番から本城の小納戸となった岩田平十郎定勝(さだかつ 享年74歳)の長女だが、その後離別している。


贄 壱岐守正寿(39歳)が火盗改メに任じられたのは、安永8年正月15日であった。
前任の土屋帯刀守直(もりなお 46歳 1000石)が大坂町奉行へ栄転したからである。

2月中旬に、先手組・弓の2組---すなわち、贄 正寿が火盗改メの組頭をしている筆頭与力・脇屋清助(きよよし 52歳)から、平蔵(へいぞう 34歳)へ、
組頭が飯田町中坂下の料亭〔美濃屋〕源右衛門方で一献差しあげたい---

との、招きがあった。

贄家の屋敷を切絵図でたしかめると、いまの靖国通りの俎板(まないた)橋の九段坂下側の南詰で、料亭〔美濃屋〕へは1丁(100m弱)。

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(赤○=贄家 役宅でもある。 緑○=料亭〔美濃屋〕)

紀州藩士からご家人にとりたてられた家柄なのに、江戸城にも近いここへ屋敷を下賜されたのは、市之丞が伽衆に抜擢されたあと、13歳では登城が苦労であろうと、屋敷替えがあったと推測する。
もちろん、あくまでも推測にすぎない。

ともかく、招かれた平蔵は、
(おおかた、土地(ところ)々々の元締衆への火の用心の夜廻りの手札の下げわたしのことであろう)
ぐらいの軽い気持ちで出向いた。

亭主の源右衛門が、
「お頭(かしら)さまは、ほんのすこし前に、お着きになりました」

「遅れまして---」
平蔵が廊下で詫びると、
「なんの。役宅から近すぎての」
組頭は、旧知の客に対してでもいるかのように穏和に応じたので、たちまち空気がうち解けた。

長谷川うじが一刀流の目録をお持ちのことは存じおるが、弓馬はいかがかの?」
家治は、竹千代時代に馬術・弓術に長(た)けていたから、市之丞も鍛えたのであろう。

「なかなかに上達いたしませぬ」

「書籍は---?」
「ときどき『孫子』を---』
「ほう---」
越前)さまは---?」
「お上とともに、もっぱら、『貞観(じょうがん)政要』を---」

貞観政要』は、平安時代に到来し、北条政子が和訳させて熟読したとつたわっている。
家康は、駿府で板行させた。
紀州では、代々の藩主が政事の資としつづけた。

長谷川うじも聞き及んでおるとおもうが、有徳院殿吉宗)公が江戸城の主(あるじ)とおなりになったとき、大奥の美女を書き出せとお命じになり、すわこそと勇みたった女性(にょしょう)たちに、美人であれば嫁になるのも易(やす)かろうと、暇をおだしになった---」
「はい」
「あれは、『貞観政要』に記されている唐の皇帝・太宗李世民)が、後宮に3000人もいた女官を、人民の富を浪費するといって減らした故事におならいになったことなのでの」

そのことを初めて聞いた平蔵は、『貞観政要』が亡父・宣雄(享年55歳=安永2年)の蔵書のなかにあるやもしれないと判じ、その書名を銘記した。


参照】2010年12月4日~[先手・弓の2番手組頭・贄(にえ)安芸守正寿] () () () () () () () 

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2010.12.05

先手・弓の2番手組頭・贄(にえ)安芸守正寿(2)

堺奉行としての(にえ) 安芸守正寿(まさとし 300石)の事績にまで筆(打鍵)が及んだついでなので、記してしまおう。

正寿には称呼国名が、壱岐守越前守安芸守と、3つある。

壱岐守を受爵したのが、宝暦6年(1756)12月18日、16歳、西丸の小姓組のときだから、任えていた竹千代(たけちよ 20歳 のちの将軍・家治(いえはる))の推挙であったろう。

しかし、越前守安芸守の叙爵の時期は、『寛政譜』には明かされていない。

徳川実紀』は、宝暦元年(1751)3月19日の項に、

百人組の頭・秋山十右衛門正苗(まさみつ 4,700石)の子・豊三郎正員(まさかず 10歳)、寄合・贄 左膳正周(まさちか 300石)の子・市之丞正寿(まさとし 11歳) 大納言竹千代 15歳)殿の小納戸・建部(たけべ)兵庫広高(ひろたか 300石)の子・金之丞広通(ひろみち 10歳) 大納言殿の伽衆となる。

ちゅうすけ注】3人の伽衆の年齢は、ちゅうすけが試算していれた。

伽衆の選抜基準は、家柄もあろうが、その嫡子たちの聡明さ、忠節心、性格、機転、話題などであろう。

ちゅうすけ注】秋山十右衛門は、姓から察しがつくとおり、武田方からの家系で、『剣客商売』の秋山小兵衛は、そのながれを汲む郷士の家の出である。

実紀』についていうと、例年12月18日前後に階位の上がった者、初めてなんとかの守の爵位を受けた者、および布衣(ほい)を許された者の名簿を掲げている。

それによると、伽衆の少年3人のうち、市之丞正寿(18歳 西丸・小姓組)だけが宝暦6年(1756)12月18日に壱岐守に叙され、豊三郎正員(17歳 西丸・小姓組)と金之丞広通(17歳 西丸・小姓組)は2年遅れた宝暦8年(1758)12年18日にそれぞれ伊豆守駿河守を受勲している。

この叙勲歴から、竹千代の寵が大きかったのは市之丞正寿であったという推測もできなくはないし、顔相もすぐれていたかもしれないが、称呼は国名の大きいほうが重きをなすという通説からすると、壱岐国よりも伊豆国、さらに大きいのは駿河国である。

秋山豊三郎は家禄が4,700石と、贄 市之丞よりもはるかに高いが、29歳で歿した。
建部駿河守広通も徒頭(かちのかしら)まですすみながら、35歳で病死している。

壱岐守正寿が、旧友2人の分もあわせて忠勤をこころがけたことはまちがいない。

さて、越前守安芸守の称呼はいつからか、だが、いまのところ、未詳としかいえない。

寛政譜』にその記載がないことはすでに明かした。

実紀』も、先手・弓の頭に抜擢された安永7年(1778)2月28日の項にも、火盗改メを命じられた同8年(1979)1月18日の項にも補記はない。

柳営補任』は、先手弓の2番手の頭への就任を記したときに、越前守としているから、それ以前のいつかに叙されたのであろう。

実紀』は、天明4年堺奉行の項にも補記していないが、『柳営補任』は越前守を踏襲し、但し書きで安芸守を附しているから、在任中の叙爵であったと推論できる。

とわかっても、あしかけ10年間の『実紀』を仔細に検分している時間は、いまはない。
実紀』の「索引」ページに記載がないことは、いうまでもない。

ちゅうすけ注】ふつうは、遠国奉行に任じられると、それまで受爵していなかった者は、発令後1ヶ月前後にたいてい授けられる。
だから、贄(にえ) 越前守正寿もそうかと断じ、堺奉行に発令された天明4年(1784)7月2
6日から年末までの『実記』をあたったが、索引されていなかったとおり、下叙の記述は見つからなかった。

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(秋山豊太郎正員の個人譜)


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(贄 市之丞正寿の個人譜)


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(建部金之丞の個人譜)


参照】2010年12月4日~[先手弓の2番手組頭・贄(にえ)安芸守正寿] () () () () () () (

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2010.12.04

先手・弓の2番手組頭・贄(にえ)安芸守正寿

進みすぎた暦を安永8年(1779)4月まで戻す。
将軍・家治(いえはる 43歳)の継嗣・家基(いえもと 享年18歳)の葬儀が終わった翌月である。

長谷川平蔵(へいぞう 34歳)は、主(ぬし)がいなくなり、哀悼とともに虚脱感が濃い西丸の書院番4の組に、いままでどおりに出仕していた。

月に3宵か4夜は、深川・藤ノ棚を訪れ、里貴(りき 35歳)の肌を桜色に喜ばせてもいた。

参照里貴の仮寓のある亀久橋にそった藤ノ棚の地名は、尾張屋板の切絵図には明示されていない。

しかし、『鬼平犯科帳』文庫巻1の[むかしの女]p279 新装版p295 には、ちゃんと書かれている。
これは、池波さんが、かつて名古屋で求めた近江屋板に拠っていたからである。


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(近江屋板切絵図 青○=「俗に藤ノ棚と云ふ})

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(近江屋板切絵図 藤ノ棚の周辺)

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(尾張屋板切絵図 赤○=藤ノ棚あたり)


こまごましい瑣事や生ぐさい房事の報告はあとまわしにし、すでに記した人事の再確認をしておきたい。

安永7年(1778)2月28日、小姓組番士頭取より、先手・弓の2番手の組頭として着任した(にえ) 安芸守正寿(まさとし 38歳 300石)の素描をこころみたい。

先手・弓の2番手の組頭の先任者は、長谷川本家太郎兵衛正直(まさなお 69歳=安永7年 1450石)が他組から転じてき、1年2ヶ月ほど在勤した。

後任の贄 越前守正寿は、5年5ヶ月その職にあり、うち4年8ヶ月、火盗改メを命じられていた。

とのあえず、贄 正寿に触れた記録にリンクしてみよう。

参照】2010年4月8日[ちゅうすけのひとり言] (55) 

じつは、『寛政重修諸家譜』の贄 正寿の項を読んで、この記述に興味を大いにひかれた。


天明四年(1784)七月二十六日堺奉行にうつり、(8年後の)寛政四年(1792)五月二十三日江戸にめさるゝのところ、土地の者ども挙て相おしみ、なをしばらく職にあらむことを訴ふるのむね上聞に達せしかば、すなわち糺さるゝのところ、民みな正寿が風化に帰服しあるのよし聞こえしにより、賞せられ、武蔵国比企郡のうちにおいて百石の地を加へられ、もとのごとく職にあり、なをさらに相励てつとむべしとの恩命をかうぶる。
(寛政)七年(1795)十一月十九日堺にをいて死す。年五十五。


徳川実紀』も、同年5月23日の項に、


堺の奉行 贄 安芸守正寿こたびめされて下りしに、その所の者共皆請い申て、今しばし転役命ぜられぬやう申せし事聞えあげれば、御検察もありくにや、一統に帰伏たがふ所なし。一段の事に覚召され禄百俵を増賜ふ。こたげの所は別に仰出さるべし。早々任所へ立帰り猶精研励むべしとなり。


幕府としては、異例の処置であったろう。
善政の宣伝にはなる。

能吏というより、町方にとっての数少ない良吏であったのであろう。
生きながらえておれば、もしかすると、大坂町奉行であったかもしれない。
もっとも、町方にとっての良吏を、幕府の上層部が好んだかどうかはわからない。

堺町の町人から、余人をもって代えがたいほどのいかような事績があったのか、都中央図書館蔵の1930年刊『堺市史』でひろった。
ほんの10数行、記録されていた。


歴代奉行中錚々(そうそう)の人物であった。
寛政五年(1793)四月事以て参府を命ぜられた際、転職の風評あり、出発に際して市之丞を惜しみ、大坂城代に対し再勤の願書を提出した。(文化10年手鑑)
五月幕府は正寿の治績を嘉し、かつ市民の哀情を察し武蔵(国)比企郡内に於いて食禄百石を加増し、帰任せしめた。
在職中天明の飢饉にはよく処置を過たず、又吉川俵右衛門の築港事業を助け、工事中に土砂の運搬所、いわゆる砂持始まり、市中殷賑を極めた。
正寿工事の場所に出馬して、手伝いの町民等へ一々神妙との詞(ことば)をかけ、これがために人々更に力を得、一層工事が進捗したと云われてゐる。(堺御奉行代々記)

(寛政)七(1795)年九月病に罹り、十一月十九日卒去、享年五十五歳であった。
湊村で荼毘(だび)し、南宗寺に葬った。(茅溟刺吏鑑)
墓表に寛量院殿従五位下前芸州刺吏海印紹信居士とみえる。


墓碑の「紹信」は『寛政譜』に記されている法名「超信」の誤記かもしれないが、あるいは『寛政譜』のほうが誤っているのかもしれない。

南宗寺は、堺市堺区南旅籠町東3-1-2に現存しているが、墓標は先の空襲で破壊され消滅した。

墓碑に「芸州刺吏」とあるのは、歿時の爵名の「安芸守」であろう。
正寿は、壱岐守、越前守をも称しているが、この2つへの改称年月は未詳である。

また、堺奉行時に妻子を帯同していたか否かも記録を見ていない。


ちゅうすけのつぶやき】明治へ移行時、贄 家も駿河へ転居したとおもわれるので、SBS学苑[鬼平クラス]で、クラス・メイトなり職場に、贄姓の方はおられなかったかと訊いたが、手はあがらなかった。
むしろ、和歌山の鬼平ファンに問いかけたほうが反響があるのかもしれない。


参照】2010年12月4日~[先手・弓の2番手組頭・贄(にえ)安芸守正寿] () () () () () () () 


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2010.12.03

継嗣・家基の急死(3)

暦は2年すすむが、一応、記しておく。

安永10年(1781)の2月23日、3回忌の法会があり、4月2日、天明と改元された。
改元は、2年前の11月、光格天皇の即位によるものであろうが、あたかも、家基の喪あけにあわせたような形になった。

幕府は、天明元年(1781)4月15日、老中・田沼主殿頭意次(おきつぐ 63歳 相良藩主 3万7000石)、若年寄・酒井石見守忠休(ただよし 78歳 出羽・松山藩主 2万5000石)、留守居・依田豊前守政次(まさつぐ 80歳 1100石)に、将軍職を継承する者の人選をするように命じた。

参照】200713~[平岩弓枝さん『魚の棲む城』] () (

田沼意次につづいた2人が高齢なのは、長い経世の世間智を買われたともとれるが、田沼のおもいどおりに異をとなえないとみられたともおもえる。

将軍に世継ぎがいないときは、田安一橋清水から選ぶということは、吉宗の構想であった(清水家家重(いえしげ)の子)。

田安は2代目当主だった治察(はるさと 享年22歳)が子なくして逝き、次弟・定国(さだくに 25歳)は13年前に伊予・松山の(久松松平家へ養子として出てい、その下の定信は7年前に奥州・白河藩へ養子におさまっており、将軍の養い子となる男子は残っていなかった。

参照】2010年3月21日~[平蔵宣以の初出仕] () (
2010年3月29日[松平賢(よし)丸定信

自分の養子縁組を進めたのが田沼意次であると類推した定信は、恨みをもちつづ:け、この時から7年後に、田沼を失脚に追いこんだともいわれているが、政敵とは、そのようなものであろう。

結局、家治(いえはる)の養子は、一橋治済(はるさだ 31歳)の長男・豊千代(のちの家斉 いえなり 10歳)となった。


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2010.12.02

継嗣・家基の急死(2)

徳川実紀』によると、家基(いえもと 享年18歳)の霊棺の埋葬は、安永8年(1779)3月19日、東叡山であった。

山里腕木門から吹上門、矢来門、竹橋門と、江戸城の西側---裏側を抜け、筋違門(すじかいもん 現・万世橋)をとおって御成道を上野山へ向かった。

西丸の書院番士として、長谷川平蔵(へいぞう 34歳)が霊棺の護衛にあたったかどうかは、確認できなかった。

徳川実紀』の[淩明院殿付録巻2]は、継嗣・家基を失った家治(いえはる)の嘆きぶりを以下のように記述している(現代文に書き改めた)。

孝教院殿(家基)が逝去したとき、家治は深くいたみ悲しみ、朝夕のご膳さえすすまなかった。

ちゅうすけ注】これより前、江戸城入りした吉宗(よしむね)は、食事は朝と夕(午後4時)の2食、それも1汁3菜を守ったと伝わる。
家治もそれを踏襲していたか?

老臣をはじめ、近習、外様の人びとまでその健康を気づかった。
某日。老臣(西丸若年寄・鳥居丹波守忠意 ただおき  63歳 下野国壬生藩主 3万石)が、側衆ともども拝謁したとき、弔辞と諫言を申しのべた。

参照】2010107[鳥居丹波守忠意] () () () (

「このたびの突然のご不幸は、臣下としても悲しみ嘆くばかりですが、子が親に先立つということは、貴賎を問わず襲ってくる痛手であります。
しかしながら、お上のお齢は、ご高齢からはるかに遠く、これから幾人もおつくりになれましょうゆえ、どうか、お悲しみもほどほどになさり、お躰をおいといなさいますよう」

これに対し、家治が応えた。
1国を見ているだけの大名などとは異なり、天下の重任をあずかっている。中年を過ぎ、そこそこに年輪をかさねた世継ぎの子を失い、天下の政事をゆず.ることのできる男子がいないでは、もし、予に不慮のことでもおきたら、天下や国民はどうなるのであろうと思慮し、嘆いているのである。

つまり、個人的な悩みではなく、天下を預かり、その責任の重さを受けとめている者の苦慮であると。
もし、自分にもしものことがあり、世継ぎがいないときには群雄が蜂起、天下は戦乱の巷となり、それによって苦難を背負うのは国民である。
それを避けるには、どうすべきか、悩みはつきない、と。


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2010.12.01

継嗣・家基の急死

安永8年(1779)2月2月21日、将軍の世子・家基(いえもと 享年18歳)の大井の新井宿あたりでの鷹狩りで、死への発端がおきた。

1月から例年よりもしげく行われそうな様相をしめしていて、この年、4度目であった放鷹だが---それまで異常はなかった。
だから、品川の東海寺での休息のとき訴えた不調が命とりにつながるとは随伴しただれ予想しなかったが、とりあえず帰城した。

3日後の巳の刻(午前10時)ごろに、家基の生命がつきた。


安永8年(家基18歳)
 1月9日  小松川のほとりで放鷹。
   21日  ニ之江(葛飾)のほとりで放鷹。
 2月4日  目黒のほとりで放鷹。


12歳から始まった、この年までの鷹狩りの記録。

ちゅうすけ注】明和9年(1772 安永と改元して元年)の2月に目黒・行人坂の放火で江戸の3分1以上が焼失したため、同2年(1773)も、将軍・家治も鷹狩りは控えた。
当然、家基の初鷹狩lりも遠慮したろう。

安永3年(家基12歳)
 4月18日  浅草のほとりで放鷹。
 5月2日  羅漢寺(東深川)のほとりで放鷹。

安永4年(家基13歳)
 5月15日 羅漢寺のほとりで放鷹。
 11月23日 浅草のほとりで放鷹。

安永5年(家基14歳)
 3月7日  王子のほとりで放鷹。
 11月23日 木下川のほとりで放鷹。
 11月19日 小松川のほとりで放鷹。

安永6年(家基15歳)
 1月21日  千住のほとりで放鷹。
 2月2日  目黒のほとりで放鷹。
 3月9日   雑司ヶ谷のほとりで放鷹。
   27日  志村のほとりで放鷹。
 4月9日  目黒のほとりで放鷹。
 5月2日  小菅のほとりで放鷹。
 10月11日 高田のほとりで放鷹。

安永7年(家基16歳)
 1月21日  千住のほとりで放鷹。
 3月5日  浅草のほとりで放鷹。
 4月23日  落合のほとりで放鷹。
 5月2日  浅草のほとりで放鷹。
 10月2日  中野のほとりで放鷹。
 11月13日 亀有のほとりで放鷹。
 12月9日  西葛西のほとりで放鷹。
 12月21日 千住のほとりで

安永7年(家基17歳)
 1月21日  千住のほとりで放鷹。
 5月 1日  浅草のほとりで放鷹。
   13日  亀有村のほとりで放鷹。
   28日  深川のほしりで放鷹。
 10月2日   中野のほとりで放鷹。
   27日  浅草のほとりで放鷹。
 11月13日 亀有のほとりで放鷹。
 12月21日 千住のほとりで放鷹。

鷹狩りは、渡り鳥が滞在している時期の、格好の行楽を兼ねた武技の競技でもあったが、『徳川実紀』も将軍分のほかは射鳥した士の報賞の実績を記していない。

そのため、放鷹に供奉した番士たちの推測もできず、34歳になっていた平蔵が2月21日にしたがったかどうかもわからない。

主(あるじ)を失った西丸だが、書院・小姓の各番頭は、家基の3回忌が終る天明,元年(1781)春までそのままの体制を解かないようにいわれたようであった。

したがって、長谷川平蔵も天明4年(1784)の39歳まで、西丸書院番4の組の番士でありつづけた。


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