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2010.12.02

継嗣・家基の急死(2)

徳川実紀』によると、家基(いえもと 享年18歳)の霊棺の埋葬は、安永8年(1779)3月19日、東叡山であった。

山里腕木門から吹上門、矢来門、竹橋門と、江戸城の西側---裏側を抜け、筋違門(すじかいもん 現・万世橋)をとおって御成道を上野山へ向かった。

西丸の書院番士として、長谷川平蔵(へいぞう 34歳)が霊棺の護衛にあたったかどうかは、確認できなかった。

徳川実紀』の[淩明院殿付録巻2]は、継嗣・家基を失った家治(いえはる)の嘆きぶりを以下のように記述している(現代文に書き改めた)。

孝教院殿(家基)が逝去したとき、家治は深くいたみ悲しみ、朝夕のご膳さえすすまなかった。

ちゅうすけ注】これより前、江戸城入りした吉宗(よしむね)は、食事は朝と夕(午後4時)の2食、それも1汁3菜を守ったと伝わる。
家治もそれを踏襲していたか?

老臣をはじめ、近習、外様の人びとまでその健康を気づかった。
某日。老臣(西丸若年寄・鳥居丹波守忠意 ただおき  63歳 下野国壬生藩主 3万石)が、側衆ともども拝謁したとき、弔辞と諫言を申しのべた。

参照】2010107[鳥居丹波守忠意] () () () (

「このたびの突然のご不幸は、臣下としても悲しみ嘆くばかりですが、子が親に先立つということは、貴賎を問わず襲ってくる痛手であります。
しかしながら、お上のお齢は、ご高齢からはるかに遠く、これから幾人もおつくりになれましょうゆえ、どうか、お悲しみもほどほどになさり、お躰をおいといなさいますよう」

これに対し、家治が応えた。
1国を見ているだけの大名などとは異なり、天下の重任をあずかっている。中年を過ぎ、そこそこに年輪をかさねた世継ぎの子を失い、天下の政事をゆず.ることのできる男子がいないでは、もし、予に不慮のことでもおきたら、天下や国民はどうなるのであろうと思慮し、嘆いているのである。

つまり、個人的な悩みではなく、天下を預かり、その責任の重さを受けとめている者の苦慮であると。
もし、自分にもしものことがあり、世継ぎがいないときには群雄が蜂起、天下は戦乱の巷となり、それによって苦難を背負うのは国民である。
それを避けるには、どうすべきか、悩みはつきない、と。


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