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2010.12.01

継嗣・家基の急死

安永8年(1779)2月2月21日、将軍の世子・家基(いえもと 享年18歳)の大井の新井宿あたりでの鷹狩りで、死への発端がおきた。

1月から例年よりもしげく行われそうな様相をしめしていて、この年、4度目であった放鷹だが---それまで異常はなかった。
だから、品川の東海寺での休息のとき訴えた不調が命とりにつながるとは随伴しただれ予想しなかったが、とりあえず帰城した。

3日後の巳の刻(午前10時)ごろに、家基の生命がつきた。


安永8年(家基18歳)
 1月9日  小松川のほとりで放鷹。
   21日  ニ之江(葛飾)のほとりで放鷹。
 2月4日  目黒のほとりで放鷹。


12歳から始まった、この年までの鷹狩りの記録。

ちゅうすけ注】明和9年(1772 安永と改元して元年)の2月に目黒・行人坂の放火で江戸の3分1以上が焼失したため、同2年(1773)も、将軍・家治も鷹狩りは控えた。
当然、家基の初鷹狩lりも遠慮したろう。

安永3年(家基12歳)
 4月18日  浅草のほとりで放鷹。
 5月2日  羅漢寺(東深川)のほとりで放鷹。

安永4年(家基13歳)
 5月15日 羅漢寺のほとりで放鷹。
 11月23日 浅草のほとりで放鷹。

安永5年(家基14歳)
 3月7日  王子のほとりで放鷹。
 11月23日 木下川のほとりで放鷹。
 11月19日 小松川のほとりで放鷹。

安永6年(家基15歳)
 1月21日  千住のほとりで放鷹。
 2月2日  目黒のほとりで放鷹。
 3月9日   雑司ヶ谷のほとりで放鷹。
   27日  志村のほとりで放鷹。
 4月9日  目黒のほとりで放鷹。
 5月2日  小菅のほとりで放鷹。
 10月11日 高田のほとりで放鷹。

安永7年(家基16歳)
 1月21日  千住のほとりで放鷹。
 3月5日  浅草のほとりで放鷹。
 4月23日  落合のほとりで放鷹。
 5月2日  浅草のほとりで放鷹。
 10月2日  中野のほとりで放鷹。
 11月13日 亀有のほとりで放鷹。
 12月9日  西葛西のほとりで放鷹。
 12月21日 千住のほとりで

安永7年(家基17歳)
 1月21日  千住のほとりで放鷹。
 5月 1日  浅草のほとりで放鷹。
   13日  亀有村のほとりで放鷹。
   28日  深川のほしりで放鷹。
 10月2日   中野のほとりで放鷹。
   27日  浅草のほとりで放鷹。
 11月13日 亀有のほとりで放鷹。
 12月21日 千住のほとりで放鷹。

鷹狩りは、渡り鳥が滞在している時期の、格好の行楽を兼ねた武技の競技でもあったが、『徳川実紀』も将軍分のほかは射鳥した士の報賞の実績を記していない。

そのため、放鷹に供奉した番士たちの推測もできず、34歳になっていた平蔵が2月21日にしたがったかどうかもわからない。

主(あるじ)を失った西丸だが、書院・小姓の各番頭は、家基の3回忌が終る天明,元年(1781)春までそのままの体制を解かないようにいわれたようであった。

したがって、長谷川平蔵も天明4年(1784)の39歳まで、西丸書院番4の組の番士でありつづけた。


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コメント

2月末にあった目黒・行人坂の大火の明和9年と翌安永2年は、さすがに鷹狩りを控えましたか。
これまで、こんな簡単な史実を目にしたことがないのは、不思議といえば不思議です。

投稿: 文くばりの丈太 | 2010.12.01 09:26

>文くばりの丈太 さん
明和9年の目黒・行人坂から発した大火は、放火犯人を平蔵の父・宣雄の組が逮捕したわけで、鬼平ファンにはきわめて大切な事件です。
ですから、その影響も調べておく必要があります。
家治は、この年の1月に2度、放鷹を催していますが、行人坂の火事では、幕臣の多くも焼け出されていますから、鷹狩りに随行するのもままならなかったのではないでしょうか。
もちろん、将軍としても、民衆の苦難を尻目に放鷹でもなかったでしょうが。

投稿: ちゅうすけ | 2010.12.01 09:47

西尾忠久様

以前書き込みさせて頂いた編集プロダクションの新垣と申します。上村から聞き書き込みさせて頂きました。
以前お借りした定寅さんの画像のことで相談させて頂けないでしょうか?
長文メールにつき、恐縮至極ではございますが、何卒、御高配を賜りますようお願い申し上げます。
株式会社アッシュ
新垣 百(あらかき もも)

投稿: 新垣 百 | 2010.12.01 20:21

ちゅうすけさんに刺激され、図書館へ行ったついでに『徳川実紀』の明和9年1月を開いてみました。
家治はたしかに1月5日と13日に放鷹に出ていましたが、その後はありませんでした。
調べる楽しさを実感できました。
調べるタネをいただき、ありがとうございます。

投稿: 左兵衛佐 | 2010.12.02 05:57

>左平衛佐 さん
おお、『実紀』が図書館に備わっていましたか。では、これからも確認していただけますね。心丈夫になりました。よろしくお願いいたします。

投稿: ちゅうすけ | 2010.12.02 09:28

>新垣 さん
長文のメールって、届いていませんけど。
何時、ご送信くださったのでしょうか?

投稿: ちゅうすけ | 2010.12.02 09:37

失礼いたしました。
こちらからのメールの方は送信しておりません。
混乱を招くような書き方をしてしまい、ご迷惑おかけしました。
申し訳ありません。

投稿: 新垣 百 | 2010.12.02 10:48

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