藤次郎の難事(5)
(難事---といえば、目の前の熟れきっておるお勝(かつ 37歳)も、難事の一つだ。
いつ、火の玉が弾(はじ)けるか、分かったものではない)
おんなを理屈で説得てきることは少ない。
袴の股にのばした手を、やさしくなぜ、
「お勝。聞いてくれ。いま、おれは、一人のおんなに惚れきっておる。もちろん、室の久栄(ひさえ 26歳)はなにより大切である。しかし、男というものは---」
「分かっているつもりです。ご内室さまをないがしろにはおもっておりません」
掌に力を入れてきたのを、入念ににぎり返し、
「惚れは、いつかは退(ひ)く」
「老婆になっても、銕(てつ)さまをお待ちしています」
「その一言、おれも、忘れはしない」
「うれしゅうございます」
腕が引かれた。
(尼寺のう---)
15年前、鎌倉の東慶寺へ入って前夫との縁切りを願った阿記(あき 22歳=当時)は、得度する寸前まで銕三郎と情を交わした。
【参照】2008年2月3日~[与詩(よし)を迎えに] (40) (41)
その結実を尼寺で産んだ。
京都で知りあった誠心院の有髪の貞妙尼(じょみょうに 25歳=当時)は、尼僧の性愛を禁じている戒律に反発し、還俗(げんぞく)を決心したために、嫉妬した僧たちになぶり殺された。
【参照】2009年10月19日~[貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく) (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10)
かつての盗みを恥じたかお信(のぶ 36歳)は剃髪、平蔵(へいぞう 33歳)との交合を自ら断ち、仏道に徹することを告げた。
【参照】2010年10月11日[剃髪した日信尼 ]
3人とも自分が決めた生き方を選んだ。
(おれと親しくなるおんなは、男に頼らないでちゃんと生活(たつき)の立つ力を持っているようだ。
〔狐火(きつねび)〕の勇五郎に囲われたお静(しず 18歳=当時)にしても、病気の父親をかかえ、愛宕下で茶汲み女をしていた)
平蔵は気がついていないが、相手のおんなたちが自立していたからこそ、向こうから銕三郎(てつさぶろう のちの平蔵)を誘(いざな)ったのである。
刺を通じておいた菅沼主膳正(虎常 とらつね 64歳 700石)から、返事があった。
「新八郎ともどもに参られよ」
2年前、将軍・家治(いえはる)の参詣を、日光奉行の一人としてつつがなくとり仕切った功で、この春から小普請支配という3000石高と格は高いが、さして忙しくはない職に就いた。
ふつうは、3~4000石の家禄の士が受ける名誉職で、700石の虎常は大抜擢であった。
足(たし)高が2300石ついている。
日光奉行の前、先手組頭で火盗改メをこなしていたとき、菩提寺・戒行寺であいさつをしたことから目をかけられていた。
【参照】2009年3月10日~[菅沼摂津守虎常] (1) (2) (3) (4)
2010年6月13日[戒行寺での葬儀]
新八郎とともに、との許しが出たので、御徒町の屋敷を訪れると、端正ながら古武士の風格をたたえた菅沼一門の者らしい風貌の虎常は、酒肴で迎えてくれた。
かしこまっている新八郎定前(さだとき 16歳)に代わり、平蔵が事態をかいつまんで話すと、
「16歳といえば、ご先祖の織部正定盈(さだみつ)さまは、初陣であった。そなたも、初陣よのう。はっははは」
ますますちぢんだ新八郎に、
「そなたのところの香華寺は、四谷舟町の全勝寺であったな?」
「左様でございます」
「たしか、曹洞宗---?」
「はい」
「そなたの母御(ご)の縁者に、常子(じょうし)という女性(にょしょう)がいたことを存じておるかの?」
「ふつつかで、存じおりませぬ」
「書籍(ほん)姫と呼ばれたお人でな---」
【ちゅうすけ注】この四谷舟町の全勝寺の杉大門の前で---『鬼平犯科帳』文庫巻4[おみね徳次郎]に、密偵として働くことになったおまさ(31歳)が、幼ななじみの女盗・おみね(27歳)と出会った、とある。
【参照】2008430~[〔盗人酒屋〕の忠助] (2) (3) (4) (5) (6) (7)
| 固定リンク
「089このブログでの人物」カテゴリの記事
- 〔銀波楼』の今助(4)(2009.06.23)
- 〔銀波楼〕の今助(2009.06.20)
- 天明7年5月の暴徒鎮圧(4)(2012.05.12)
- 天明7年5月の暴徒鎮圧(3)(2012.05.11)
- 天明7年5月の暴徒鎮圧(2)(2012.05.10)
コメント
書籍(ほん)姫---常子---なんて実在の女性と、こちらも実在の菅沼藤次郎とつなげるなんて芸当の見事さ、あっといいました。
実在といえば、平蔵も実在、菅沼虎常も実在、全勝寺も現存---すばらしい。
投稿: tsuuko | 2010.11.23 05:49
>tsuuko さん
常子は女性の身で漢文で書かれた一切経を2度通読し、経堂へ収めています。
当時の比丘尼としますと、大変な教養の持ち主です。
全勝寺でそのことを知り、4度参詣した全勝寺がよほどに身近になりました。
あとは、笠間市役所に電話するなりして、常子の墓の所在たしかめること。
笠間の鬼平ファンの方に調べて、コメントをいただけると、もっといい。
投稿: ちゅうすけ | 2010.11.23 19:23