西丸の重役(4)
「長谷川さま、参じられました」
同朋(どうぼう 茶坊主)の接声(せっせい)に、
「まいれ」
応じが返った。
中から板戸が開かれ、平蔵(へいぞう 36歳)がうかがうと、なんと、上座に豊千代(とよちよ 9歳)がいた。
いや、平蔵は、少年の衣服から豊千代だとおもった。
西丸・老中の鳥居丹波守忠意(ただおき 65歳 壬生藩主 3万石)が下座に着座していたからである。
部屋には、番頭・水谷(みずのや)出羽守勝久(かつひさ 59歳 3500石)もはるか下座にひかえいいた。
「近う」
声の主には、どことなく田沼意次(おきつぐ 63歳 本城老中)の面(おも)ざしをしのばせるものを感じたから、小姓組番頭格で御側に仕えることになった田沼能登守意致(おきむね 41歳 800石)と推察した。
「若君が、壬生寺(にんしょうじ)の一件にいたくご興味をそそられての。その者から捕り物の仔細をおききになりたいとの仰せじゃ」
平蔵がかしこまっていると、豊千代がだれに入れ知恵されたのか、
「長谷川の父者は、目黒・行人坂の火付けも縛ったそうな---」
ませた口ぶりであった。
恐縮の態(てい)で平伏した平蔵に、
「座興である。かまわぬから、気楽に話してさしあげよ」
田沼能登守がうながした。
壬生寺の件は、あまりに簡単すぎて若君の興もそそるまいからと、目顔でおんながからんでいたと能登守に暗示をおくり、宇都宮の大谷寺の釈迦像の台座の盗難解決の件に替えた。
【参照】2010年10月16日~[寺社奉行・戸田因幡守忠寛(ただとを)] (1) (2) (3) (4)
2010年10月20日~[〔戸祭(とまつり)〕の九助(きゅうすけ)] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8)
「その大谷寺の洞窟は、日光山へ参詣のおりに目にできようかな?」
あいかわらず、こまっしゃくれていた。
「ご参詣のり折には、きっと、お成りの道へくわえましょうぞ」
鳥居丹波守が約束すると、
「丹波が存命のうちに参詣したいものだが、費用はいかほどかかるな?」
「40万両(640億円)ほど」
能登守が応えた。
「おぼえおく。長谷川。また、聞かせてくれ」
将軍となった家斉(いえなり)が日光へ参詣した記録はないが、平蔵の病気を案じた史実は残っている。
【参照】2006年6月25日[寛政7年(1795)5月6日の長谷川家]
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