西丸の重役(2)
「(井伊兵部少輔 しょうゆう 直朗 なおあきら 35歳 2万石)さまと申しますと、越後の与板(よいた)の---?」
里貴(りき 37歳)が問うた。
「ご面識あり---かな?」
さりげなく、平蔵(へいぞう 36歳)が受けた。
2人のあいだに7年以来、躰の関係ができていることを、長野佐左衛門孝祖(たかのり 36歳 600俵)にさとらせることもない。
盟友のあいだがらではあっても、秘密は秘密であった。
「はい。一橋北の三番原で茶寮をしておりましたことがあったのでございます」
里貴もこころえたもので、佐左(さざ)に向かい、説明口調ではじめた。
〔貴志〕をまかされてすぐのころ---安永(1771)に改まって2年目ごろであったという。
「老中に補せられなされた相良侯(田沼意次 おきつぐ 55歳=当時)さまが、奏者番の井伊(24歳)さまとお昼をお召しになりました」
話題は、北の国々では寒冷の夏がしばしばきているということであった。
「それで、お上の物入りなご用を少しのあいだご免除いただけると、民百姓が救われる---とお願いなされました」
「田沼侯のお返事は---?」
「寒冷にも強い稲を、早く育てなされ---と」
「ふむ」
「冷害つづきで、与板藩の勝手方(財政)は破綻に近いということであるな」
佐左が口をはさんだ。
「そればかりではなく、信濃川の堤防補強工事も藩の財政を費消していると嘆願なさいました」
もっとも、そのころの与板藩主・井伊直朗は在府あつかいで、参勤交替はなかったから、国元のことは藩の重役まかせであったろう。
「その嘆願ぶりが、相良侯のお気に召し、寺社奉行ぬきでの、こたびの西丸・少老への抜擢ということもある」
うなずいた佐左に、
「冷夏に耐える稲の工夫が成ったということも考えられる。これだと、北国の各藩も幕領にも益がおよぶ」
平蔵が私見を加えた。
里貴がうっとりとした視線で平蔵を見た。
(銕(てつ)さまは、火盗改メだけでなく、勘定ご奉行もお似合い---)
「田沼さまのことだ、それくらいのご報償はお考えであろうよ」
与板藩の成功がもう少し早く成っていたら、天明3年(1783)の飢饉の被害はもっと軽くてすんだかもしれない。
西国のいなご群生の害は避けられなかったとしても。、
(井伊右京少輔直朗の個人譜)
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