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2007.10.10

太田運八郎資同

火盗改メの組頭を務めた太田運八郎は2人いる。

長谷川平蔵宣以---いわゆる鬼平の助役をやったのが父親・資同(すけあつ)。
松平太郎さん『江戸時代制度の研究』で、平蔵とともに名火盗改メといわれたのは、その子の資統(すけのぶ)。ただし、この人の業績はまだ、目にしたことがない。松平太郎さんはどんな資料に基づいて評価したのか。

太田姓は、先祖が丹波国太田郷へ住んだことに発しているらしい。その孫の代に相模国へ移った。
それから太田道潅まで数代を経る。
道潅が属していた上杉定政に殺されたので、息子の資康(すけやす)は山内の上杉についた。
その子は北条氏綱に仕える。
その孫娘・家康の子を生むが、4歳で夭折。
の甥・資宗(すけむね)は5万石の大名にとりたてられた。
資宗の実弟・資良(すけよし)は5000石を分知されて幕臣となる。その曾孫が資同で、24歳の時、同族・資演(すけのぶ 2000石)の末期養子となる。

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資同の実父・資倍は、両番の番頭(ばんがしら)などを歴任、旗奉行の重職にあった。
養父・資演は、天明6年(1786)6月23日に34歳で卒している。資同が家督したのは同年9月4日である。いろいろな細工がほどこされたと想像する。

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24歳まで養子に出なかった事情が解(げ)せない。
平蔵に軽くあしらわれたのにも、何か理由(わけ)がありそうだが、いまのところ、分明していない。
ただ、息・資統が松平太郎さんに買われているのだから、遺伝的な異常があったとは思えない。

参考:参考:2007年10月5日[よしの冊子](33)
2007年10月7日[よしの冊子](35)
2007年10月8日[よしの冊子](36)
2006年6月10日『江戸時代制度の研究』(3)

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