〔五井(ごい)〕の亀吉(4)
「13年ほど前に、いまの〔三文(さんもん)茶亭〕---往時の〔千浪(ちなみ)〕で会ったことがある」
平蔵(へいぞう 35歳)がおもいだした。
家臣に昇格していた松造(29歳)---漢字はそのままだが、読みかたを供侍らしく「よしぞう」と変えた---が、昨夜のお粂(くめ 39歳)との寝物がたりで交わした〔五井(ごい)〕の亀吉(41歳)の名と人相を告げたときの平蔵の反応であった。
(たしか、〔蓑火(みのひ))の喜之助(きのすけ 58歳)のところの小頭であったような)
平蔵は、13年も前に、亀吉が洩らしたことをおもいだし、頬をゆるめた。
それは、亡父・宣雄(のぶお 享年=55歳)の青春時代にかかわるもので、上総(かずさ)の市原郡(いちはらこおり)五井(現・千葉県市原市五井)の漁師の三男だった亀吉の女房・お衣知(いち 37歳)は、同じ上総でも山辺郡(やまべこおり)片貝(かたがい 現・千葉県山武郡九十九里町片貝)の小百姓のむすめで、長谷川家の400石の知行'地のうち180石が片貝(かたがい)にあった。
つまり、お衣知の生地の知行主はずっと長谷川家であったということになる。
で、海女(あま)をしていた叔母が、米の出来具合を視察にきた宣雄(23歳ごろ)をi誘い、抱かれた話をしてくれた。
そして、もう一つの知行地---上総の武射郡(むしゃこおり)寺崎(てらさき)村の長(おさ)のむすめを孕(はら)ませたことも、当時の噂であったと。
【ちゅうすけ注】寺崎(てらさき)の村長(おさおさ)・五左衛門のむすめから生まれたのが銕三郎(てつさぶろう のちの平蔵)であることは、寺崎村では語りぐさとなって伝承されている。
もちろん出産は、江戸・赤坂築地の長谷川家においてであった。
このブログでは、そのむすめの名は、夫・宣雄の爵位にあわせた立派な戒名---興徳院殿妙雲日省大姉から一字を拝借し、妙(たえ)として記している。
【参照】2006年5月27日[聖典『鬼平犯科帳』のほころび] (2)
幕府への届けは、宣雄の内妻ということで終始したが、長谷川家内の地位は正妻そのものであった。
そんな経緯から、亀吉に対しては好意はもたなかったが、敵にまわすまでもないと観じていた。
そのことは、松造の話を聞いても変わりはなかった。
もちろん、〔五井〕の亀吉が、お粂やお通、あるいはかつてのお信(のぶ 39歳)---いまの日信尼に危害やいたずらをおよぼすようなら、断固戦う。
【参照】2010年10月11日[剃髪した日信尼 ]
(しかし、〔五井〕の亀吉と〔不入斗(いりやまず)〕のお信が市原郡つながりとは知らなかった。
いや、〔蓑火〕一味と〔神崎(かんざき)〕の伊之松(いのまつ 享年42歳)のかかわりで知りあったとも考えられる
)
【参照】200965~[〔神崎(かんざき)〕の伊之松] (1) (2) (3) (4)
平蔵は、亀吉が〔蓑火〕の喜之助の許から、〔大滝(おおたき)〕の五郎蔵(ごろぞう 42歳)とのならび頭(がしら)で独立していることはしらなかった。
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コメント
今日のテキストの五井の亀吉のリンクをクリックして、ならび頭の大滝の五郎蔵のほか、蓑火、狐火、法楽寺、乙畑、神崎などのお頭衆のほか、瀬戸川の源七、鶴の忠助、殿さま栄五郎など、聖典のキャラがぞろりと登場するのに驚きました。
このブログ、聖典をきちんとふんまえて進行しているのだと、あらためて認識しました。
投稿: 文くばりの丈太 | 2011.01.12 09:13
なにしろ、満5年間、毎日更新しているブログです。中途から存在にお気づきになってアクセスしたくださっている方も少なくないと予測しています。
過去のテキストにもその都度、リンクをはり、銕三郎・平蔵の成長にかかわった群像を確認していただくのも筆者の務めとおもい、なるべく実行するようにしています。
長くアクセスしてくださったいる方には、うるさいとお感じになることもありましょうが、紙の本ならご自分でページをお戻しなれますが、ネットはそうもいきません。筆者の方で気をつかうべきだといいきかせています。
投稿: ちゅうすけ | 2011.01.12 09:34