一橋家老・設楽(しだら)兵庫頭貞好(さだよし)(2)
「重職方のなかでも、とくにこころがけているのは、譜代の方がた、わが家の先祖がそうであった今川方からお召しかかえいただいた家いえ、武田家が滅んだあと、秋葉山で誓紙をさしだされた武田の遺臣のご子孫、そして、有徳院殿(吉宗)にしたがって直臣におなおりになられた紀州の方々をおぼえるようにしておる」
平蔵(へいぞう 28歳)を冷やかすよう里貴(りき 29歳)が、
「軒猿の子孫とかのお竜(りょう 33歳)さまは、秋葉山での誓紙とはかかわりがございませんね」
「故人をいたぶるのは、品性にかかわろう」
平蔵の憮然とした言葉に、
「お許しください。つい、本心がこぼれてしまいました」
「本心なら、よけいに許せぬ」
おどけたふうにいい、明るく笑った。
お竜の水死のことを里貴が知っているのは、京に潜入して地下官人(じげかんじん)の不正の手がかりをさぐっていた庭番・倉地政之助満済(まずみ 34歳 60俵3人扶持)の手下あたりがかぎつけたのかもしれれない。
「確か、倉地の新造・おせん(23歳前後)は、西丸・御納戸の頭の馬場善五右衛門信富(のぶとみ 63歳 100俵)どのの長女であったな」
「はい。そのように---」
おせんの実家の本家にあたる馬場家は、数年前に不実のことがあって追放・絶家の処分をうけた。
しかし、甲斐の武川原(むかわはら)根小屋城を本拠としていたころの信濃守信房(のぶふさ)は、武田四将の一とされ、名門であった。
【参考】馬場信濃守信房公の生涯事跡
徳川陣営に加わったとき、駿河大納言忠長に配されたのが不運のはじまりで、処士に落ち、戻されたときには160俵の微家となっていた。
(いかん。お竜にこだわり、武田勢を話題にしてしまっている)
「ご家老の設楽(しだら)さまは、〔貴志〕へ喫茶にお見えになることがあるのかな?」
設楽兵庫頭貞好(さだよし)が一橋家の家老に補されたのは、2年前の明和8年(1771)11月1日、63歳のときであった。
先任で51歳の田沼能登守意誠(おきのぶ 800石)がいたから、次席であった。
幕府内での同職のばあいは、先任者が上席となる。
「ご先任でもあり、ご先代・刑部(宗尹 むねただ)さまが小五郎(こごろう)を名乗っておられましたときのお勤めもふくめて勘定しますと、40年以上も一橋家をごらんになってこられた能登(意誠)さまのご出仕がとどこおりがちなので、お忙しいようで、あまり、おはこびくださいません」
(すると、無役の寄合・藪 主膳正忠久(ただひさ 54歳 5000石)は、だれと会食をしているのであろう?)
ニ呼吸ほど沈黙したところで、
「そろそろ、次の間へお移りになりませんか。せっかくの刻(とき)を お歴々の野暮話に遣うのは、もったいなすぎます---」
里貴が立って、すでに床がのべられている隣室の行灯の芯をあげ、明かるさを強くした。
興奮が高まるにつれ、里貴の白い乳房や下腹が桜色にそまっていくのをたしかめたいと、平蔵が望んでいるからである。
「どうぞ」
声がかかった。
平蔵が横になった脇で、里貴は鏡Iにむかっている。
紅をぬぐい、簪(かんざし)、笄(こうがい)のぐあいをたしかめる。
そのしぐさを薄目で眺めている平蔵の気が昂(たかぶ)ってきた。
それを察しながら、わざとじらせているようである。(歌麿『化粧美人』部分)
「どうした? こないのか?」
「銕さま。お竜さまのことで、おっしゃりたいことがおありなのでしょう?」
襟あしのあたりは、もう、淡い桜色であった。
「あるわけがない」
「うそ」
「お竜は、京の法輪寺へ眠っている。安らかに眠っている仏に焼餅をやいでどうする」
寝衣をかなぐりすてるようにして、里貴がかぶさってきた。
「信じて、いいのですね? いいのですね?」
「もう、こうなっているではないか」
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