田沼意行の父(3)
静岡のSBS学苑[鬼平クラス]でともに学んでいる安池欣一さんの田沼意次(おきつぐ)の父・意行(もとゆき)の、さらにその父捜しのリポートのつづきである。
どうして、そのようなことが、[『鬼平犯科帳Who's Who』]なんだ---とおっしゃらないで。
データを後学者のために公開しておくことも、大きな意義がある。
少なくとも、ぼくは、そう、かんがえている。
田沼意次まわりの論文で、そこまで考究がすすめられたとおもえないからである。
大げさにいうと、安池さんが初めて鍬をいれた人かもしれない。
菅沼家「系譜」の検討
田沼意行は
『寛政重修諸家譜』では、
田沼意行 重之助 専左衛門 主殿頭 従五位下
『南紀徳川史 第5冊』では、
田沼専左衛門 重意 初名:専之助
と表記されています。
また、『寛政譜』では、
「享保19年(1734年)12月18日死す。 年47。」
となっていますから、計算すると元禄元年(1688年)生まれとなります。
1.菅沼家代々の当主の没年を調べますと、元祖は寛永19年(1642)、2代目は寛文11年(1671)で、意行が誕生する前ですから、父親ということはありえません。
5代目は元禄4年(1691)生まれですから、これも該当しません。
意行の父親の可能性があるのは3代目と4代目です。
【ちゅうすけ注】ここで、理解をやさしくするために、『山家三方集』(愛知県鳳来町立長篠城跡保存館 1997.3.1)から、長篠菅沼の系図から、紀州へ付随した初代・半兵衛のすぐ上の2人を引く。
2..3代目新九郎政則について
菅沼家は代々半兵衛を名乗っているのに、3代目だけが新九邸です。
没年は正徳3年(1713)ですが、そのときの年齢は不詳となっていまして生年が計算できません。
常識的には4代目よりは早い生年と考えられます。
(右の系図は、紀州菅沼家の2代目~5代目 前掲書より)
寛文11年(1671)に跡目を相続して、延宝6年(1678)には弟を養子としますが、弟が死去しますので、翌年4代目とな渋谷家の三男を養子として、自分は隠居します。
このとき、知行2000石のうち、500石を隠居料とします。
子供がいたという記事はありません。
3. 4代目半兵衛政等、渋谷角太郎三男紋之丞、明暦2年(1656)生まれ。
15歳のとき小姓に召出され、延宝7年(1679)歳で菅沼家の養子となり、家督と知行1500石を相続します。
元禄4年(1691)に惣領が誕生し、以後息子2人・娘2人が生れます。
宝永7年(1710)に城代となり、享保10年(1725)に隠居、享保12年(1727)72歳で病死しています。
長男が家督し、その他の2人の息子は一人は杉田家の養子となり、もう一人は菅沼姓です。
意行を生んで他家に養子に出した記録はありません。
意行の誕生は元禄元年(1688)です。
その時、政等は33歳で、すでに菅沼家を相続した後ですし、まだ惣額が生れる以前ですから、もし意行が生れたとしても、養子に出す可
能性はほとんどないといっていいでしょう。
4.課題
以上1-3の検討によりますと、田沼意行の父の家はこの菅沼家ではないこと
になります。あるいは、南紀徳川史の記事が間違っているのでしょうか。
もし、『南紀徳川史』の記事が正しく、田沼意行がこの菅沼家の出身であると仮定しますと、どういう可能性があるのでしょうか。
あるとすれば4代目の子供というより、3代目の子供であるという方が可能性が高いのではないでしょうか。
3代目は自分の息子がいなくて、他家より養子をもらっていますが、隠居後30年以上生存している勘定ですし、500石の知行もありました。
当時、隠居した人のところに生れた子供はどのように扱われたのでしょうか。
「隠居したら元気になって、子供までできちやって、生活は楽じゃないけど長生きもできた。よかったよ」なんてうそぷ゛いていてくれたほうが救われます。
さて、安池さんの疑問、仮定にこたえられるのは、紀州の郷土史家しかあるまい。
うまく、このコンテンツがお目にとまるといいのだが。
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