備前守宣雄の嘆息(4)
翌日の七ッ(午後4時)。
いつもならは八ッ半(午後3時)には役宅へ引きあげているはずの奉行・備前守宣雄(のぶお 55歳)が、裃(かみしも)の肩口へこぶしを差し入れて揉みながら、書付をしらべている。
「お奉行---」
目付方の与力・浦部源六郎(げんろくろう 51歳)が目で、別室へまねいた。
「沙可(さか)という女性(にょしょう)の所在が知れました」
沙可は、きのう、長安院の墓域の、松平信濃守康兼(やすかね 享年41歳)の墓に奉納されていた卒塔婆(そとば)に記されていた施主の名である。
宣雄は、銕三郎(てつさぶろう 28歳)や久栄(ひさえ 21歳)に気づかれないように盗みみておき、浦部与力に素性の探索を依頼しておいたのである。
荒神口の下(しも)の禁裏付に属している顔なじみの与力に訊くと、沙可と信濃守康兼の仲は、秘密でもなんでもなかった。
明和6年(1769)6月17日づけで禁裏付に発令された信濃守康兼(39歳=着任時)は、妻を帯同していなかった---というより、同伴赴任を拒否された。
単身赴任の頭格の武士が、任地妻を置くことはあたりまえのことであった。
沙可は、蛸薬師通り東洞院東ヘ入に西陣帯地を商っている〔墨屋〕三郎兵衛の末妹で、嫁入りがきまっていた相手が流行り病で急死したので、19歳で未婚であった。
(沙可の実家〔墨屋〕)
とりもつ者があって、信濃守康兼の役宅へ小間使いということで奉公にあがった。
兄の三郎兵衛にすれば、妹の縁で御所への出入りがかなえばもうけもの---といったほどの気持ちもあった。
2年とちょっと、康兼と躰をあわせたが、子はできなかった。
康兼は、江戸の家付きの妻とくらべ、なにごとにもすなおで、肌もぴったりとあった沙可をいとおしくとおもっただけでなく、もし、のちのち、同じ墓へ入る気持ちがあなら---と、生前に、長安院の方丈へ話をつけ、その分の布施も渡しておいたらしい。
康兼が没して1年半になり、沙可は21歳になったが、いまだに兄のところで暮らしているという。
「信濃守さまに、よほどに可愛いがられたのでしょうか?」
「そうではあるまい。おんなとして安心できたのであろう」
「で、このあと、いかがいたしましょう?」
「なにもせぬのが、こころづかいというものであろう。このまま、浦部も忘れてしまってくれ」
「うけたまわりました」
役宅へ戻った宣雄は、座敷女中の佐久(さく 17歳)に肩を揉ませながら、訊いた。
「佐久の家は、堀川通り蛸薬師下ルであったな?」
「父(ととう)が打物を鍛えをしとりますが---」
(佐久の実家〔丹波守門弟・伊三郎)
「ここへあがる口ききをした者から、〔墨屋〕の沙可のことを聞かされたか?」
佐久の揉む手がとまった。
「大事ない。その者のいうようなことはない、安んじていてよい。若奥のけしかけに、決してのるでないぞ」
宣雄は、佐久を安心させるためにかるい笑い声をだしたが、やがてそれは、嘆息に変わっていた。
(苦労をしょいこまなくてすんだようだ)
【ちゅうすけ注】長安院の『墓誌』には、信濃守康兼の横に、祐仙院殿としか添え書きされていない人物が納骨・合葬されていることが書かれている。祐仙院殿が沙可であったかどうかは、いまの寺の者にもさだかにはわからない。
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コメント
数時間の京都滞在で、すばらしい素材を取材されたのですね。やはりプロは押さえどころが違うとおもいしらされました。
長安院の『墓誌』も閲覧され、松平信濃守の愛妾までみつけてしまうなんて。
ほんと、このブログは、いろいろ、教えてくださいます。感謝。
投稿: つうこ | 2009.10.08 05:38
>つうこ さん
いえ。これはケガの功名なんです。うっかり「松平さんの墓」とだけ言ってしまったもので、岸和田藩主・周防守康弘のほうへ案内されたのです。
で、『墓誌』のコピーをお布施をだしてとってもらったら、偶然、信濃守康兼の戒名が対向ページにあったというわけ。
投稿: ちゅうすけ | 2009.10.08 07:15