姫始め(4)
「吉報をお待ちしております」
銕三郎(てつさぶろう 明けて28歳)は、香具師(やし)の元締・〔左阿弥(さあみ)〕の円造(えんぞう 60すぎ)にあいさつをして立つと、2代目・角兵衛(かくべえ 42歳)が門口まで送ってきた。
「長谷川さま。父にええ仕事をつくってもろて、ありがとおした。父も若返りますやろ」
「それほどにご執心ですか?」
「色ごころ抜きで、孫みたいに気ィをつこうてあげとりますのんで」
「それは上々」
「ところで、代人料ですが---」
「あちこちへ支払いをすますと、のこるの3両(48万円)です。その半分、1両2分(24万円)ではどうでしょう?」
【参照】2009年8月30日[化粧(けわい)指南師お勝] (4)
「板ごとにでおますか?」
「そのつもりです」
「ありがとさんです」
月に3板刷るとう4両2分(72万円)である。
角兵衛は、父親へ報せるために、いそいそと引き返していった。
香具師のあがりはもっと大きかろうし、お披露目枠の扱い代だって3板なら6両(98万円)はいるのに、自分たちの腹が痛まない話なので、1板ごとに1両2分でもうまい話におもえるのであろう。
茶店〔千際(せんざい)〕は、お豊(とよ 明けて25歳)がいったとおり、表戸をおろしていた。
くぐり戸をコツコツとたたくと、すぐに開いて、お豊が顔をのぞかせた。
なんと、洗い髪を巻いている。
「どうした。さっきはきれいに結っていたで゜はないか」
銕三郎の手をとって引っぱりこみ、
「髪油の匂いが銕(てつ)さまの肌にのこっては、奥方にしれますでしょ」
「正月早々、そのおねだりか」
「お年玉をいただくのです」
「姫始め」
「はい」
湯もちゃんとわかしてあった。
あがるとき、閉じぶたを浮かす。
「こうしておくと、匂いおとしにおつかいになるとき、湯がさめていないのです」
(ずいぶん、馴れているな)
ちょっと不審におもったが、いわなかった。
終わって浴びてみると、お豊の言葉どおりであった。
「湯冷(ざ)めにお気をおつけになって」
見送られ、底冷えのする暗い街並みを急ぎ足で役宅へ帰りついたのは、六ッ半(午後7時)すぎであった。
書院では、久栄(ひさえ 明けて21歳)が、舅(しゅうと)・備中巣守宣雄(のぶお 55歳)の肩をもんでいた。
宣雄は、あいさつ廻りでくたびれきったのか、うつらうつらしている。
久栄が唇に指をあて、帰宅のあいさつをいうなと合図した。
自分たちにあたえられている部屋の隣室では、辰蔵(たつぞう 4歳)がすでに眠りこけていた。
部屋には床がのべてあった。
着替えていると、久栄がはいってきて、銕三郎の着物・袴を手ばやくたたみ、さっと帯をほどき、着物は衣紋かけになげるようにかけ、寝衣の腰紐もむすばないで床へはいった。
銕三郎が横にならぶと、
「松造(jまつぞう 明けて22歳)をお連れくださいね。そうでないと、連絡(つなぎ)がつきませぬ」
「なにかあったのか?」
「舅どのの、新しい召使いを、浦部(与力 明けて51歳)どのがお連れになりました。あなたさまのお目にかなうかと心配しておいででした」
「おれの召使いではないのだから、父上がよければそれでいいのだ」
「いいえ。浦部どのは、舅どのは好き嫌い口になさらないからと---」
「その話は、あすでいい」
のばした手をまたではさみ、
「冷たい。あったまるまで、こうしていてください」
「姫初めだ。指があいさつをしたがっておる」
「きょう、あいさつをしてきたおなご衆のことを吐くまで、なりませぬ」
「ばか」
久栄が股をひらいた。
★ ★ ★
| 固定リンク
「002長谷川平蔵の妻・久栄」カテゴリの記事
- 「久栄の躰にお徴(しるし)を---」(4)(2008.12.19)
- 「久栄の躰にお徴(しるし)を---」(3)(2008.12.18)
- 「久栄の躰にお徴(しるし)を---」(2008.12.16)
- 大橋家の息女・久栄(ひさえ)(2)(2008.09.20)
- 寺嶋村の寓家(4)(2009.02.16)
コメント
こんどの「化粧読みうり」の一連のあれこれで、やっと、江戸時代の、両と、分、朱の関係がのみ込めました。
4朱(4万円)が1分、4分(16万円)が1両なんですね。
1朱は1万円。
それより下が文(もん)。
それにしても、よろず口きき商売の人もいたんですねえ。いまのハローワークと案内広告代理店をいしょにしたような業種だったんてしょうか。
投稿: tomo | 2009.10.02 05:24
>tomo さん
両換算がお呑みになれてよかった。
ただ、『鬼平犯科帳』の初期では、池波さんは1両を4万円前後に換算していました。
20年以上もの長期連載だったので、終わりごろには1両20万円にもなっていました。
もっとも、これは、池波さんが流行作家になり、金銭感覚がすこしずれたせいかもしれません。
学者先生たちのあいだでは、いまは、1両10~16万円とバラバラですが、池波さんにいちばん近いところをとって、16万円にしています。
なお、東の金本位、西の銀本位のこともあります。この件は、田沼意次と石谷淡路守がからむ項で言及しています。
投稿: ちゅうすけ | 2009.10.02 10:23