〔白駒(しろこま)〕の幸吉(2)
「若さま。申しわけもございません」
土下座して謝っているのは、下僕の〔からす山〕の松造(まつぞう 20歳)である。
「もう、いいから、立て。お主の手落ちではない。向こうのほうが一枚上手(うわて)だっただけのことだ」
銕三郎(てつさぶろう 26歳)は、なぐめるように松造の脇の下に手をいれて、引きあげた。
その手を両手でつかんだ松造が、拝むように胸の前にささげた。
昨夜、〔五鉄〕の前で不審な挙動をしていた男を、二ノ橋北詰の辻番所へ預けた。
この朝五っ半、二ノ橋下から舟で竪川(たてかわ)から大川、そして神田川を遡行して、神田橋ご門外の火盗改メ役宅・中野監物清方(きよかた 49歳 300俵)方へ連行、訊問することになっていた。
二ノ橋ぎわ、〔五鉄〕の向かいの辻番所は、あたりの軽輩の御家人とともに建てたものだが、鈴木兵庫直美(なおみ 8歳 2400石)方が、諸がかりのほとんどを負担していた。
ただ、当主が幼く、出仕もしていないために、番人たちも気がゆるみががちであったろう。
【ちゅうすけ注】この鈴木家の当主はも四郎左衛門を名乗る仁が多い。『鬼平犯科帳』文庫巻9、寛政6年(1794)2月の事件である[浅草・鳥越橋]p205 新装版p214で、鬼平組が捕えた賊・〔三好屋〕幸吉---すなわち20年後の〔白駒〕の幸吉の仮名---を預けたときも、鈴木四郎左衛門と書かれている。
池波さんは、幕末近くの切絵頭によったのであろうが、鬼平の時の直美は31歳の成人で、小姓組に出仕していた。
銕三郎は、鈴木家の先代・四郎左衛門直賢(なおかた)が6年の前に37歳で病没、当主はまだ少年で、家政がゆるんでいようから、連行にはくれぐれも注意を怠るな、と松造に念をいれることをしなかった自分の手ぬかりを責めていた。
男は、二ノ橋下で小舟に乗りうつろうとしたとき、向こう岸の林町1丁目の家の裏から放たれた矢を胸にうけたのである。
松造と付きそいの番人が、いそいで林町に駆けつけたときには、犯人はとうに逃げ、半弓だけが放置されていたという。
けっきょく、松造たちが中野組にとどけたのは、男の屍体であった。
銕三郎は、男が殺されたことを、日本橋3丁目箔屋町の白粉屋〔野田屋〕のお勝(かつ 30歳)に知らせに行ってみたが、お勝は昨夜から帰ってきておらず、荷物も金目のものはすっかり消えて、当主・文次郎はがっくりで、まともに話ができない体(てい)であった。
その足で、神田橋ご門外の中野組の役宅へまわり、主席与力・村越益次郎(ますじろう 50歳)にあいさつをしたが、男は、身元を語るようにものは何ひとつ身につけていなかったことを知らされただであった。
ただ、着ている着物が粗末なのにかかわらず、銭袋だけは似合わない筋のとおったものをもっていたから、小間物屋あたりに奉公していたのではないかと、村越与力が推量していた。
さすがに伊達に与力をしていないと、銕三郎は舌をまいた。
小間屋といえば、深川の洲崎弁天社の脇で〔白駒(しろこま)〕の幸吉(こうきち)が開いていたのも、小間物屋であった。
そのことを告げてやりたいお竜(りょう 32歳)に連絡(つなぎ)をつける手立ては切れた。
〔白駒〕の幸吉とすれば、生まれ故郷の上総国周准郡(すえこおり)白駒村(現・千葉県君津市白駒)を探索したお竜の身辺を、逆にさぐらせたのかもしれない。
銕三郎は、〔白駒〕の幸吉と名乗る、小賢(さかし)げな賊の名を脳裏にきざみこむとともに、お竜と会えなくなったことに、夢が消えたようなおもいをかみしめていた。
『孫子』の話し相手を失った悲しみだと、自分には言い訳をしていたのだが---。
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