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2009.05.30

銕三郎、先祖がえり

(てつ)が先祖がえりしていると、本家の太郎兵衛正直 まさなお 61歳)どのが笑っておられたぞ」
父・平蔵宣雄(のぶお 53歳)に冷やかされた。

「なにをもって、本家(ほんけ)がえりと---?」
「これ。本卦(ほんけ)がえりとは、干支(えと)が一巡(ひとめぐ)りして60歳になったときを言うのだ」
「あ、そちらのほうの本卦がえりは、まだ、34年先でした」
「60歳まで、生きておられたら、な」
宣雄は、いい齢をして、本卦と本家の区別もつかないとは、困った嫡男だといわんぱかりの眸(め)で、銕三郎(てつさぶろう 27歳)を眺めた。

銕三郎のおもいは違う。
(父上、60歳までもお生きになり、本卦がえりをお祝いさせてください)
ただし、口にはださなかった。
言葉にしてしまうと、神仏がお怒りになるとおもったからである。

本家の長谷川太郎兵衛正直(1450石 先手・弓の7番手組頭)の揶揄(やゆ)で思いあたるのは、先夕、表1番町新道の屋敷を訪ね、
長谷川のご先祖の、法栄(ほうえい)長者どのがなさっていた商(あきな)いついて、お教えください」
「わが家には、くわしいことは伝わっておらぬ。銕三郎も存じおるように、小川館(こがわやかた)から田中城の守備にまわられた紀伊守(きのかみ)正長(まさなが)どのは、武田信玄公の大軍に攻められ、一族とともに城をでて浜松へ走り、徳川勢にお加わりになった。そのおり、紀伊守どのの3代ほど前の法栄長者のお仕事ぶりの書きものは、小川(こがわ)湊にいた一族のどの家にあったか、寺へ預けられたのではないか」

なにゆえ、いまごろ、法栄長者の事蹟をしりたいとおもったのかと訊かれたが、銕三郎は言葉をにごした。

安房国朝夷郡(あさいこおり)江見村へ、盗人の訊きこみへ行った帰り、勝浦湾の串浜湊から江戸へ向かう500石荷船に、江見浦でひろってもらった。

木更津湊まで、その船の知工(ちく 船の庶事頭)・瀬兵衛(せべえ 35歳前後)と、またも世の経済(からくり)について話しあった。
同心・有田祐介(ゆうすけ)は、昨夜の疲れがでたか、艫(とも)の荷にもたれて眠っている。

「船で運ぶのに、風体(かさ)に比して割りのよいのが菜種油であることは納得しました」
「種油よりも割りがよいのは金銀でしょうが、ま、これは別格として、安房で産するもののなかでは、木炭、檜あたりでしょうか」
「生糸は?」
「あれは、海路で運びません」
「なぜ?」
「潮水はもとより、雨水にも弱いからです」

「酒は?」
「灘、伊丹や伏見の下り酒なら割りにあうでしょうが、地酒は、江戸まで運ぶほどのものではありません」

「西瓜(すいか)や瓜(うり)、梨(など)の水菓子は?」
「水菓子の名のとおり、時がたつと水気がぬけていくものは、遠くからは無理です。しかも、季節のものですからね」
「日もちのするものは鮮度がおちないから、時がたっても値がくずれないということですね?」
「そのとおりです。だからご公儀が、米を貨幣の代わりとおかんがえになっているのです。米の敵は鼠と黴(かび)と相場師くらいですから---」

木更津湊で下船して別れる寸前に、瀬兵衛がつぶやくように言った。
長谷川さまは、お武家なのに、珍しく、勝手方(かってかた 経済)のことにおこころが向いています。むかしは、お武家といえども、ものや田をおつくりになり、取引きなさっていたのですが---」

このつぶやきに、鉄槌で打たれたような衝撃が銕三郎の躰を駆けぬけ、13年前に、法栄長者と呼ばれた館の主が統治していた小川湊を訪れたときの記憶がよみがえったのである。

そのことに関連して、法栄長者と銕三郎宣以(のぶため)の次男・銕五郎正以(まさため)のことは、【参照】に記した。

参照】2006年5月23日[長谷川正以の養父
2007年7月23日[青山八幡宮

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焼津市がおこなった小川城遺跡発掘調査によると、遺跡から明との交易をしのばせる白磁片も出土しているという。
法栄長者とその一統が、遠く明国まで商圏に入れていたことがうかがえる。(焼津市の『小川城』調査報告書)
そのことは、長谷川家に言い伝わっていたのではあるまいか。

それで、本家・長谷川太郎兵衛正直が、ものの生産や商いに興味を示した銕三郎を評し、
「先祖がえり」
と言ったのであろう。

税のことにまつわり、父・平蔵宣雄が、老中格の田沼主殿頭意次(おきつぐ)に、こんなことしを言ったことも【参照】に記した。

参照】2007年7月22日[幕閣

どうやら、銕三郎の躰の中で、法栄長者の血が音をたててはじけはじめたらしい。

ただし、法栄長者は、単なる貿易商人ではなかった。
今川家の重鎮の武将でもあった。
つまり、武将が交易や製塩に手をそめて、資金力を増やしていたのである。


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