火盗改メ・お頭の交替
明和7年(1770)4月24日、昨年の9月25日から火盗改メ・冬場の助役(すけやく)を勤めていた菅沼主膳正虎常(とらつね 56歳 700石)が任を解かれ、元の先手・弓の4番手の通常職務に復した。
通常職務とは、江戸城内の5つの門の守衛の交替勤務である。
任期中に尽力を賜ったと、3両(約50万円)の礼金を包んでよこしたのは、筆頭与力・村越増次郎(ますじろう 49歳)が、自分の火盗改メ手当てからこころづかいをしたのであろう。
【参照】2009年3月19日~[菅沼摂津守虎常] (1) (2) (3) (4)
火盗改メ・与力には、80石から120石までの俸禄のほかに、20人扶持の職務手当てがつく。
1人扶持は1日に玄米5合であった。
搗き減りを2割とみても、月に4石8斗。
1升100文として4万8000文、ざっと10両。
村越与力の場合は、冬場の助役だから7ヶ月間、それだけ入った。
といっても、小者や密偵の雇い賃に半分遣ったとして、かなりのものが残ったはず。
銕三朗は、火盗改メの勝手に通じているから、3両を遠慮なく受け、うち1両を〔相模(さがみ〕の彦十(ひこじゅう 35歳)へ渡した。
〔風速(かざはや)〕の権七(こんしち 38歳)は、駕篭屋の店主として独立し、さらに用心棒の請け賃が入っているので、金銭を渡す必要はなくなっていた。
同年6月26日、隣家の火盗改メ・本役の松田彦兵衛貞居(さだすえ 63歳 1150石)が免任となり、後任には、同日、先手・鉄砲(つつ)の10番手の組頭・石野藤七郎唯義(ただよし 64歳 500俵)が職についた。
松田組の土方筆頭与力(51歳)は、気ばたらきが粗雑な仁で、礼のあいさつもなければ、石野組への申しおくりもしなかったらしい。
【参照】2009年2月17日~[松田彦兵衛貞居] (1) (6) (8) (9)
そういえば、石野家も気がきかない家柄なのか、『寛政譜』に、火盗改メを勤めたことも記していない。
もっとも、これは、長谷川平蔵宣雄(のぶお 52歳 400石)についてもいえる。
『寛政譜』から、火盗改メをやった経歴がすっぽりと落ちている。
落ちたのは、[先祖書]を上程した平蔵宣義(のぶより 小説の辰蔵)が省略していたことによる。
【参照】2007年4月14日[寛政重修諸家譜』 (10)
石野家の場合は、同家が幕府に提出した原本の[先祖書]も、火盗改メ拝命のことが欠落されているのかどうかを、国立公文書館所蔵をたしかめていないので、、その理由も推測するすべがない。
(石野藤七郎唯義の個人譜)
石野唯義が火盗改メの任にあたっていたのは、翌8年7月29日までの1年と1ヶ月であった。
まあ、常識的な任期といえる。
任期後半になり、組の与力か同心のだれかが、銕三郎の実績を耳にしたらしく、辞をとおしてきたのは、明和8年(1771)に入ってからであった。
その経緯(あれこれ)は、8年の項に記すことになる。
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