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2007.09.26

『よしの冊子(ぞうし)』(25)

『よしの冊子』(寛政3年(1791)と見込む つづき)より

一、芝の牛小屋(東海道筋・牛町の牛舎)で、左金吾殿が盗賊を召し捕られたよし。しかし7、8人が抜き身でいたので、左金吾殿もはじめは大てこずり されたよし。

088
(高輪牛町 『江戸名所図会』)

280
(広重 高輪うしまち 『江戸名所百景』)

一、下谷の三味線堀で、長谷川組吉岡左市という与力が、どぶへほおりこまれたよし。
  【ちゅうすけ注:】
  長谷川組(先手・弓の2番手)の与力の姓がこれで判明したの
  で、目白台にある3組の各戸割りになって姓名が記されてい
  る組屋敷の最右端のブロックがそれと判明。

355
(目白台の弓の3組の組屋敷。赤○ブロックが長谷川組)

麹町8丁目の日雇取りが番町で襲われたとき、下帯だけはゆるしてくれ、といったが、それも聞いてはくれず、古い下帯と取り替えられたよし。ところがその下帯に3分(約12万円)結びつけてあったので日雇取りは大悦び。さっそくに木綿屋の吉水屋で袷をあつらえたよし。はぎ取られた品は全部あわせても3分には達しなかったもよう。

穴八幡の先の閻魔堂のある寺へ、押し込みが入って金子を取られたよし。「寺社奉行から参った」といって開門させたよし。

一、番頭の大久保備前守(同時代に該当者見つからず)の屋敷へも4、5日前に大勢入り、おびただしく盗まれたよし。これは屋敷内の家来には分かりかね、門の出入りを止めているよし。

日夜、小盗人はところどころに働いているが、町方などでは、そういう小さな事件は訴え出ても盗まれた品は出てきっこないから、そのまま泣き寝入りをしているよし。そういう小さな事件はいたるところで起きているよし。

浅草観音のご開帳の朝参り、籠り、また夜参りなど、これまでにないほど警戒が厳重とのこと。当節は舟遊山もされなくなった。下賤の売女や辻の売女などの姿もまったく見かけず、難儀至極のよし。
町々は日が暮れると人通りもなくなってさびしく、四ツ(午後10時)には拍子木と鉄棒の音だけが聞こえるのみのよし。

昨14日、市岡丹後守房仲 ふさなか 1000石 先手鉄砲組頭 この年、54歳)の屋敷へ押し込み、大騒ぎになったよし。

一、先手の非番組が巡回して、先日、一夜に39人召し捕り、六ツ(午前6時)ごろに宅へ帰ってきたところ、自分の屋敷の門前で中間を一人召し捕らえて顔を見たら当家の家来だったので、同心が「許しますか?」と聞いたところ、「自分のところの家来であっても出てはいけない時に出たのだから召し捕れ」と、縄をかけて加役へ引き渡したよし。で、しめて40人の召し捕りとなった。

一、同じご仁が夜中に若い男を召し捕ったところ、自分の息子であった。遊所へでも行く途中だったのだろう、が、時が悪いと、縛り、これまた加役へ引き渡したよし。
どうもあまりにできすぎた話だ、しかし、安藤又兵衛正長 まさなが 331俵 先手鉄砲頭。この年、64歳。同年、罪を得て小普請入り)ならやりそうなことだと噂されている。

一、長谷川のところの中間が廻りから帰り、暮れ方に湯へ行き、帰りがけに近所で売女を買い、五ツ半(午後9時)に戻ってきたところを先手が召し捕って吟味したところ、長谷川の中間と分かった。
しきりに詫びるが、「長谷川の家来ならば勤めがら不埒である、と縄をかけ、ただちに長谷川へ引き渡したよし。長谷川でもただちに門前払いにして本金(すでに渡してある給金を返還)させたよし。

一、赤坂で盗賊6人を召し捕ったところ、3人は赤坂御門の下番、3人は駕籠かきだったよし。
盗賊者を駕籠へ入れ、提灯を点し、□□台へ持ち回るところを召し捕ったのだと。葬礼用の棺の中へ盗品を入れ、上下あみ笠などで盗賊どもも葬礼用の出で立ちで供について歩いていたよし。これは先年、前田半右衛門玄昌 はるまさ 1900石 この年、61歳 先手・弓の2番手組頭として長谷川平蔵の前任者)が火盗方をしたときに途中で見咎めて召し捕ったことがあった。今回もまた似たようなことがあったと。

一 沼間(ぬま)頼母隆峯たかみね  800石 西城御徒 この年、59歳)隊下の河野権之助は剣術もよほどにできたが、このほど組頭と頼母へ暇を願い出たので、組頭がなにゆえと困惑、沼間は「吟味するとことのほかむずかしいことになりそうだから暇を願い出させました。
どうしても、ということであれば調べますが……」といったので、組頭も早々に承知して謹慎させておいたよし。この者、ふだん親しく出入りしている小普請の宅へ先夜泥棒に入り、風呂敷包み、三味線などを盗み、その三味線を故買屋へ売り払ったが、被害者がその三味線を見つけて故買屋を責め、権之助から買ったことを聞き出し、中へ悪党を入れて権之助を詰問、白状させた。こういう次第だから、ほかへも夜盗に入ってもいよう。組頭はそのことを一向に知らずにいたところ、頼母は承知していたらしくて、はやばやと暇を願い出させたよし。
  【ちゃうすけ注:】
  この事件の後日談が『寛政譜』に記されている。
  隠密のこの報告書によって水野為永が辞職した河野権之助
  監視をつけたらしく、つぎの犯行で重刑に処された。
  沼間頼母については、権之助が組下にあったときすでによから
  ぬ行状をかさねていたことを知っていながら病気退職をすすめた
  のは不届きであると同年11月20日に小普請におとされ、出仕
  を2ヶ月間とめられた。

一、 長谷川の管理する無宿島から逃げた無宿人は10人や20人ではない、もっと多いはず。
このところの盗難事件は逃げた無宿人の所業に相違ないと噂されている。
  【ちゅうすけ注:】
  無責任なリポートである。
  長谷川平蔵は、参考にした深川・茂森町の無宿人養育所の失敗
  例にかんがみて、逃亡者は死刑、ときびしい規則を決定めて、逃
  亡を防いでいる。

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