『よしの冊子(ぞうし)』(24)
『よしの冊子』(ここより寛政3年(1791)と見込む つづき)
一、河野勘右衛門(通秀 みちよし1000石 西城留守居 この年、52歳)、本所の大島重四郎(『寛政譜』に記載されていない)へも乱入したが、2ヶ所とも秘しているよし。
萩寺(龍眼寺 江東区3丁目34)へも押し込んだらしい。
(萩寺=竜眼寺 『江戸名所図会』より)
本所に住む玄意という医者が、患家からの依頼があったので疑うこともしないで出向いたところ、御竹蔵(現在の国技館あたり)に大勢待っていて、丸裸に追剥ぎされたとか。
一、神田のうなぎ屋へ乱入、妻と娘をさんざん犯して疵つけたよし。
一、市ヶ谷田町へ入って銭を盗み、その上、赤ん坊を抱いているのを見て、「子をおろせ」という。「おろすと泣く」とわびると、そのまま帰って行ったよし。
同所の男伊達のところへ1人で抜き身をもって入ってきたのに、頭が「おれのところと知らずに入ったのか」といい、組の者たちが、泥棒を剥いで酒代にしよう、と気勢をあげたら、詫びごとをいって逃げたよし。
巣鴨あたりへ入った泥棒の一人を縛ってみたところ、近所の旗本の次男坊だったので、あきれてしまい、突き出すわけにもいかず、わざと縄をゆるめて逃がしたと。
市ヶ谷(田町2丁目裏通り)の小林伊織(正智 まさとも 500石 大番 この年、33歳)という小普請へ盗みに入って衣類などかなり盗んだよし。これは事実の話。
一、板橋で長谷川組が善奴という者と、大松五郎という大盗賊を召し捕ったよし。
【ちゅうすけ注:】
善奴についての詳細は不明。
大松は、松平定信『宇下人言』(岩波文庫)にも記載がある。
「そのうちに大松五郎といふを長谷川何が
しとらへぬ。このもの一人して一夜に二三
ヶ所ほどづつ入て盗みぬ。
一二ヶ月の間に五十何ヶ所と入りて、或は
人をころし、町はおびやかしてとりゑし也。
(重き刑にあへり)。
このもの一人にてありけれども、風声鶴唳
にも驚ききしは、実に義気のおとろへしけ
れば、かくてはなげかわしとて、さまざま評論ありて義気発すべき
御手だては、とりはからひ在りし也」
本所の妙見の寺(墨田区本所4丁目6 元・能勢家下屋敷内)へも押し入ったよし。
(本所・北辰妙見堂)
駿河台の太田姫稲荷(千代田区神田駿河台1丁目2)の近くで追いおとし(路上で強奪)が出たとのこと。
大屋:甚左衛門方へ入ったというのは間違いで、彼の地所を借りている木村玄妓という医者のところへ押し込みに入ったが、件の医者が起きていて誰何したので、逃げ去ったよし。
小日向あたりの小普請組頭:多田善八郎(頼右 500石。この年、32歳)方へも、先日、表の塀をやぶって入ろうとしたところ、中間が機転がきく者で、鎗持ちの力で塀越しに突いたところ盗人に傷を負わすことができ、賊は逃走したよし。
鉄砲洲へんとも八丁堀あたりともいうが、まあ、どっちにしても白河様(老中・松平越中守定信)のお屋敷の近くに医者ていの者がいた。この医者ていの者ははなはだあやしい男で、深夜に何用があるのか往来しているよし。この春、この医者の家へ下女として住みこんだ者が、その様子を見て安心できず、親の病気をいいわけにして暇をとったよし。この医者は盗賊の頭ではないかと噂されている。
一、麹町1丁目のよねという芸者が追剥ぎにあい、その上、一丁ヶ原でおかされたよし。このころ病気で本復もできまいといわれている。
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コメント
2006年7月初めに、逢坂剛さんから、葵小僧=大松五郎説があるが、どう思うかとのお問い合わせのメールをいただいた。
よく知らないとレスした。
が、改めてきょう引用した『宇下人言』を読むと、違う人物らしいので、こんな返事のメールを出した。
葵小僧は一人で行動していません。
定信は、大松の件を「よしの冊子」の報告以上に記述しています。
これは、別の報告を得て記したものとおもえます。
もし、葵小僧と同一人なら、そう、記したと思われます。
投稿: ちゅうすけ | 2007.09.25 08:29