『よしの冊子(ぞうし)』(23)
『よしの冊子』(ここより寛政3年(1791)と見込む)
一 神楽坂の橋本元昌(『寛政譜』に収録されていない)方へは5、6人の盗賊が入ったらしいが、元昌はそうはいっていない様子。
飯田町の黐(もちの)木坂の代官:稲垣藤四郎(豊強 とよかつ 250俵。この年、49歳)、小川町の金岩左京(『寛政譜』に収録されていない)方へも押し入ったところ、家内で騒ぎ立てたら、桑原伊予守(盛員 もりかず 505石5口。長崎奉行から作事奉行。この年、71歳)方の屋根伝いに4人逃げたよし。
同所、津田某へも入ったよし。
同所、赤井弥十郎(直盈…みつ。500石。小姓組。この年、42歳)へも入ったよし。
下谷御徒町の松浦市左衛門(信安 のぶやす 1300石。西城の納戸組。この年、36歳)などの屋敷がある一町には、御徒が14、5五軒も軒をつらねているが、たいていの屋敷がやられているよし。
当節はみなみな不寝の番をしているよし。
4、5日前、水戸様の表門通り(水道橋通 現・白山し通)で白昼、女の懐へ手を入れて懐中物を盗み、さらに裸にしようとしたが、女が大声で泣きわめいたので、水戸様の辻番が聞きつけてこの盗賊を召し捕り、柱へ縛つりけたよし。白昼にとんだことだといいあっている。
加賀っ原(昌平橋北詰)では、暮れごろに小間物屋が追剥ぎにあったよし。
御書付が出た夜、白銀町で3人が押し込んできたが、家人があまりに多かったので逃げたと。
その夜、人形町では押し込んだ3人が捕らえられたよし。
一、本多中務殿屋敷の向かいの松平主殿頭(忠恕…ただひろ 天草2万3200石。この年、65歳)の屋敷で、窓から手を入れて衣類を盗んでいる様子なので、中からその手をつかまえ、早く外へ出て捕らえろと声を立てたら、泥棒は自分の手を切って逃げ去ったとのこと。
ある屋敷では表から門の錠をこじあけたので、中からその手をつかまえて門を開けてみたら首がなかったよし。これは2、3人でやってきた盗賊のうち、1人がそのように捕まったので仲間が首を切って立ち去ったのだろうとうわさされている。
一、無宿島の人足の100人ほどを、長谷川(平蔵宣以 のぶため)が更生じゅうぶんとみて、金子1分(約5万円)ずつ遣わし、「もはやその方たちはまともな人間になったのだから、これから先は自分で稼げ」と放したところ、どいつもこいつも元の盗賊へ立ちかえり、この節、あちこちに押し込んでいるのだと。
【ちゅうすけ注:】
この聞き込みはおかしい。この時期、石川島の人足寄場に収容さ
れているのは、いわゆる人別帳に載っていない無宿者であって、
犯罪予備軍ではあって、犯罪者ではない。
とうぜん、盗みなどのはっきりした犯罪歴があれば、これは伝馬
町送りのはず。
石川島の人足寄場に恵犯罪者も収容されるようになったのは、
長谷川平蔵が寄場取扱を免ぜられて、後任責任者に村田鉄太
郎昌敷(まさのぶ)が寄場奉行になつて以後である。
このリポートによっても、『よしの冊子』に全面的な信頼を寄せるこ
との危険性がうかがえよう。
一、町々へ、盗人は打ち殺せとの書付が出ているので、町人どももすこしは力を得て、このごろは町方もすこしは威勢がよくなっている様子。
先日などはなかなか恐れ入って盗賊に一本を取られたよし。
この節も4、5人で抜き身をもって町を歩き、
「おれたちは抜き身をさげているが、泥棒ではない。用心にこうしているのだ。なに、縛りたければ縛れ。こうだぞ」と刀を振りまわしたので、道をあけ通したと。
しかしながら、叩き殺せとのお触れが出たから、少々心強くなったと町人たちは悦んでいる様子。
一、長崎も江戸のように町々へ押し入りがあり、あちこち物騒。
長崎奉行(永井伊織直廉? なおかど 1000石 使番から長崎奉行 この年、53歳 『寛政譜』では寛政4年閏2月6日没と)も叩き殺されたとか。
井上図書(正賢 まさよし ならば 1500石 小姓組番士から進物掛 この年、33歳 長崎からの帰路に没)はその検分に行くのだ、などと沙汰されているよし。
【ちゅうすけ注:】
井上図書の長崎行きは寛政3年4月---ということは、このリポー
トは同年2月か3月のものか。
一、この節、世間一般に物騒な話のみで、このご時節にどうしたことだか、これはどうやら御防方がありそうなものだ。打ち捨てとのお触れが出ても、どうすればそれが実行できるのだ。請け合ってこっちが勝つとはいいきれまい。
やり損じたときは大馬鹿扱いだ。それだったら黙っているがいい。
そのような馬鹿者にかかずらわって傷でも受けたらそれこそ不忠というもの。
2~3000石もの屋敷へは入らない。
小身で金のありそうなところへ入る。
または勤番留守、あるいは当番の留守を見込んで入るのだから、切り捨てることもできない、不人情な仰せ出だ。
米屋騒ぎでさえ10組の手先組を動員して静かになったではないか。米屋騒ぎは狙われたのが米屋ばかりだったのに10人の先手組頭に出動を命じたではないか。
こんどの騒ぎは世間全般、一度に起きているのだから、左金吾殿一人ではどうやっても手がまわるはずがない。
どうもこれではご時節がら、余りにも不釣合、お上の御不徳というもの。困ったものだともっぱらの噂。
【ちゅうすけ注:】
先手の長谷川組をはじめ10組が騒擾鎮圧に出動したのは、
天明7年(1786)5月23日からのこと。
松平左金吾定寅が火盗改メに再任されたのは、寛政3年4月
7日から。発令の理由は葵小僧の蠢動によると推定。葵小僧は
長谷川組がを捕らえたので、翌年5月11日に解任。
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