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2005.02.17

〔雨引(あまびき)〕の文五郎

『鬼平犯科帳』文庫巻9の[雨引の文五郎]と巻12[犬神の権三]に登場。〔西尾(にしお)〕の長兵衛一味にいたときは、その右腕だった。長兵衛の歿後は後継者になることを嫌って〔ひとりばたらき〕。
(参照: 〔西尾〕の長兵衛の項)

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〔西尾〕一味にいたときのライバルだった〔落針(おちはり)〕の彦蔵との因縁の果し合いに勝ったのち、密偵に。
〔ひとりばたらき〕時代の別名は、[隙間風(すきまかぜ)]。
(参照: 〔落針〕の彦蔵の項)

年齢・容姿:[犬神の権三]のとき(寛政5年 1793)33歳。その前年の寛政5年の事件である[雨引の文五郎]では32歳。小柄で矮躯で、その躰の半分はあろうかというほどに長い馬面の顔がのっている。笑うと左の頬に笑くぼがうかび、なんともいえぬ愛嬌があった。
生国:常陸国真壁郡(まかべごおり)本木村あたり(現・茨城県桜川市本木。ここの雨引山の中腹に有名な雨引観音がある)。

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赤印の村々が昭和29年(1954)に大和村となった(経緯はコメント欄に。地図は明治20年制作)

探索の発端:江戸で12件、400両の盗みをし、あとに〔鬼花菱〕の紋章を黒地に白く浮きたたせ、下に朱で〔雨引文五〕と刷った手札をのこす。

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鬼花菱

さらに、江戸を去りぎわに、自分の彩色人相書を桐箱に入れて鬼平へとどけてきた。
その、これ見よがしのふるまいに、鬼平はよい気もちはしなかった。

2年後、二ツ目通りの茶店〔笹や〕の前を行きすぎた、人相書きどおりの風体の〔雨引〕の文五郎を見かけた鬼平が尾行すると、その前を歩いていた男が、文五郎に匕首をつきつけた。〔落針〕の彦蔵であった。

結末:捕らえた彦蔵を、牢から逃がしたのは、鬼平からいいつかった密偵〔舟形(ふながた)〕の宗平で、密偵たちがみごとに尾行して所在をつかみ、見張っていると、ふたたび、〔雨引〕の文五郎と決闘し、文五郎もについた。
(参照: 〔舟形〕の宗平の項 )
刑を受ける代わりに火盗改メの密偵となった〔雨引〕の文五郎は、こんどは〔犬神〕の権三郎を破牢させて因縁に決着をつけようとし、けっきょく自決して果てる。
(参照: 〔犬神〕の権三郎の項)

つぶやき:〔雨引〕の文五郎を売ろうとしなかった密偵〔舟形〕の宗平のいい分がおかしい。
「雨引の文五郎ほどの芸のある盗人に、御縄を頂戴させるのが---ちょいと、その、惜しい気もいたしまして---」
つまり、盗人が盗人に惚れているということで、読み手はその盗人へ、一挙に感情移入をしてしまう---池波小説のヒミツの一つである。

雨引観音を祀っている雨引山楽法寺の事務方の大畑さんによると、楽法寺の住持も『鬼平犯科帳』の大ファンで、ビデオ全巻を購入してひそかに鑑賞されていると。

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雨引山法楽寺の境内。雨引観音は安産子育にご利益があると。


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コメント

えっ? 「雨引山」って、寺の山号じゃなく、現在している山名を山号にしただけなのですか?

そうかぁ、盗人の「通り名」調べは、いろんな副産物があるんですね。なんとか、お手伝いできるといいんですが、管理者さんのほうが、つねに一歩も二歩もすすんでおられるので、どうも、ね。

投稿: 文くばり丈太 | 2005.02.17 19:06

>文くばり丈太さん

いつも、すばらしいコメント、ありがとうございます。

別段、管理者がすすんでいるとは、おもっていません。書き込まれたコメントに触発されているだけです。

「雨引山」の件だって、メールと写真をくださった大畑さんの言葉をお伝えしているだけです。

でも、そういう伝え方が、インターネット(ブログ)のえもいわれぬメリットなのかもしれませんね。

これからもどうぞ、お気兼ねなさらないで、すてきなコメントをお書き込みください。

投稿: ちゅうすけ | 2005.02.17 19:14

盗人に惚れるのは、〔舟形〕の宗平爺つぁんだけではありませんよ。
風貌はともかく、〔雨引〕の文五郎の心根には、あたしだって、ちょっと「ホ」の字です。

だって、〔西尾〕のお頭の---あ、西尾先生ではありません---ほんと、まぎらわしいんだから---後継者となることを、断固、拒否して、自分の信条をとおすところなど、ハードボイルドでしょ?

投稿: 加代子 | 2005.02.17 19:32

雨引の文五郎郎とは関係ないことですが、「冝雲寺それとも「宣雲寺」?
雨引の文五郎が平蔵に尾行され、小名木川沿いの道から秋元但馬守下屋敷の小道を右に切れ込みます。
そして後から来た町人もまた同じ道に。
文庫(旧版)9巻P.17には[道の突き当りが、宣雲寺の裏門である]とありますが、ここでちょっと待てよになりました。
私が見ている近江屋版の切絵図には「冝雲寺」とあり、念のために見た人文社の尾張屋版には「宣雲寺」になってます。
他にも池波さんはお寺の名前を取り違えてることがありますが、気になりましたので。

投稿: 靖酔 | 2005.02.17 23:19

>靖酔さん

すごい発見をしましたね。

1.ふだんは近江屋板を手元においている池波さんですが、「冝雲寺」を「宣雲寺」と早合点した。
(池波さんがこのときにかぎって尾張屋板を開いたとはかんがえにくい)。

2.エッセイによると、あのあたりには池波さんの親類もあったようで、訪れたついでに偏額をみて「宣雲寺」とおぼえた。

ぼくは、1.説ですね。

この寺、抱一の絵のコレクションで有名ですね。
もっとも、ウォーキングで参詣したときの住職の講話によると、戦災で焼失したので、その後に求めたものとかでしたね。
築山がみごとなお寺さんです。

投稿: ちゅうすけ | 2005.02.18 03:14

舟形の宗平の言葉
「雨引の文五郎ほどの芸がある盗人に・・・・」
この芸ある盗人とは如何なる盗賊なりやと思いながら犬神の権三(文庫10)を読んでましたら回答を見つけました。
池波さんが文五郎について(p。16)
「文五郎の盗賊としての才能と信念が実に強固だったことがものがたっている」と述べ、
三次郎には
「落ちついていて、気のくばりがこまやかで」と語らせてます。
最後には(P.49)
権三が文五郎の女房へ施してくれた恩義への文五郎の行動に兔吾が
「雨引きの文五郎はずいぶんとばかな奴でございますな」というのを聞き平蔵が
「それだからお前はばかだというのだ!!」と一喝する台詞に文五郎を自害させてしまったくやしさと思いがあり「芸のある盗人」の回答として読みました。
「雨引の文五郎」と「犬神の権三」はセットで読まないと興味半減になりますね。

投稿: 靖酔 | 2005.02.18 09:09

〔雨引〕の文五郎の出生地を、常陸国真壁郡本木村あたり---と推理しましたが、本木(もとぎ)村は、雨引観音の門前参道町で、江戸時代は旅籠なども多かったそうです。

まず明治22年、地図に赤印をつけている、東飯田、本木、阿部田、大曽根、羽田の5カ村が合併して雨引村、青木、高森、大国玉、高久、金敷の5カ村が合併して大国村となり、昭和29年に2村の合併で大和村が誕生しました。

村役場は羽田にあるとか。

投稿: ちゅうすけ | 2005.02.18 15:42

この文五郎の人柄もあってか、是非一度訪ねてみたい場所だと思っておりましたが、こちらを見てよりそれが強くなりました。
この感情移入が池波小説のヒミツの一つだったのですね。あはっまさしくその通りの読者で、・・幸せだなぁ。

投稿: c | 2005.02.20 23:43

>c さん

雨引観音は、安産・子育てにご利益があるそうですが、c さんは、前のほうはもうご卒業ですから、子育て祈願ですね。

ただ、山の中腹といいますから、ご亭主ドノに運転してもらって行かないときついかも。

投稿: ちゅうすけ | 2005.02.23 16:27

雨引観音のある大和村は羽田村などが合併して---と書きましたが、こりって、親鸞が道場だか庵だかを建てたところじゃなかったかしら。

そうだと、浄土眞宗かな。

鬼平を調べていると、いろんなことに関連してきますね。

投稿: ちゅうすけ | 2005.02.23 16:35

雨引生まれの、59歳の自称ジェントルマンです。少年時代を大和村で過ごしたことは、今となっては本当に懐かしく想い出されます。雨引山 楽法寺は雨引観音として名声の地であり、真言宗 豊山派の寺院です。因みに現在は、桜川市本木ですね。

投稿: 飯田正太郎 | 2009.07.17 22:40

>飯田 正太郎 さん
お待ちしてました。
『鬼平犯科帳』の盗賊の〔通り名〕は、出生地に基づいているにちがいないと推察、400人ばかりを、観光資源として調べてきました。
その地元の観光課にも、すすめてきました。
やつと、飯田さんが応えてくださいました。
〔雨引の文五郎〕と雨引観音のおかげです。
これをご縁に、いろいろ教えてください。
楽法寺の住所表記は、さっそくに訂正させていただきます。ありがとうございました。

投稿: ちゅうすけ | 2009.07.18 02:30

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