ちゅうすけのひとり言(23)
8月3日(日曜日)の午後は、5年ごし続いている、静岡のSBS学苑パルシェの[鬼平講座]の勉強日であった。
この日のテキストは、『鬼平犯科帳』文庫巻8[明神の次郎吉]。
主題は、「親切、感謝、思いやり」。
(唯一、存続している[鬼平クラス]のリポートは、7月6日から始めたばかり。7月6日分←クリック)
テキストの講義に入る前に、過去すべての[鬼平クラス]でやったことのないものを配布・解説した。
クラス20名の中で、『寛政重修諸家譜』に氏名が載っているお目見(おめみえ)以上の幕臣・大名と同姓の人---14名分の『諸家譜』である。それも、このプログ”Who's Who"にしばしば引用している、一覧性を高めるために、手づくり再編成したものである(例として、駿州・田中城から逃れて浜松の徳川傘下入りして、三方ヶ原で討死にした長谷川家正長の末弟が潜んだ郷---瀬名氏の一部を掲出)。
(読むためではなく、一覧性を確かめるための掲出)
20名中14名という異例の高率は、お察しのとおり、静岡だからである。維新で徳川家は駿河へ帰され、幕臣たちも減禄・移住した。
で、親類・縁者、学友、先輩・同僚・後輩の中に幕臣の末裔が数多くいるはずだから、そのよすがに---という意味での『寛政譜』配布であった。
女性受講者で結婚前の旧姓を申し出てきた人には、締め切りなしでいつか渡すと約す。
こうすることで、長谷川平蔵にいささかでもつながる史実がたぐれるかも、と思ったのである。
【追記】早速に、八木家と長谷川家の姻戚関係が見つかった。結果は、8月18日[〔橘屋〕のお仲] (5)を乞うご期待。
さて、テキスト。
まず、A4のカラー・コピー5葉。
うち2葉は、建築設計家・知久秀章さんの手なる〔五鉄〕関係のもの。
(〔五鉄〕店内のパース)
【参照】もう1葉、〔五鉄〕の見取り図は、2008年2月25日[盟友・岸井左馬之助] (2)←クリック
知久さんに、全篇から〔五鉄〕についての記述を40項以上採集し、渡して想像図を描いてもらったのだが、実は、知久さんは幕臣ゆかりの人であり、『鬼平犯科帳』巻11[穴]などに登場している元盗賊の頭・〔帯川(おびかわ←クリック)〕の源助にかかわりあいが深い。
長野県下伊那郡阿南町帯川に、遠州街道への関所の遺跡が残っている。
この関所の責任者が知久家であった。
カラーコピー配布したのは、テキスト[明神の次郎吉]で、岸井左馬之助が〔明神(みょうじん←クリック)の次郎吉を、感謝をこめてもてなしたのが〔五鉄〕であったから。
今後、『鬼平犯科帳』を読み返していて、篇中に〔五鉄〕が登場したら、この店内を連想してリアル感を味わってもらうため。
もう一つのロケーションである[春慶寺←クリック 呼び出したリストの中の「岸井左馬之助と春慶寺」←クリック] には、11月8日(土)の鬼平ウォーキングで参詣することにしている。
(この回にかぎって第2土曜日なのは、第1日曜日が連休にあたっており、上京・帰静の列車が混むと予想したのと、日曜日はウォーキング後の懇親会食場が少ないため)。
カラーコピーの1葉は、〔明神〕の次郎吉が骨休めしている実家のある下諏訪(=緑○)から追分経由、日本橋までの中仙道と甲州路。左の小青〇=次郎吉がうなった♪「エエ、笠取のォ、鴉(からす)がカァと鳴くときは---
の長久保→芦田間の笠取峠。
右の小青〇=次郎吉が宗円坊を葬った妙音寺(みょうおんじ)のある小田井。(岸井良衛さん『五街道細見』(青蛙房 付録地図より))。
道中物は、作家も地図を見ながら書いているので、読み手にも地図がほしい。
この篇のばあい、なぜ中仙道なのかというと、池波さんは20歳前の若いころ、休みになるとたちまち、出かけていたのが中仙道ぞいの山々であったから。
それともう一つ、沓掛を出したかったとも思われる。
長谷川伸師の戯曲の代表作の一篇が『沓掛時次郎』で、池波さんとすると、師の温顔をおもいうかべながら、次郎吉を歩ませたのかも。
クラスでは、自分の中に規律をもっている男---時次郎は、ハードボイルドの股旅ものかもと解説。
小説家として立ってからの池波さんは、東海道ぞいをしらべて歩くことが多かった。信玄・家康まわりを実地にあたるためである。
その論拠の一つは、『鬼平犯科帳』に登場する盗賊で、〔通り名(呼び名)ともいう〕で、江戸を除いて、最も多いのが静岡県(←クリック)。
もう1葉は、春慶寺と〔五鉄〕の位置関係を示す北本所の切絵図。
押上の春慶寺←→〔五鉄〕は、片道2km以上ある。これを左馬之助は、大八車に次郎吉を乗せて往復したわけだ。道順は、上切絵図の横に流れているに2筋の川のうち、春慶寺を出ると、上のほうの横川ぞいに高杉道場の前を通って竪川(たてかわ)にぶつかったら北辻橋を右(西)にわたり、ニッ目ノ橋東詰の〔五鉄〕へ。
クラスでは、岸井左馬之助の純な恩返しの気持ちを、鬼平がおもいやりでやさしくつつむ友情について言及。
それとも一つ---池波さんの人生観でもある、「悪いことをしながら、善くおもわれたい」という矛盾した生き物である人間ということにも。
【参照】これまでの主題一覧
(1) [辰蔵が亡祖父・宣雄の火盗改メの記録を消した]
(2) [煙管師・後藤兵左衛門の実の姿]
(3) [長谷川平蔵の次妹・与詩の離縁]
(4) [平蔵の3妹の実態とその嫁ぎ先
(5) [長谷川平蔵の妹たち---多可、与詩、阿佐の嫁入り時期]
(6) [長谷川家と田中藩主・本多伯耆守正珍の関係]
(7) [長谷川平蔵と田沼意次の関係]
(8) [吉宗の江戸城入りに従った紀州藩士の重鎮たち]
(9) [長谷川平蔵調べと『寛政重修諸家譜』]
(10) [吉宗の江戸城入りに従った紀州藩士たち---深井雅海さん
の紀要への論文]
(11) [鬼平=長谷川平蔵の年譜と〔舟形〕の宗平の疑問
(12) [新田を開発した代官の取り分---古郡孫大夫年庸]
(13) [三方ヶ原の戦死者---細井喜三郎勝宗]
(14) [三方ヶ原の戦死者リストの区分け]
(15) [平蔵宣雄の跡目相続と権九郎宣尹の命日]
(16) [武田軍の二股城攻め]
(17) [三方ヶ原の戦死者---中根平左衛門正照]
(18) [三方ヶ原の戦死者---夏目]次郎左衛門吉信]
(19) [ 『剣客商売』の秋山小兵衛の出身地・秋山郷をみつけた池
波さん]
(20) [長谷川一門から養子に行った服部家とは?
(21) [あの世で長谷川平蔵に訊いてみたい幕臣2人への評言
(22) [『江戸名所図会』の挿絵[雑司ヶ谷 鬼子母神]に描かれて
いる女性参詣人
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