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2008.04.14

妙の見た阿記(その4)

いうまでもなく、平蔵宣雄(のぶお 47歳 家禄400石 先手・弓の8番手組頭)は、妻女同様の(たえ 40歳)に感謝していることをかくさない。

そもそも、長谷川家の四代目・伊兵衛宣就(のぶなり)の三男として生まれた平蔵宣雄の父・藤八郎宣有(のぶあり)は、生来病弱で養子にも出されないで、宣就の厄介者のままで、宝暦13年(1763)に一生を終えた。享年は推定ではあるが70歳をはるかに超えていた。

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(四代目・宣就から八代平蔵宣以など。 参考=本家・正直)

その宣有が30歳のころ、看護にきていたむすめとねんごろになった。牟弥(むね)というむすめは、平蔵(のちの宣雄)を産んだ。
牟弥の父は、備中・松山藩の浪人・三原七郎右衛門であった。
浪人する羽目になったのは、藩主に家督相続の手つづきの手落ちがあり、取りつぶされたからである。
浪人とはいえ、元は100石の馬廻役という主要な藩士であったから、牟礼はしっかりした教育を受けており、平蔵をみっちり仕込んだ。

参照】2007年5月21日~[平蔵宣雄が受けた図形学習] (1) (2)
2007年5月22日~[平蔵宣雄が受けた『論語』学習] (1)  (2) 2007年5月25日[平蔵と権太郎の分際(ぶんざい)]

牟祢もよくできた武家育ちのおんなであり、宣雄は受けた教育をありがたいといまでも感謝している。もっとも。史実には、その後の牟礼の行方をたしかめる手がかりはない。浪人のむすめとして市井にうもれていったのであろうか。それとも、長谷川家の厄介者の看護者であり、さらなるや厄介者(---平蔵宣雄)の母親として、長谷川家の片隅で一生を終えたのであろうか。

いっぽうのは、知行地の山家(やまが)育ちのむすめとはいえ、銕三郎の実母であり、のちにはstrong>長谷川家の主婦代理として献身的につとめた。
老いた病人の宣有ばかりでなく、臥せていることのほうが多かった六代当主・権十郎宣尹(のぶただ)、さらには夫の平蔵宣雄の正妻であり家つきだが、歿するまでの10数年間、起きあがりえたことのない波津の下(しも)の世話まで、時にはこなしたのである。

宣雄が、に頭があがらないのは当然だし、もっと感心するのは、歴代当主たちは女ぐせがいいとはいえなかった長谷川家で、銕三郎を産んで以後、その悪癖をぴたりと止めたのである。
(もっとも、銕三郎のお芙沙阿記のことは、例外である。まあ、家系なんだから、しばらくは修(おさ)るまいとおもうが)

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(英泉『浮世風俗美女競』部分 阿記のイメージ)

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(英泉『美麗仙女香』部分 お芙沙のイメージ)

これは、他人が類推することではないが、は、躰によほどの自信をもっていたのであろう。

「そなたは、阿記という女性(にょしょう)は、武家の奥には美形すぎると申したが、それほどの美人なれば、いちど、会ってみたいものよのう」
「殿さま。お齢(とし)をお考えさないませ」
「まだ、側室を持ってもおかしくはない齢だぞ」
「お持ちになりますか?」
「冗談だ。言ってみただけよ」
「よろしいのでございますよ、お持ちになっても---」

「なに、一はやらず、二はやめずという。持ったとしても、そちらまで、気がまわらぬであろうから、宝の持ちぐされになろう」
「宝のようなおなごが、おりましようか?」
「おるぞ。目の前に、一人な」
「お世辞も、ほどほどになさいませぬと、効きが薄れます」
「は、ははは」
「ほ、ほほほ」

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