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2012.02.03

松代への旅(15)

「お申しこしの仁三郎(にさぶろう 30代半ば)って男(やつ)のことですが、南町(奉行所)の矢島(やじま 同心)さんがずっとこころがけてられまして---」
高崎城下・九蔵町の塩売り店〔九蔵屋〕の奥の離れであった。

喉につかえでもあるかのように太くて高い声の主は、一帯の元締で相撲取りほどに肥えた九蔵(くぞう 41歳)のものである。

平蔵(へいぞう 40歳)は8年前に、〔船影ふなかげ)〕の忠兵衛(ちゅうべえ 30代なかば)と交渉ごとをすすめるために、九蔵の手を借りた。

参照】2010年8月29日~[〔船影(ふなかげ)〕の忠兵衛] (3) () () 
2011年11月10日~[月輪尼の初瀬(はせ)への旅] (

船影」の首領との取りきめのまとめには仁三郎を使った。

こんどの頼まれごとである松代藩の酒蔵元の盗み(しごと)は、忠兵衛一味のものかもしれないと推量していた。
もっとも、江戸藩邸の用人・海野十蔵(じゅうぞう 50がらみ)は、宝船の雛形のことには触れutったから、別の一味との疑いも捨ててはいない。

できれば、仁三郎にもう一度会い、8年前にはしろうとはおもわなかった忠兵衛の人柄(ひととなり)を聴いておくのも手がかりの一つとおもいついたのである。

矢島さんがおっしゃったには---と九蔵が言葉をつないだ。
8年前のあのとき、〔船影}の忠兵衛のもとへ話しあいにいく仁三郎に10人をこえる尾行(つ)け人をつけたが、追分宿の先でふっと消えられてしまった。

尾行人たちは善光寺道を行くものときめこみ、8人が先わまりをして小諸宿まで手くばりしたところ、仁三郎は中山道を小田井村のほうへ歩み、追っ手が泡をくって先行した者たちを呼び返しかにかかって手薄になった虚をついて消えた。

さいわい、仁三郎が帰着し、〔船影〕との話しあいが上首尾だったので、矢島同心ほかは職をうしなわないですんだ。

「ところが、2年前の浅間の山焼けのおり、高崎城下に灰が5寸(15cm)も降り、みんなそれを除くために大騒動したが、倉賀野の渡しのかたわらの一軒家で、灰をかきあつめている仁三郎を尾行人だった者がみかけ、矢島同心へ注進した。

藩にとっては、見方によっては功労者でもあるので、それとなく見張るようにしていたが、〔船影」一味とのつながりはきれているらしく、ときどき半月ほど留守をすることがあるくらいで、何をして暮らしているのか、静かなものだという。

仁三郎についてのあらましが終わったところで、お(こう 18歳)が、{音羽(おとわ)〕の重右衛門(じゅうえもくん 58歳)のところで[化粧(けわい)読みうり]の見習いをしている息子の十三蔵(とみぞう 18歳)のすすみ具合を
訊いた。

「送りこんで8ヶ月になるというのに、なにに興味をもったのか、もうちょっと覚えたいことがあるとぬかして、帰ってこないのだよ」
九蔵はまんざらでもない口ぶりであった。

「私も浦和へ戻ったら、〔音羽〕の元締さくんのところへお世話になるのです」
「それでは、十三蔵に、いま、なにを見習っておるのか、文をよこすようにいってくだせえ。あんまり長居をして〔音羽〕のに厄介にかけては申しわけねえでね」


絹取引きの中心どころの一つでもある高崎城下のこと、旅籠は多いが本陣、脇本陣という名のl旅亭はなかったが、本陣格の格式の旅籠はあった。
九増町から西へ2丁(200m)kの元町の〔大黒屋〕がそれであった。
平蔵たちはその〔大黒屋〕に草鞋(わらじ)を脱いでいた。

平蔵との最後の夜だからと期待をはずませていたおに、
「ちょっと用ができた。今夜は帰れないかもしれない。独りで寝るように---」
「つまんない---」
「閨事(ねやごと)は、毎夜するものではない。夫婦(めおと)でも早く飽きがくる」
「飽きてなんかいない---」

むくれたおを残し、平蔵松造(よしぞう 35歳)主従は、夜の町へ消えた。

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