松代への旅(2)
「松代へ旅することになった」
告げられた奈々(なな 18歳)が小首をかしげ、
「松代って、どこだす?」
「信濃だ。家で待っている」
それだけ告げると、平蔵(へいぞう 40歳)は亀久町へ向かった。
家の表戸は、鍵がかかっていなかった。
帰りじたくをしていた手伝いのお倉(くら 66歳)が食事を訊き、まだと応えるとあわてて吸いものの準備をはじめようとするのを止めた。
「おっつけ奈々も戻ってこよう。なにか口にいれるものを板場でみつくろって持ち帰るはずだから、支度は無用。それより、酒はあったかな?」
徳利をふって音をたしかめ、
「少なくなってますで、買うて参じます」
胡瓜(きゅうり)の酢もみと枝豆を箱膳に置き、片口に酒をみたし、でていった。
袴を脱ぎすて、小茶碗に酒を移したが、奈々にどうもちかけたものか。
4年前、与板への旅では、中山道の蕨宿で本町通りの旅籠〔林〕源兵衛方の離れで里貴(りき 37歳)と2夜を共にすごした。
そのとき4里半(18km)を半日というのは女足ではきついと判断して舟にした。
こんども奈々を誘うとすると、舟になろう。
真夏の陽の下での月魄(つきしろ)に騎乗しての4里半は苦労だ。
【参照】2011年10月9日~[日野宿への旅] (1) 2) (3) (4) (5) (6)
問題は、旅籠だ---旅籠〔林〕源兵衛方の離れだと、宿の者も里貴とのことを覚えていようし、奈々もすっきりすまい。
といって、本陣に泊まるわけにはいかない。
離れのある宿を、大川端の旅亭〔おおはま〕で教えてもらおうか。
〔おおはま〕なら高級旅亭仲間のつながりがありそうだ。
(しかし、われも愚かだな。奈々と一夜をすごすための気くばりにふけっておる)
小茶碗を口にもしないうちに、当の奈々が徳利を手に帰ってきた。
「そこでお倉婆ぁはんに会うたよって、去(い)なせましてん」
店を2日空(あけ)ることができるかと問うと、松代行きということから、この年の春の甲州道中の府中宿での夜を連想していたのであろう、
「春のときかて、女中頭のお夏(なつ 20)はんらがしっかり守ってくれよったよって、今度かて---」
「あの娘(こ)たちへの褒美の着物代の負担がふえるな」
「蔵はんと朝までいっしょできるんやから、そんなん、安いもんや。そんで、いつ発(た)つん?」
「5日後。しかし、こんどは月魄(つきしろ)でなく、舟だ」
「わぁ、おもろそう---」
翌日から平蔵はあわただしく動いた。
蕨宿までの荒川を遡行する舟を、〔箱根屋〕の権七(ごんしち 53歳)に、こんどはしぶしぶながら引きうけさせた。
権七としても、『剛(ごう)、もっと剛(つよ)く』の板行の平蔵の心労を察していただけに、強いことはいわなかった。
〔音羽(おとわ)〕の重右衛門(じゅうえもん 58歳)には松代とそのまわりの香具師(やし)の元締衆への折紙(書状)をまわしてもらった。
高崎の事件でしりあった九蔵町(くぞうまち)の元締・九蔵(49歳)へ信濃へ行く道すがら、高崎城下に一泊するが、そのとき、8年前の事件で捕らえて放した仁三郎(にさぶろう 20代後半=当時)と名乗った男の連絡(つなぎ)先がわかっていたら教えてほしいとの飛脚便を送った。
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