松代への旅(3)
亀久橋下で舟着きへ降りたのは、平蔵(へいぞう 40歳)と松造(よしぞう 35歳)主従、奈々(なな 18歳)と茶寮[季四〕で座敷女中で寮長並みをしているお秋(あき 19歳)あった。
〔季四〕の座敷女中は、お夏(なつ 20歳 女中頭)、お冬(ふゆ 21歳 頭並み)、お春(はる 21歳 寮長)とお秋の4人である。
女中たちにも世間を見せてやりたいという奈々の考えで、信州・佐久の在からきているお冬とお春は中山道を出府のおりに通ったろうということで、紀州・貴志村育ちのお秋が奈々の供にえらばれた。
おなじ紀州からきたお夏は、女将の留守をあずかるということで、今回ははずれされた。
こういうところは、里貴(りき 逝年40歳)よりもうんと若い奈々のほうが気がまわるというか、前回の日野行きでおもいついたらしい。
女中ちたが自分よりも齢上ばかりとうところにも気くばりを重ねている。
【参照】2011年8月9日[女中師範役のお栄(えい)]
2011年8月9日[蓮華院の月輪尼(がちりんに)] (6)
権七(ごんしち)が用意してくれた舟は、船旅は初めての奈々とお秋のために、見晴らしがいいように板を半分はずした屋根船であった。
もちろん、帆行のためもあった。
客を迎えるおんなたちの肌に、真夏の陽光は禁物であった。
船頭は老練の辰五郎(たつごろう 55歳)と帆立て役の若手の百介(ももすけ 21歳)であった。
大川を遡行するには、橋をくぐるたびに帆をおろさなければならず、そのたびに百介が筋肉をもりあがらせて働くのを、お秋が伏せ目がちに見ては耳たぶを赤くしていることに、大川はしをくぐるあたりで奈々が気づいた。
(お秋も19歳なんやし、肌をさらした男の躰を見たら、胸さわぎがすんの、あたりまえや)
しかし、今夜の泊まりは、平蔵・奈々とは別の旅籠で、お秋は百介と同じ旅籠になっている。
(松造はんに、よう頼んどかんと---)
そういう奈々は、平蔵と並んで座り、袴の後ろに左腕の指をさしこんだままで着物ごしの肉の感触を楽しみながら左右の河岸の家々やにぎわいを楽しんでいた。
河岸際まで幕府の米蔵がならんでいるのを左手にみてすぎ、駒形堂は船上から両手をあわせ拝んだ。
(駒形堂・清水稲荷 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)
大川橋をくぐったところで、前方に山がみえた。
「あの山は---?」
「つくばの山です」
辰五郎が教えた。
(大川橋 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)
「乗ってから初めての山やわあ」
「これから先も、船からは山の姿はおがめません。戸田の渡し場まで行けば、富士が半分ほど姿をみせてくれましょう」
「東国はひろびろしてはるんや。うちらの生まれた村の貴志やと、目の前が山やさかい、いまおもうと、よう息がつまらなんだことや。お秋はん、よう見ておいて、お夏はんに話してやり」
「はい---」
前の席のお秋は、生返事はしたものの景色どころではなかった。
目の前の百介の筋肉の動きに下腹が重くなっていた。
初めての兆しであった。
「女将さん、左手をご覧なさいませ。大屋根は浅草観音堂です。その右手の丘は聖天さんです」
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