ちゅうすけのひとり言(86)
田沼意次(68歳)の重商派政権を、策謀をもって倒した旧守農本派グループは、白川藩主・松平定信(30歳)を老中首座にすえ、組閣した。
そのとき、幼な学友・水野為長が徒目付、小人目付などに所属している下級隠密を、柳営内はもとより江戸および近郊のあちこちに放って噂ばなしをあつめた報告書が『よしの冊子(ぞうし)』である。
松平家に永く秘匿されていたらしいが、同家が白川藩から伊勢・桑名藩へ転封(文政6年 1823)になったとき、田内親輔(月堂)が発見・抄録し、各項が、「---なんとかのよし」でむすばれていたことから「よしの冊子」と名づけられたという。
報告書の内容は、最終の読み手である定信におもねる気配が濃厚で、田沼派と目されている人物には故意に点が辛く書かれている。
その扱いうけた一人が長谷川平蔵であることはいうまでもない。
【参照】1909念8月16日~[現代語訳『よしの冊子』まとめ] (1) (2) (3) (4) (5) (6)
報告書が呈上されはじめた天明7年(1787)6月19日から3年目の寛政元年あたりまではその匂いが濃く、定信の平蔵観はそのあいだに深く刷りこまれた観がある。
ファースト・インプレッションといってもよかろうか、定信の長谷川平蔵嫌いは、この『よしの冊子』報告書に拠っていると推察しているのだが。
もちろん、『よしの冊子』の価値を全否定するつもりは毛頭ない。
長谷川平蔵と同時代の人間が聴いて書いた文書として貴重ある。
こころして読めば、貴重に手がかりがえられる。
定信としては、当初は下情に通じたいとの帝王を真似た心情もあり、やや熱心に目を通したようだが、そのうち、あまりにも隠密たちの目線が低いことに気づき、ほとんど目を通さなくなったらしい。
長谷川平蔵に関しての隠密たちの評価ががらりと変わり、火盗改メの長官として意をつくしており、江戸町人たちからも大岡越前守忠相の再来ともてはやされるようになっていることが書かれているころにはもう、定信の目にとどかなくなっていた。
長谷川平蔵にとって、そのことが幸いであったか不幸であったかは、一概にはきめられない。
じつは、きょうの「ひとり言」は、そのことを述べるつもりで書きはじめたのではない。
幼な学友の隠密好きは、公の老中着座を機に始まったものとは思えない。
天明3年(1783)10月16日に白河藩主として封を継ぐ以前、養父・定邦(さだくに)が中風で倒れたあたりから、水野為長に命じて江戸藩邸、白河領内に隠密を放ち、情報を収集していたのではないかとの疑念が生じてきた。
この疑念が、定信についての諸書に語られたことがないのは、『よしの冊子』が松平家において永いあいだ門外不出の扱いをうけ、秘匿されていたことから考え、同家には白河藩内版「よしの冊子」がいまだに秘されつづけているのではないか、との疑念が解けないでいる。
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