« 不穏な予感(6) | トップページ | 庭番・倉地政之助の存念(2) »

2012.01.14

庭番・倉地政之助の存念

「女将どののご不幸のときには、香華(こうげ)をたむけることもかないませず---」
庭の者支配役の倉地政之助満済(まずみ 46歳)がこころからのような声音(こわね)で頭をさげた。

「ご弔辞、いたみいる」
平蔵(へいぞう 40歳)もすなおに受けた。
女将とは、1年前に歿した里貴(りき 享年40歳)のことであった。


奈々(なな 18歳)を木挽町(こびきちょう)の老中・田沼主殿頭意次(おきつぐ 67歳 相良藩主)の中屋敷の於佳慈(かじ 34歳)のところへ暑気見舞いにやり、一昨年(天明3年 1783)2月11日に大坂でおきた堂島新地の米穀問屋〔安松〕と玉水町の同〔鹿島屋〕の打ちこわしの探査におもむいた庭番からそのときの様子をじかに聴いて備えたいと頼んだ。


老中・意次の手配で、やってきたのが、なんと、倉地満済であったのには、平蔵のほうが驚いた。
というのは、生前の里貴(29歳=当時)が鎌倉河岸近くの御宿(みしゃく)稲荷社の脇の家に住んでいたころに、ちらりと会った。
そのころの倉地は3O代なかばで、がっちりはしていたがいまよりは細身だったが、髯の剃りあとが濃いところは変わっていない。

参照】2010年2月9日[庭番・倉地政之助満済(まずみ
2010年2月10日[火盗改メ・庄田小左衛門安久] (
2010年2月17日〔笠森〕おせん
2008年4月25日[〔笹や〕のお熊] (

(夕方も剃らないと、寝床でおせんが痛がろう)
平蔵はつまらないことに気をまわした。
それだけ、落ちついて相手を観察する余裕があったともいえ、内心、苦笑した。

「打ちこわしは、〔鹿島屋〕と〔安松〕の2軒であったというのは---?」
「高値(こうじき)をあてこんでの米の買占めは、ほとんどの米相場師がやっておりましたが、この2店を名ざしで打ちこわせとの張り紙があったのです」

「張り紙---? だれがそのようなものを---?」
「お察しがつきませぬか?」
「わからぬ」

〔鹿島屋〕がやられると、月番にあたっていた大坂西町奉行の佐野備後守政親(まさちか 52歳=当時 1100石)は、東町奉行の土屋帯刀守直(もりなお 52歳=同 1000石)と申しあわせ、捕り方のほかに大坂定番(じょうばん)からも人数をだしてもらい、見物にきた者さえも捕縛すると威嚇し、鎮圧した。

参照】2010924[佐野与八郎の内室] (
2010年12月5日[先手弓の2番手組頭・贄(にえ)安芸守正寿] (

「町奉行さまです」
「佐野備後)どの---が?」
「一を罰して衆を懲らす---との格言がございます」

天明2年(1782)の冷害で、ふだんなら1俵50匁(13万3328円)前後の米価が79.5匁(21万2000円)にまで値上がりしていたのであった。

「うむ。それで米値は下がったのかな?」
「なかなか---」
「おことのお役目は---?」
「大坂のお上側の武力の実勢の探査でございました」
「採点は---?」
長谷川さまが数奇屋河岸西紺屋町の武具商〔大和屋〕でお造らせになられたものが必要と、ご老中も申されておりました」

参照】2011125[武具師〔大和屋〕仁兵衛

(捕り方がひるんだらしいな)
平蔵が舌をまいたのは、自腹で鎖帷子(くさりかたびら)をあつらえたことをi庭番方が探索しており、田沼老中に上申していた事実をしらされたことであった。


_360
(倉地満済の個人譜(再録))


|

« 不穏な予感(6) | トップページ | 庭番・倉地政之助の存念(2) »

076その他の幕臣」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 不穏な予感(6) | トップページ | 庭番・倉地政之助の存念(2) »