松代への旅(20)
「なんといわれたかの?」
振り返った平蔵(へいぞう 40歳)の眼光はきびしかった。
〔生坂(いくさか)屋〕岩蔵(いわぞう 50歳)はすがるように松代藩の町奉行所の同心・駒井恭之進(きょうのしん 34歳)を見た。
「駒井うじ。聴かなかったことにしていただけますな?」
平蔵の,念押しに、駒井同心が首をかすかに縦にふった。
「かたじけない。江戸詰めの用人・海野十蔵(じゅうぞう 50がらみ)どのにも告げないことにします」
平蔵、松造(よしぞう 35歳)、駒井同心が待った。
岩蔵はあたりをきょろきょろと見渡し、駒井同心の小者が聴いていないことをたしかめ、
「賊の首領とおぼしいのが申しましたのは、強訴(ごうそ)の衆の請い状どおり、貸し金の利息を半分に下げること---」
「うむ。だがそれは、一揆衆からの藩への請願状にも盛られておる。それだけではあるまい」
岩蔵はしばらく目をつむってから観念したように、
「藩庁に、地京原村の清兵衛(せえべえ 50がらみ)さん父子を水牢からだすように願い出よ、と---」
「なぜに願い出なかったのか?」
「〔千曲屋〕さんと申しあわせるようにいわれたので、そのように相談しましたが、〔千曲屋〕さんがそんなことを願い出たら、奪われた側のこちらにもお咎めがあろうといわれたのです」
(賊が〔千曲屋}にはその要求をいいつけていなかったのは、引きこみに入れた飯炊き爺ィから足がつくのを恐れ、後難を避けたのかもしれない)
首領の瞼や草鞋と装束のことは、忘れてしまったように平蔵がここでは訊かなかったのを駒井同心は不審に感じたが黙っていた。
岩蔵へ、また、来ると断り、〔生坂屋〕を出た平蔵は、
「今日はこれきりにしておき、襲われたもう一軒の店、西寺尾の〔坂屋〕三郎兵衛方の聴きこみは明日にしようといったきり、考えごとしているふうで黙々と歩き、松代城下へ戻った。
大手門で駒井同心に、
「荒神町にあるという牢屋をのぞかせてもらえないであろうか?」
「上司に計らないと、一存では決めかねます」
「宿泊の世話をかけている〔奈良井屋〕で、昼餉(ひるげ)をとり、お待ちしておる」
太物商い{奈良井屋〕は、帰りは夕刻とおもっていたらしく、あわててありもので昼餉をととのえ、内儀のお楽(らく 27歳)がみずから運んできた。
田楽ように切った長芋と湯豆腐をならべわさび味噌をそえた芋豆腐が珍しかった。
「野沢菜は氷室(ひむろ)で夏をこさせます」
「ここらあたりでも氷室をしつらえておりますか?」
「雪は多うございますから。氷室をごらんになりましたの?」
「越後の与板で、氷室でできたざらめ雪で冷やした酒をよぱれました」
平蔵の頭を、4年前に抱いた〔備前屋〕の女主人・お佐千(さち 34歳=当時)の量感たっぷりの女躰(にょたい)がよぎったのを、年増おんなの直感でとらえたお楽が、
「楽しみごとも氷室からとりだされましたか?」
平蔵がちらっと松造(よしぞう 35歳)をうかがったのを視線に入れ、
「今宵のお神酒(みき)は、ざらめ雪のお冷やをご相伴いたします」
2人の子持ちおんなの落ち着いた色気の目つきで微笑んだ。
【参照】2011年3月10日~[与板への旅] (6) (7) 8 (9) ((10)) (11) (12) (13) (14) (15) (16)
お楽は家つきむすめで、父が急死したとき、屋号にしている奈良井村から奉公にあがっていた従兄の茂吉を婿にし、歴代の店名(みせな)の加兵衛を継がせた。
しかし、身代は母と自分がにぎっていた。
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コメント
〔船影〕の忠兵衛と清兵衛とは同郷だったのですね。伏線は高崎の事件のときから張られていたなんて、遠大な物語。
投稿: mine | 2012.02.08 11:01
なるほど、地元の蔵元ばかりを3軒も襲った理由にかぎがあるということですか。では、盗賊を捕らえても、清兵衛父子の救出につながるとはかぎらないということになりますか。さて、どんな解決策があるのでしょうか。
投稿: 安池欣一 | 2012.02.08 11:22
>mine さん
池波さんにも、1回で捨てるのは惜しいというキャラがあったとおもいます。もっとも典型的な人物は〔蓑火〕の喜之助でしょう。〔蓑火〕に育てられた盗賊たちという形で、終わりごろまで登場します。
ぼくにとって惜しいキャラの一人が仁三郎なんです。[蛇苺]で平蔵から「お前ほどの者が失敗したのだから、ほかの誰だって失敗したろう」と慰められ、涙を洩らします。この密偵を、密貞となる以前から使おうとおもったのが、高崎の事件で登場させた最初でした。期待通りに働いてくれました。〔船影〕のお頭の仕込みがほんとうにきいていたのでしょう。こういうキャラは使いやすいです。
投稿: ちゅうすけ | 2012.02.08 14:22
>安池欣一 さん
〔船影〕の忠兵衛お頭が捨て身でかかっている損得抜きの仕事(つとめ)であることが、平蔵の胸をうったとおもいます。
明日、明後日の展開で松代藩は清兵衛を水牢から出さざるをえなくなります。
そのしばりを思いつくまでが、ご指摘のとおり、苦労でした。
幸い、真田幸弘侯についてのいい資料が手にはいりましたので。
投稿: ちゅうすけ | 2012.02.08 14:30