平蔵、先手組頭に栄進(4)
平蔵(へいぞう 41歳)が天明6年(1786)7月23日付けで発令された先手・弓の2番手というのは、34組の中でも火盗改メの経験が過去50年間でもっとも長い組だと書いた。
それでは過去40年遡ってリストをあげて実証してみよう。
松平帯刀忠陸(ただみち 750石)
延享5年(1748)2月15日 徒頭ヨリ(46歳)
○寛延2年12月21日火盗改メ(47歳)
同3年11月15日佐渡奉行(48歳)
柘植三四郎正晃(まさてる 1500石)
寛延4年3月(1751)11日使番ヨリ(41歳)
○直チニ火盗改メ
宝暦4年(1754)卒(44歳)
松平新八郎正継(まさつぐ 1650石)
宝暦元年(1751)3月11日使番ヨリ(52歳)
○同年10月8日火盗改メ
同2年3月17日免
同4年5月18日卒(56歳)
朝倉仁左衛門景増(かげます 300石)
宝暦4年(1754)5月28日使番ヨリ(52歳)
○同5年(1755)8月15日火盗改メ(53歳)
同6年(1756)11月3日駿府奉行(54歳)
小笠原兵庫信用(のぶもち 2600石)
宝暦6年(1756)11月15日ヨリ(47歳)
○同年11月17日火盗改メ
祇 同7年(1757)月23日免(52歳)
同8年(1760)12月7日堺奉行(53歳)
平塚伊賀守為政(ためまさ 300石)
宝暦8年(1758)12月7日小納戸頭取ヨリ(52歳)
同13年3月11日辞(57歳)
奥田山城守忠祇(ただまさ 300俵)
宝暦13年(1763)3月13日小納戸頭取ヨリ(60歳)
安永2年(1773) 1月11日持筒頭(70歳)
赤井越前守忠晶(ただあきら 1400石)
安永2年(1773) 1月11日小十人頭ヨリ(47歳)
○同年7月9日火盗改メ
同3年(1774)3月20日京都町奉行(48歳)
菅沼藤十郎定享(さだゆき 2020石)
安永3年(1774)3月20日西丸目付ヨリ(47歳)
○同日火盗改メ
同5年(1776)12月12日奈良奉行(49歳)
土屋帯刀守直(もりなお 1000石)
安永5年(1776)12月12日ヨリ(44歳)
○同年同月14日火盗改メ
同年同月同日長谷川太郎兵衛と組替
長谷川太郎兵衛正直(まさなお 1450石)
安永5年(1776)12月14日土屋帯刀守直と組替(67歳)
同7年2月2日持弓頭(69歳)
贄 壱岐守正寿(まさとし 300石)
安永7年(1778)2月28日小姓組番士ヨリ(38歳)
○同8年(1779)1月15日火盗改メ(39歳)
天明4年(1784)7月27日堺奉行(44歳)
横田源太郎松房(としふさ 1000石)
天明4年(1784)7月27日西城目付ヨリ(41歳)
j○直チニ火盗改メ
天明5年(1785)作事奉行(42歳)
前田半右衛門玄昌(はるまさ 1900石)
天明4年(1784)10月14日横田松房と組替(56歳)
同6年7月8日卒(58歳)
長谷川平蔵宣以(のぶため 400石)
天明6年7月26日徒頭ヨリ(41歳)
ご覧のとおり、60歳代で発令された仁は、奥田忠祇を例外として一人もいない。
多くが40代で着任し、はやばやと次の職場へ栄転している。
こういう椅子をエリートの通過ポストとか飛び石チェアとかいうのではなかったか。
この椅子に座った平蔵だけが通算8年も塩漬けになったのだから、松平定信側のいじめにあったとしかいいようがないではないか。
(奥田山城守忠祇の例外の経緯はあらためて考察してみたい)
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