平蔵、先手組頭に栄進(5)
聖典『鬼平犯科帳』では、先手・弓の2番手、長谷川組の組屋敷は四谷・坂町となっている。
市ヶ谷の自衛隊の出入り口の向いあたり、坂町の区画の真ん中へんの坂を南へ上りきった突きあたり一円、江戸期の切り絵図に「御先手組」と記されているところがそれである。
けれども、そこは池波さんがその付近の切り絵図に10ヶ所ほど「御先手組」と書かれた組屋敷の中から適当に選びとった一つで、史実の長谷川組の組屋敷とは異なる。
(四谷北部の白切絵図。尾張殿=自衛隊 淡黄色=先手組屋敷
赤○=池波さんが設定した長谷組の組屋敷)
先手・弓の2番手の史実の組屋敷は目白台である。
もっとも、ほとんどの切り絵図は、その場所はほかの地区のそれのように「御先手組」と表記されていず、戸割りに武家名が書きこまれているので組屋敷と断じられてこなかった。
『武鑑』は弓の2番手組とあと2タ組が目白台にあったと明記している。
ところが、『よしの冊子』に長谷川組の与力の名前が記されいている項があり、それにしたがって目白台の戸割りの武家屋敷を探したら、もっとも目白坂上に近い武家屋敷の一群の中にその与力の家があったので、そこが長谷川組の組屋敷と断定できた。
(目白坂上の白地図。上=護国寺 薄黄=先手弓3組の組屋敷
赤○=2番手組の長谷川組の組屋敷)
【参照】2007年9月26日『よしの冊子(ぞうし)』(25)
2006年4月21日[史実の長谷川平蔵と小説の鬼平"]
2007年夜9月12日『よしの冊子』 (11)
2008年1月17日[ちゅうすけのひとり言] (1)
そこに記されている与力とおぼしき氏名は、
館 伊織
脇屋清吉
岡田勇蔵
高瀬円蔵
服部儀一郎
菊田儀一朗
小島与太夫
萩原藤一郎
吉岡左市
不明1名
で、聖典『鬼平犯科帳』に登場する与力たち、佐嶋忠介、村松忠之進らの名前はとうぜんのことだが、一人も出てこない。
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