平蔵、先手組頭に栄進(2)
西丸・徒頭(かちのかしら)をまだ1年半しか勤めていない長谷川平蔵(へいぞう 41歳)が、前田半右衛門玄昌(はるまさ 1900石)の病死(享年58歳)で欠員となった先手・弓2の組の組頭に抜擢されたのには、その資格に2つばかりの理由かあったとおもわれる。
その1は、この組は34ある組の中で、天明6年(1786)以前の過去50年間に累計もっとも長く火盗改メを経験している組であったこと……しかも近年では一族の長谷川太郎兵衛正直(まさなお)とか贄(にえ) 壱岐守正寿(まさとし) といったやり手に鍛えられていた。
ただちには無理としても、いつか平蔵を火盗改メに任じるとすると、この2の組で腕をふるわせてみたいという思惑が幕府上層部にあったとしてもおかしくはない。
治世の根本が、生活の安定と治安の安全であることは、古今東西、変わりはない。
先手組 平蔵以前50年間の火盗改メ経験順位(上位10組)
組 在任組頭 火盗改メ 通算月数
(人) (人) (月)
弓 2 16 8 144
筒11 7 4 104
弓 5 9 5 92
弓 8 9 4 64
筒13 10 4 60
弓 7 9 4 54
筒12 8 2 30
筒 2 10 2 28
筒 4 7 2 28
弓 6 11 2 27
筒10 6 3 27
この集計は、ちゅうすけが10年ほどまえにつくったものでだから、徳川時代の人はここまで正確には意識していなかったろう。
ただ漠然と、先手・弓の2番手は火盗改メ慣れしている――くらいの意識であったとおもう。
だから、弓の2番手の組頭に据える番方(武官系)は、そのこころえのある者との資格審査みたいなものはしたかもしれない。
この常識は、田沼意次(おきつぐ)時代には平蔵(天明6年7月まで)にとってプラスに働いたが、次の松平定信(さだのぶ)時代(天明7年7月以降)にはマイナスに作用した。
というのは、平蔵の天明7年以降の火盗改メづとめは、定信政権による一種の懲罰的なおもむきがあったからである。
なんの懲罰……?
田沼派とみられたための懲らしめ――というか、いまでいう、いじめに近い。
先手・弓の2組は火盗改メの業務に精通しているのだから、そこの指揮官である組頭は最強の火盗改メであるという通念を利用した塩漬け。
いってみれば、平蔵は死ぬまで通算8年間も塩漬けにされたのである。
これは、火盗改メの在任期間としては新記録で、ほかに例がない。
(50年間でくぎっての同じ集計で、弓の2の組が在任者数が多いのは、短期で栄転していった者が多かった、いわゆる通過ポストとみなされていたのと、在任中の病死が前田玄昌を含めて数名いたせい)
(前田半右衛門玄昌の個人譜)
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