松代への旅(8)
(しかし、おれという男には、風呂とおんなという切れない縁(えにし)があるようだ)
お江(こう 18歳)が江戸での再会を堅く約しながら引きとったあと、灯芯を下げ、寝床に臥しながら、反芻しはじめたのは、添い寝の奈々>(なな 17歳=当時)がいないせいかも知れなかった。
奈々とは、行水で触れあってしまった。
【参照】2011830[新しい命、消えた命] (2)
(奈々を同道したせいで今夜のところは、旅、風呂、おんなのお定(き)まりの筋をたどらなくてすんだ)
旅、風呂、おんなのもっとも近いのは、東海道・嶋田宿の本陣・〔中尾(置塩)〕藤四郎方の出もどりの若女将・お三津(みつ 22歳=当時)であった。
ささいな口ききが口火となった。
いや、語呂あわせみたいだが、男とおんなの仲なんて、意味もない会話から火つくことが少なくない。
【参照】 201154~[本陣・〔中尾〕の若女将お三津] (1) (2) (3)
お三津はいまは新しい情夫(いろ)につくしているが、血筋からいってもっと格上の男のほうが似あっているのだが、男とおんなが乳くりあうのに格の上下などはかかわりないことだ。
旅、風呂、おんなは、4年前にもはまった。
越後の与板の廻船問屋〔備前屋〕の女将・お佐千(さち 34歳=当時)で、2児を育てながら大店をとりしきっていた後家であった。
2年間立てていた後家が平蔵につまづいた。
平蔵の中年武家の男くささに抗しきれなかったか、おんなの躰ぐあいが男なしにはすまされないのか、たまたま情が高まる周期にあたっていたのか。
それほどの恋情がなくても男とおんなは、雄と雌になれる。
【参照】 2011年3月~[与板への旅] (6) (7) (8) (14) (15) (16)
旅、風呂、おんなでは、子までできた阿記(あき 21歳)も欠せない。
鎌倉の縁切り・東慶寺へ入るために実家へもどる途中の箱根の坂で、であった。
18歳の銕三郎(てつさぶろう)が、父の養女・与詩(よし 6歳)を迎えに府中へ出向く道すがらであった。
【参照】1200812月31日~[与詩(よし)を迎えに] (11) (12) (13)
平蔵にとって旅、風呂、おんなのそもそもは、もういやというほどリンクをはったが、14歳の銕三郎が初めてさなぎから男に脱皮した、三島宿での貴重な体験におつきあいいただかないわけにはいかない。
【参照】2007年7月16日[仮(かりそめ)の母・お芙沙(ふさ)
江戸では防火上、町家は風呂場がつくれなかったが、郊外ともいえる向島に、〔狐火(きつねび)〕の勇五郎(ゆうごろう 47歳)がお静(しず 18歳)を囲った寓居には、広い浴室があった。
銕三郎は21歳で、それまでにお芙沙(ふさ)と阿記を体験していたから、躊躇はなかった。
男とおんなが裸でいて、なにもしなかったと強弁したら、嘘つきか萎え男か、おんなが月に入っていたかだ。
しかし、銕三郎の結果が青春の悔恨となった:経緯は、聖典にくわしく述べられている。
【参照】2008年5月2日~[お静という女] (1) (2)
ここの風呂場は、〔蓑火(みのひ)〕の喜之助(きのすけ 45歳=当時)から〔狐火〕へゆずられた女軍者(ぐんしゃ 軍師)・{中畑(なかばたけ)〕のお竜(おりょう 29歳=当時)と睦むきっかけともなった。
お竜はおんな男、いわゆる同性愛の立役であったから、銕三郎が初めての男となった。
性の複雑というか、不思議の一面というか。
【参照】008年11月18日~[宣雄の同僚・先手組頭] (7) (8) (9)
お竜は琵琶湖で水死した。
享年33歳であった。
京へ先着した銕三郎と抱きあうために彦根の盗人宿から渡船していての事故であった。
町家の風呂は禁止されていた江戸だが、いかがわしい出合茶屋などではもぐりで浴室をつくり、逢引き客の求めをこなしていた。
音羽の〔長崎屋〕もそういう料理茶店であった。
ここで、銕三郎(22歳)は、のちにお仲(なか 33歳)と改名したお留(とめ)という性技の師をえた。
【参照】200887~[〔梅川〕の仲居・お松] (7) (8)
若い男は、熟女から手とり足取りで教わるにかぎるというのが、平蔵の性哲学ともなった。
同じように、寺の境内と接した旅荘も奉行所の目をくぐって浴室をこしらえていた。
お信(のぶ 30歳=当時)は下総(しもうさ)生まれの元おんな賊であった。
足を洗うと告げられ、うさぎ人の小浪(こなみ)がやっていた御厩河岸の茶店を世話した。
6年後になんの気もなく店へ寄り、賊の話をしいて住まいへ招かれた。
呑んでいるうちにともに臥せた。
それからお信は身を潔(きよめ)たいと尼になったが、生身の欲求は抑えきれなかった。
日信尼(40歳)は平蔵(36歳)に抱かれたがった。
おんなに恥ずかしいおもいはさせたくないというのも、平蔵の哲学の一つであった。
【参照】2011年12月21日[日信尼のa href="http://onihei.cocolog-nifty.com/edo/2011/01/post-3e00.html">煩悩]
銕三郎がおんな賊を抱いた実績は、聖典にも書かれている。文庫巻3[艶婦の毒]がそれだ。
ちゅうすけ流ではこうなった。
【参照】2009年7月27日~[〔千歳(せいざい)〕のお豊] (9) (10) (11)
これまでの色模様をおもいかえしても、股間に変化はおきなかった。
(男として、というより、雄としての盛りはすぎつつあるということか)
ちょっと情けなくもあった。
(そういえば、風呂とおんなというお定(き)まりの場面があった今宵、お江の全裸の肌がわれに触れてもそのきざしはなかった)
(足くびがひきしまった形のいい脚をしていたな)
おんなは背丈くらべより、脚の長さくらべよ---とはいはなって里貴を鼻白ませたのは奈々であった。
【参照】2011712[奈々という乙女] (4)
あのとき、里貴と奈々の内股へ左右の手の甲をあてて高さを計ったが、奈々は、
「うちのほうが小股がきれあがってんのやわあ」
「上方(かみがた)で胴より脚のほうが長いおんなのことを上つきゆうて上等なんやわ」
いい放ち、里貴が眉根をよせた。
(今宵のお江の脚もすっきりと細身で長かった。上つきかな」
脚が長いと男の胴をしめるようにして腰の上で足首を組む。
驚いたことに、お江の形(なり)のいい脚をおもいだしただけで、股間が息づいてきた。
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コメント
チェスと申します。長い事、東京下町台東区の鳥越というところに住んでおりました。結婚後は足立区綾瀬へ引越してしまいましたが、実家から歩いて15分程の区立図書館に「池波正太郎記念文庫」があると知り、灯台元暗しだったな、と悔しい限りです。以後よろしくお願いします。
今回の松代への旅、「松代」→「真田」→「女忍者お江さん」(真田太平記)スピンオフという感じなのでしょうか。
投稿: チェス | 2012.01.27 09:36
>チェス さん
ようこそ。鳥越はなつかしいです。「老盗の夢」で前砂の捨蔵が門前で花屋をやっている松寿院(切絵図の誤植、正しくは寿松院)もありますし、うちの長男の嫁がおかず横丁の育ちです。
近くの池波さんが通った西町小学校もあったし、「大川の隠居」のモデルの鯉の鯉塚のある竜宝寺(寿1丁目)も。
西浅草1丁目の西光寺は池波家の墓があり、まさに池波ワールドです。
これからも、ときどき、お越しください。
投稿: ちゅうすけ | 2012.01.27 19:40