平蔵、先手組頭に栄進(7)
先手・弓の組頭は、1000石格の目付、徒頭、小十人頭、新番頭、それに書院番や小姓組の与(くみ)頭、使番などが次のステッブとして渇望している役席である。
一つの席に候補者は100人近くいる。
わけても、さらに上への通過席とみられていた弓の2番手の組頭というので、この場合はとりわけで、裏工作もはげしかったろう。
にもかかわらず、若手の平蔵(へいぞう 41歳)が最有力候補に見られたのは先にも記しておいたように、西丸・若年寄で毛並みもいい井伊兵部大輔直朗(なおあきら 40歳 越後・与板藩主 2万石)の強力な根回しがあったのと、実力老中・田沼主殿頭意次(おきつぐ 68歳 遠州・相良藩主 5万7000石)の暗黙の重石がきいたとおもわれる。
先手・弓の組頭の欠員を補うには、長老・次老・三老が合議で提案した数人にしぽった候補者に対しての現組頭たちによる入れ札にもよったらしい。
もっとも入れ札の記名には、3人の古老たちの意中が忖度(そんたく)されることがほとんどであったから、票は平蔵に集中したが、競合候補者の氏名は残されていない。
発令された平蔵は、しきたりにしたがい、
長老・市岡左大夫正峯(まさみね 82歳 1000石 弓組で11年目)
次郎・倉橋三左衛門久雄(ひさお 78歳 1000石 鉄砲組で10年目)
三老・万年市左衛門頼意(よりもと 78歳 1000石 西丸で3年目)
のそれぞれの組を代表する最高齢とともに、弓組の組頭8名全員を東両国駒留橋ぎわの料亭〔青柳〕に招いた。
ここは亡父・宣雄が小十人組の組頭になったときの祝いの宴に、同職の組頭たちを招待した府内でも最上格の店であった。
(東両国駒留橋ぎわの料亭〔青柳〕)
【参照】2007年5月29日[宣雄、小十人組頭を招待]
〔黒舟〕からの迎えの屋根船を出勤組のためには道三河岸、非番組には神田川へまわしたことも気がきいているとほめられたが、もっと喜ばれたのは、座敷での料理は汁物と熱物にし、多くを土産にまわして折りにつめて配慮であった。
客は年配者がほとんどだから料理も持ち帰りを優先して吟味するようにと、〔青柳〕にあらかじめ頼んでおいた。
手みやげにはさらに、本町の有名菓子舗〔鈴木越後〕をもたせた。
【参照】2007年5月28日[宣雄、先任小十人頭へ ご挨拶]
帰りも神田川をさかのぼる屋根船を用意した。
水道橋の船着きで、
次老・倉橋三左衛門久雄(ひさお 78歳 雉子橋通り)
三老・万年市左衛門頼意(よりもと 78歳 1000石 裏猿楽町)
堀 帯刀秀隆(ひでたか 51歳 1500石 裏猿楽町)
新見豊前守正則則(まさのり 59歳 700石 59歳 小川町一橋通り)
山中平吉鐘俊(かねとし 66歳 1000石 駿河台・さいかち坂)
中山伊勢守直彰(なおあきら 71歳 本郷弓町)
を降ろし、さらに市谷門下で、
長老・市岡左大夫正峯(まさみね 82歳 1000石 裏五番町)
押田信濃守岑勝(みねかつ 66歳 1000石 裏六番町)
笹山吉之助光官(みつのり 72歳 500石 裏四番町)
長田甚左衛門繁堯に走(しげたけ 64歳 1300石 番町御厩谷)
を送った。
あとで、船頭・達五郎(たつごろう 56歳)の報告によると、いずれも平蔵の気くばりのたしかさを口にしていたという。
もう一艙の猪牙舟には菊川橋下まで
一色源次郎直次(なおつぐ 67歳 1000石 本所・菊川)
と平蔵が乗った。
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