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2011.12.17

ちゅうすけのひとり言(85)

あしかけ4年ごし、長谷川家にかかわる一人の女性の、想像がおよぶかぎりの人生を完結させた。
といっても、28歳までである。
それより先は、どんな文献にも記録されているとはおもえないから、空想の手がかりすらない。

師走の土曜日、あなたの盟友でもある長谷川平蔵(こと鬼平)の史実の次妹・与詩(よし)のために小1時間ほどを割いていただけないであろうか。
6歳から28歳までの与詩の人生である。

まず、与詩の素性を『寛政譜』から。

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(『寛政譜』 平蔵宣以の妹たち)

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(上図の部分拡大)

18歳の銕三郎(てつさぶろう)が2人目の養女を貰いうけに駿府の町奉行所へ出向く。
もっとも、史実では、与詩は向柳原の朝倉邸に残留していたやもしれないが、それだと朝倉景増と父・宣雄との接点がみつからない。


それぞれの項目の色変わりの番号(あるいは文字)を順次、クリックして読みつづけていただきご意見・コメントをいただけるとありがたい。

2007年12月27日~[与詩を迎えに] () () () () () () () () () (10) (11) (12) (13) (14) (15) (16) (17) (18) (19) (20) (21) (22) (23) (24) (25) (26) (27) (28) (29) (30) (31) (32) (33) (34) (35) (36) (37) (38) (39) (40) (41) (番外) 


寛政譜』で試算したけっか、与詩は16歳で嫁入りし、すぐに離婚したことになるのだが---。

2010年1月5日[与詩の離婚] () (


2011年3月5日~[与市への旅] () () () () () () ()  (9)  ((10))  (11) (12) (13) (14) (15) (16) (17) (18) (19) 


養女・多可の父親と、朝倉景増の内室は松平大学頭三木姓の家臣であった。
三木の出自をめぐって、播州・英賀城の城主の去就をさぐった。

2011年11月27日~[ちゅうすけのひとり言] (82) (83) (84


母の不倫を弾劾した藤太郎の初穂をつんで性の虜になる与詩

2011年,12月10日~[{備前屋〕の後継ぎ・藤太郎] () () (3) () () () (7) 

与板へ移住して藤太郎との接触をつづけることになった与詩は、長谷川家の墓にはいらなかった。

2011年12月17日~[長谷川家の養女・与詩の行く方]

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コメント

こうして与詩さんかかわりのコンテンツにすべてリンクを張っていただくと、長谷川家の人となった一人の女性の生きざまが見えてくるようです。ありがとうございます。

投稿: tsu | 2011.12.17 05:29

リンク先をたどって過去記事を再読していくと、与詩の半生であるとともに、銕三郎のヰタ・セクスアリスの思い出の一部でもありますね。平蔵の妹思いの深さとともに、彼の女性に恥をかかしてはいけないというおもいやりの大きさを感じます。

投稿: 文くばりの丈太 | 2011.12.17 05:44

与詩さんが三宅老人へ嫁いだのは宣雄の意思だったのでしょうか、それとも平蔵宣以の手くばりだった? 養女にきて10年たらずのことですよね?

投稿: tomo | 2011.12.17 05:49

>tsu さん
コメント、ありがとうございます。
8年もつづいているブログです、書いている当人も忘れている記述もあります。こうしてリンクを張ることで、自分でもおもいだして苦笑いできます。

投稿: ちゅうすけ | 2011.12.17 08:32

>文くばりの丈太 さん
銕三郎時代、あるいは平蔵のヰタ・セクスアリスですが、女性との出会いがあっても、たいていの男女は、まあ、おいそれとは合体しませんよね。シクナルをうけても双方がいろんな意味で抑制しあうからでしょう。
平蔵の場合、シクナルを発した対手へのおもいやりの感情が強く働くといというか、けっきょく、そうなっていくんですね。女性がシグナルを発してみたくなるような男性であったことにもよりますが。女性たちが「欲がない人」とおもってしまうんですね。

投稿: ちゅうすけ | 2011.12.17 09:46

>tomo さん
鋭く、かつ、微妙なご質問ですな。
三宅家側の『寛政譜』からすると、与詩の嫁入りは16歳あたりになるんです。安永2年(1773)ですね。京都町奉行だった父・宣雄はこの年の夏に歿しています。
生前の嫁入りなら宣雄の手配、歿後なら宣雄の遺言か宣以の帰府後の手くばりか。
あるいは、宣雄・宣以の在京都中に妙が手くばりしたか。
三宅老人とのコネは、案外、久栄の実父・大橋老人だりして?

投稿: ちゅうすけ | 2011.12.17 11:12

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