ちゅうすけのひとり言(84)
銕三郎(てつさぶろう 14歳)の妹として宝暦9年に、松平大学頭家臣・三木忠大夫忠任のむすめ・多可(たか 14歳)が養女にきたくだりは、早くに記した。
【参照】2007年10月28日~[多可が来た] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7)
丸4年も前だ、調べもゆきとどかず、江戸詰めの高崎藩士とおもいきめていた。
しかし、初めて異妹・多可を身近に感じた少年・銕三郎のヰタ・セクスアリスは、そのときに想像したとおりなので、書きかえる気持ちはない。
銕三郎は、多可に会う前に、25歳の若後家・芙沙(ふさ)によって女躰の神秘に触れていた。
三木忠太夫が江戸藩邸住まいの守山藩士とわかり、藩士のほとんどは水戸藩から分与されていることをしったいま、つぎにとりかることは、水戸藩の三木捜しである。
水戸藩から守山藩へ移動した藩士の数---
初代・頼元のとき 48名
2代 ・頼貞のとき 48名
3代 ・頼寛のとき 18名
4代 ・頼亮のとき 22名
計 136名
三木忠大夫がどの藩主のときに水戸藩から移されたかの記録は未見である。
ただ、水戸藩に三木を姓としていた重臣がいたことははっきりしている。
慶長9年(1604)に、2代・頼房の乳兄弟であった播磨の別所一族の三木之次(仁兵衛)が500石で徒の頭としてとりたてられている。(『水戸市史 中巻』 1968)
三木家にはその後、1500石の大番頭になった者もいるし、子孫は1000石の家柄となったから、その末が守山藩につけられたと断じていい。
もっとも、守山藩は2万石の小藩だから、家老といえども300~200石で、関係諸書に名がでてこない忠大夫は100石前後か以下であったろう。
そのことは、親藩の水戸藩士の家禄別の人数リストからも推察がつく。
10,000石以上 2人
1,000石以上 28人
500石以上 31人
100石以上 491人
ただし、四ツ坪ならしといい、100石の取り分は40石(四公六民)。
守山藩もそうであったろう。
寛文元年(1664)に水戸藩から守山藩へ送られた家老格5名の姓は、野口、近藤、大嶺、和田で、三木姓はない。
忠大夫と宣雄の接点はまだ手がかりがつかめていない。
しかし、播州・別所かかわりの三木姓とわかったのは、別の太い糸口であった。
播州・別所といえば、司馬遼太郎さんが黒田官兵衛に血を通わせた『播磨灘物語』(講談社文庫)が書架にあるではないか。
さっそく再読に及んだ。
別所長治がこもる三木城の兵糧攻めは巻2である。
が、そこには三木掃部助(かもんのすけ)通秋がよっている英賀(あが)城は登場しない。
『兵庫県史』や橘川真一さん『別所一族の興亡 「播磨太平記」と三木合戦』(神戸新聞総合出版センター 2004)などによると、別所一族がこもっていた三木城陥落後の天正8年(1580)3月、秀吉の軍は英賀(あが)城を攻め、城主の三木通秋は海路、筑前へ落ちたと。
で、三木氏と徳川とつながりの発見に四苦八苦していたら、facebook でAtsushi Temporin さんが英賀神社の宮司が英賀城史を書いていると教えてくださった。
【参考】http://www.agajinja.jp/nishiki/agajoshi/
人命を大事にした秀吉が通秋をゆるし、郷士頭にしたらしい。
もちろん、播州の一つの押さえとしたのであろう。
秀吉から徳川へ、これでつながりがわかった。
あとは、守山藩と長谷川宣雄のあいだを推測すればいい。
ここまで分明させておけば、各人各様の推理が出やすかろう。
そうそう、三木は、四国の河野氏の分家で、姓のゆえんは、讃岐の三木郡からきておるとも。
平蔵の長女・初(はつ)の嫁ぎ先が河野家であったことも付言しておく。
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コメント
いま、調べるというと、ネットで探すのがふつうですが、ちゅうすけさんがさがしているものは、ネットではみつからないようなごくごく細かなデータです。
拝見していて、図書館がよいの様子がうかがえます。
ご苦労さまです。それにしても、三木家が守山藩とつながりました。まさに執念ですね。
投稿: 左兵衛佐 | 2011.11.29 05:48
>左兵衛佐 さん
お恥ずかしい。ほんとうは、汗の跡とか力みの表情なんかを見破られるのは、修行が足りないせいですね。
涼しい顔して、「そんなこと、とっくにしってた」って澄ましてないと。
しかし、あとをつづけて調べ、鬼平学をひろげてくださる後進の長谷川平蔵研究家のために、道標は立てておきませんと、とおもって、つい。
投稿: ちゅうすけ | 2011.11.29 09:37