平蔵、先手組頭に栄進(9)
火盗改メは先手の組頭の中から指名されるが、34名いる組頭のうちから四季を通しての本(定)役が一人、火事の多い晩秋から初春へかけての助役(すけやく)が一人が常態であった。
平蔵(へいぞう 41歳)が火盗改メの助役を命じられたのは、翌天明7年(1787)9月19日であった。
それまでの1年有余のあいだは、並みの先手・組頭として躑躅(つつじ)の間へ出仕したし、隊士たちは江戸城の内側にある蓮池 、平河口、梅林坂、紅葉山下、坂下の5門を交替で警備にあたった。
通勤も、目白坂上の関口台町に接した組屋敷から江戸城への往復ですんだ。
片道小1里(4km足らず)。
34組で5門だからそれほど忙しくはないし、隊士の数も多いから平常はのんびりした勤務というほうがあたっていた。
「番方の爺ィの捨て所」とはよくぞいいあてたものだ。
ところが平蔵はこれまでの組頭と違っていた。
着任早々、筆頭与力・脇屋清助(きよよし 59歳)にいいつけ、組下の与力・同心全員の家庭身上書を提出させた。
職を継いだ年月日、家族と使用人の頭数と年齢、病人の有無、蔵前の札差として契約している店名と借金があればその金額、内職をやっていればその種類と納入先などを提出させてくれと命じた。
平蔵が西城の徒の4番手の組頭になったときにやったのと同じ項目であったが、変わっていたのは、同心には書き留め用の半紙10枚と細字用の小筆が1本ずつ渡されたこと。
徒士は扶持が70俵5人扶持でも困窮している者が少なくなかったが、先手組の同心はその半分に近い30俵2人扶持だから、さらに困窮していようとの配慮からであった。
【参照】2011年9月29日~[西丸・徒(かち)3の組] (1) (2) (3) (4) (5)
筆頭与力の脇屋清助には笑顔で、
「長たる者は、配下のほくろの数までしっていなければならないのだ」
ごまかした。
脇屋筆頭は、平蔵とのふれあいが永いから飲みこんでいたが、ほかの与力たちは、亡父・宣雄(のぶお)ゆずりの「五分(ごぶ)目紙」を配ったときに目を見張り、えらい組頭がきよったとの嘆息が洩れた。
【参照】2007年12月18日[平蔵の五分(ごぶ)目紙] (1) (2) (3)
身上書が出揃うと、平蔵は躑躅の間へも携行し、一人のそれを何十回となく眺めては、同心筆頭・逗子啓太郎(けいたろう 40歳)から聴きとって書きくわえた人定、
「身丈5尺6寸(168cm)、色白、丸顔で眉太く、目瞼はれぼったい。鼻の左下にほくろ。怒り肩---」
ぶつぶつとつぶやいて暗記につとめるのであった。
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コメント
ついに、ページ・ビュー 百万に到達、おめでとうございます!! 文字通り、「命を削って」ですね。言葉もありません。
投稿: 安池 | 2012.03.25 11:54