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2012.03.26

平蔵、先手組頭に栄進(10)

30人いる同心の中で、心配症の年配の同心……矢田重三郎(しげさぶろう 54歳)とか志村徳兵衛(とくべい 50歳)がこの35年間のことをおぼえており、
「お頭(かしら)が火盗改メをお振られになった日には、通いがえらいことになるぞ」
取り越し苦労を若い者(の)にささやいていた。

たしかに、そのとおりといえた。
火盗改メは、組頭の屋敷が役宅になる。
目白坂上の組屋敷から本所・三ッ目通り菊川町の長谷川邸までは、片道だけで2万歩ちょっと、約3里(12m)あった。
朝夕、往還6里(24km)の通勤は若い同心衆だって毎日となると大ごとだ、

ちゅうすけ注】聖典『鬼平犯科帳』で役宅が清水門外となっているのは、池波さんが便宜上そこになさったのであって、史実の役宅は組頭の屋敷と決まっていた。

A360

(池波さんが小説のために清水門外のご用屋敷(緑○)を火盗改メの役宅に見立てた。東隣(左手)は将軍家の野馬仕込み馬場)

もちろん、読み手としては役宅が清水門外であろうと、組頭の屋敷が兼ねていようが痛くも痒(かゆ)くもない。
そういうものだとおもいきわめて読みすすむだけのことである。

「1年前の横田お頭のときのことをおもいだしてみよ」
火盗改メをやった横田源太郎松房(よしふさ)の居宅は築地の西本願寺脇にあり、片道1里16丁(6km)であった。

往還3里(16km)。
しかし、机相手の仕事と異なり、火盗改メは見回りと役所間の連絡がもっぱらだから、さらに歩きが、2里(8km)や3里(12km)はすぐ加わる。

ついでだから、先手・弓の2番手の古参同心たちがおぼえている、火盗改メに任じられた数人の組頭の屋敷までの距離を書きだしてみよう。

朝倉仁左衛門景増かげます 300石)
○宝暦5年(1755)8月15日火盗改メ(53歳)
 役宅 四谷内藤新宿 26丁(3km) 

小笠原兵庫信用(のぶもち 2600石)
○宝暦6年11月17日火盗改メ(47歳)
 役宅 浅草新堀末 2里丁18丁(10km)

A_360
(浅草寺裏手の新堀末の小笠原邸(緑○) 上=西)


赤井越前守忠晶(ただあきら 1400石)
○安永2年(1773)7月9日火盗改メ(47歳)
 役宅 表六番町 1里(4km)

菅沼藤十郎定享さだゆき 2020石)
○安永3年(1774)3月20日火盗改メ(47歳)
 役宅 大塚吹上 20丁(2.5km)

贄 壱岐守正寿まさとし 300石)
○安永同8年(1779)1月15日火盗改メ(39歳)
 役宅 九段下飯田町32丁(3.5km)

組内のこうしたささややきを小耳にはさんだ平蔵は、にやりと不敵な笑みを洩らしただけで、そしらぬふりでいた。
脳裏に、亡父・宣雄(のぶお 享年55歳)のために計測した17年前のことをおもいだしたのであろう。

参照】2009年2月20日[隣家・松田彦兵衛貞居] (

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