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2012.04.26

ちゅうすけのひとり言(93)

先日来から病いに倒れたことの悔しさを、幾度も告白してきている。
人によっては、
「いいかげんにしろ……」
侮蔑の舌打ちをうっている方も少なくなかろう。

ちゅうすけ自身、女々しいなとおもっているのだから、侮蔑されて当然である。

じつは、こんなに情けないとおもったことは稀れなのだ。

一つには、声が満足に出ない。
理由は、喉にチューブを埋めたからである。
延命処置を受ける意思は毛頭ない。
池波さんの洗脳を受けたからいうのではないが、
「人は生まれたときから死に向かって歩いている」
これには共感している。

ところが、喉のチューブを埋めないと、余命は「2ヶ月」といわれた。
喉頭のガンが急繁殖しており、呼吸困難で絶命すると。
それは困る。
せめて、ブログの結末をつけるまで、2ヶ月間はパソコンにむかっていたい。

それで喉を切開してチューブを入れることにした。
水、酒、食物は一切喉を通らなくなって丸2ヶ月経過。
生命は24時間の静脈点滴でつないできている。

喉を切開したため、家人のほかには言葉がうまく伝わらないので、電話も取材もできない。
点滴で体力が落ちて、外出もままならない。

まえまえから計画していた、越後・与板藩主の井伊兵部少輔直朗(なおあきら)に嫁いだ田沼意次(おきつぐ)の三女の墳墓の確認ができない。
昨日、家人に電話をかけさせ、墓がたぶんあるとみた文京区小日向四丁目の徳雲寺に行かせたが、わからなかった。
徳雲寺と推察したのは『寛政譜』の直朗の亡父・直存(なおあり)の項に徳雲寺と記され、直朗をのぞくあとの人たちに「直存と同じ」とあったからである。

そのまま、別の史料をチェックしないできていたが、徳雲寺の言質があいまいだったので、ほかの史料を確認したら、どういうわけか直朗だけ、墨田区向島5-3-2 の黄檗宗の名刹・弘福寺となっているではないか。

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弘福禅寺 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)


さっそく電話で確認をとったが、紹介状もなしに電話で問い合わせることの非礼がとがめられたのか、ほとんど情報はえられなかった。
機会をあらためるしかないが、生命の灯が点(つ)いているあいだに善意がつうじるといいのだが。


もう1件は、将軍・家治(いえはる 享年50歳)が崩じた天明6年(1986)に、あとを追うように先手・弓の6番手の組頭新見豊前守正則(まさのり 59歳)が永眠し、後任に(能見松平庄右衛門親遂(ちかつぐ 59歳 930石)が就いたことは、昨日までの[先手・弓の目白会]に報告しておいた。

この松平親遂の継室が平蔵の本家・長谷川太郎兵衛正直(まさなお 享年83歳=寛政4)の長女であるが、手元になんの史料もないので、本テキストではそのことに触れないことにした。
名前、年齢、なした子も一切不明なのである。
本家の子孫は現存してい、ご当代は長谷川雅敏さん、鬼平を研究されている。
平蔵家のほうは依然として不明のままである。


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(能見・松平庄右衛門親遂の個人譜 先手・弓の6番手組頭)

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