建部大和守広殷を見送る
幕府の公式記録である『徳川実紀』の天明5年(1785)5月15日の項に、こう、ある。
禁裏附 建部(たけべ)甚右衛門(旬日前に大和守を授爵)広殷(ひろかず 58歳 1000石)赴任の暇賜る。
先手・鉄砲(つつ)の12番手の組頭からの栄転で、平蔵(へいぞう 40歳)が祝辞を贈ったこともすでに報じた。
【参照】2011年11月17日~[建部甚右衛門、禁裏付に ] (1) (2) (3)
大和守広殷にはなにかと目をかけてもらっていたので、出立の18日の六ッ半(午前7時)に高輪の大木戸まで、愛馬・月魄(つきしろ)にまたがって見送りに行った。
送迎用の茶屋は麗々しく、[御禁裏附 建部様御席]と大書した札を飾っていた。
遠国奉行とか禁裏まわりの役職者は、できるだけ仰々しい行列を仕立てて幕府の威信を町人や宿場の者たちに示すようにと、別段の手当てが支給されていた。
六ッ半にはすでに高輪の大木戸で見送り人の応接をしていたということは、六ッ(午前6時)ちょっとまえには四谷南伊賀町の本邸を発(た)っていたということだ。
もっとも、旧暦の5月といえば、東の空は七ッ半(午前5時)にはもう明かるくなりかけておるが。
平蔵を認めた大和守は、わざの見送りへの礼もそこそこに、
「下(しも)の役宅のある荒神口の〔荒神(こうじん)〕を通り名にしておる盗賊でござったな。老耄の頭でも決して忘れてはおりませぬぞ」
頼んであったことを復唱して呵呵と笑った。
その呵声があまりに大きかったため、まわりにいた人々がなにごとかと、2人を注視したほどであった。
「はい。〔荒神〕の助太郎(すけたろう 67歳)と妾の賀茂(かも 48歳)でございます。おついでの折りによろしくお願いいたします」
「こころえ申した」
この盗賊とのかかわりは、平蔵が銕三郎(てつさぶろう)を名乗っていた14歳のときからはじまった。
その一部を掲げたので、一瞥いただきたい。
【参照】〔荒神(こうじん)〕の助太郎 (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10)
2009年12月28日[与詩(よし)を迎5に] (8)
2009年1月8日~[銕三郎、三たびの駿府](1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12)
2010年2月24日~[日光への旅] (3)
いちど、落ち着いてかかわりあったすべてにリンクをはらなければなるまいが、きょうのところは別件が控えているのでこれくらいにして---。
松造(よしぞう 35歳)が、海のほうを向いたまま、
「殿---」
平蔵が振り向いても松造がふり返えらなかったので並ぶと、
「隣りの茶屋の縁台で3人ほどでお茶をのんでいる店者ふうに装った40男たちがおります。あれは〔磯部(いそべ)の駒吉と申す道中師の組仲間です。ほかにも数人があたりにひそんでいるはず。建部の殿の一行になにかをたくらんでいるにちがいありません」
ささやいた。
松造は10代の後半は腕利きの掏摸(すり)であったから、駒吉の顔もおぼえていたのであろう。
「わかった。建部どののお耳にいれておこう」
平蔵が、何気ないふりで大和守広殷に耳打ちした。
松造は月魄の陰へ身を移した。
建部広殷も眉毛一筋も動かすこともなく聞き終えると、〔磯部〕の駒吉たちのほうには視線もくれず、
「長谷川うじ。造作をおかけしてすまぬが、このこと、火盗改メの組頭・横田どのへお伝えいただけるとありがたい」
平蔵は、混みあっている人群れから、弓の7番手の組頭・横田源太郎松房(としふさ 42歳 1000石)を探した。
横田松房は去年の4月に境奉行に転じた贄(にえ) 越前守正寿(まさとし 44歳=天明4年 400石)の後任として先手・弓の2番手の組頭と火盗改メ・本役職を引きついだが、すぐに弓の7番手へ転じた事情はすでに報じている。
【参照】2011年9月1日[火盗改メ・贄(にえ) 壱岐守正寿(まさとし)の栄転]
2011910~[老中・田沼主殿頭意次の憂慮] (1) (2) (3) (4)
横田組頭の脇に、次席与力・高遠(たかとう)弥之助(やのすけ 43歳)がひかえていた、
先手・弓の7番手は、本家の大叔父・長谷川太郎兵衛正直(まさなお 76歳 現・槍奉行)が長く組頭をしてい、そのころ次席与力であった弥之助の父・弥太夫とは懇意であった。
そんな縁で見習与力として手弁当勤めだった弥之助ともときどき話しあっていた。
平蔵が告げると、高遠与力はうなずき、そばの同心を耳うちして去らせてから、手配の概要を組頭へ報告した。
さすがであった。
おそらく、建部禁裏附の一行が川崎宿で昼食を摂るころには、火盗改メがその前後に警戒の目をはりめぐらせており、〔磯部〕の駒吉たちはく袋のねずみ同然だったにちがいない。
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コメント
平蔵が動けば事件がついてくるとでもいった感じです。もっとも、そうでないとストーリーがすすまないでしょうが。ちゅうすけさんの御苦労、よくわかります。
このたびし道中師ときました。
投稿: 左兵衛佐 | 2011.12.21 08:54
禁裏付に発令された建部甚右衛門が2か月も出発をおくらせていたのには、なにか理由があったのでしょうか?
投稿: 三次郎 | 2011.12.21 09:16
>左兵衛佐 さん
『鬼平犯科帳』そのものが事件簿です。したがって、鬼平ファンの方は、事件解決の過程をこのブログにも期待されているのではないかとおもいます。もっとも、火盗改メ就任前の平蔵は盗賊を縛る職分はもちあわせていないので、知恵くらべにはなりますが。
むつかしい立場です。
投稿: ちゅうすけ | 2011.12.22 15:03
>三次郎 さん
遠国奉行の場合は1ヶ月ほどの準備期間があることはわかりましたが、2ヶ月近くというのは初めてです。やはり、朝廷の係りなので慎重な準備が必要なのかもしれません。
所司代の場合には、領地の一部を京都の近くに移すみたいですね。
投稿: ちゅうすけ | 2011.12.22 15:08