道中師・〔磯部〕の駒吉
建部大和(守広殷(ひろかず 58歳 1000石)の一行が品川の方へ発(た)つと、後を追うように〔磯部(いそべ)〕の駒吉(こまきち 40男)一味も去った。
それまで賑やいでいた大木戸あたりから人が四散し、ぽっかり穴があいたように静寂になった。
月魄(つきしろ)を楯にして身をひそめていた平蔵(へいぞう 40歳)は、松造(よしぞう 34歳)ともに店前の縁台に腰をおろし、〔磯部〕の駒吉の生まれや盗法にのあれこれを仕入れはじめた。
生まれは相模国高座郡(こうざこおり)磯部村(現・神奈川県相模原市磯部)、20歳になる前から道中師として腕をふるっていた。
旅籠に宿泊し、湯に浸(つか)っている客に相棒が話しかけて引きとめてるあいだに忍びこんで荷物から金めのものを盗み、外で待っている別の相棒へ渡したり、道中で親切めかして相客になり、酒をおごって眠らせておいて仕事をするとか、あらゆる悪知恵をつかっていたらしい。
「東海道はわが家の庭同様にこころえております、いえ、それほどに通暁しているってことでございます」
「すると、今日、仕事をするのは保土ヶ谷宿だな?」
平蔵は、駒吉の身になって手順を考えてみはじめた。
建部禁裏附が最初の泊する保土ヶ谷宿の本陣・苅部清兵衛の様子をおもいだしていた。
最も近い東海道の旅といえば、天明2年(1782)の嶋田宿の往還であったが、のぼりは事情があって藤沢宿泊まりであった。
【参照】2011年4月21日~[古川薬師堂 ] (1) (2)
2011年月23日[〔馬入(ばにゅう)〕の勘兵衛] (1)
帰路は、嶋田宿の本陣の若女将・お三津がいっしょだったために、保土ヶ谷宿では離れがある旅籠をお三津が選んでいた。
【参照】2011年5月21日[[化粧(けわい)読みうり]西駿河板]
その前は、記憶がさだかではないが、安永元年(1772)、京都西町奉行として赴任する亡父・宣雄(のぶお 享年55歳)に先行、京上りをしたときだが、脇本陣の〔藤屋〕四郎兵衛芳に泊まった。
出仕前の身分の銕三郎(てつさぶろう 27歳=当時)には、保土ヶ谷宿に一軒しかない本陣・〔苅部〕は敷居が高すぎた。
26年前、老中を退(ひ)いていた駿州・田中藩主の本多伯耆守正珍(まさよし 50歳=当時 4j万石)の使いで東海道を上ったときにはそれぞれの宿で本陣に泊まるように父が事前に送金してくれていた。
三島宿で本陣・〔樋口〕の隠し子で若後家になったばかりのお芙沙(ふさ 25歳)と縁ができた。
いや、その前、18歳のときに与詩(よし 6歳)を迎えに駿府(現・静岡市)まで往復したが、私用がらみの旅であったから脇本陣づたいのような旅であったな。
それに、三島宿から藤枝までは阿記(あき 22歳)づれであったし---。
(われの旅には、どういうわけか、おんながからむから奇妙だ。女躰の記憶のほうが鮮明でもある)
顔は見覚えはあるが、20年も前に見かけただけなので声をかける間もなく、急ぎ足でとおりすきた先手・弓の7組の同心3名につづき、荷車を引いた小者たちや、修験者や職人ふうに変装したとおもわれる一群も西へいそいでいた。
歩き方が、ふつうではなかった。
荷車の長持には、刺股(さすまた)などの捕り物武具が隠されているのであろう。
ほどなく、次席与力・高遠(たかとう)弥之助(やのすけ 43歳)が姿をあらわし、月魄に目をとめ、すぐに縁台の平蔵に気づき、寄ってきた。
「なにか、おこころにとまりましたか?」
さすがに勘ばたらきがいい。
「道中師の一味は、本陣・〔苅部〕から1丁とは離れていず、人目につきやすいところへ放火して騒ぎをおこすでしょう。
事前にひそかに問屋場の役人たちに通じておき、火消し組の出の手配をなさっておおきになるとよろしい。〔苅部〕には、あらかじめ引き込みがはいっていましょう。おんなかもしれません。ここ2ヶ月に新しく雇われた者を洗いだし、今夜の動きに注意なされい」
「2ヶ月におかぎりになった理由(わけ)は?」
「建部さまの発令がそのころだからです」
「そのあたりから狙いを---?」
「公卿衆への高価な贈り物と路銀が狙いと見ました。路銀は帳場に預けず、同行している内与力に持たせて脇本陣に宿泊させる手もあります」
平蔵の読みどおりに放火があり、〔磯部〕一味はほとんど逮捕された。
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コメント
>平蔵は、駒吉の身になって手順を考えてみはじめた。
ちゅうすけ鬼平のすごいところは、つねに相手の身になって考えるところです。
きっと、14歳のときにお芙沙と再会がかなわなくなって以来の思考の仕方になったのかもしれません。そうだとすると、功績者は太作かも。
そういえば太作、上総へ戻ってどうしているのかなあ。妙に印象深いキャラでした。
投稿: 文くばりの丈太 | 2011.12.22 04:53
>文くばりの丈太 さん
いつも、さりけげなくバックアップしていただき、恐縮です。
そう、太作のことは書いたつもりになっていました。
竹節人参の栽培に完全に目鼻がついたのは3年目、いまでは村の手すきの者もつかって栽培の手をひろげています。
もう70代の半ばすぎですが、自家製の竹節人参を毎日愛飲してい、なんと50近い後家さんを引きいれて達者に暮らしています。達者というのは、夜のほうも---という意味です。
こんどのことで、竹節人参はほとんど、多岐家へ納めることになったとか。人参座へ納めなければならないところを、田沼侯の特別のはからいがあったようです。
投稿: ちゅうすけ | 2011.12.23 11:40