天明5年(1785)12月の平蔵(4)
(井伊侯つながりで、つい、松代行きを承知してしまったが、真田侯が大藩・彦根(35万石)の井伊直幸(なおひで)侯とのご縁を介して白河侯(定信)と親しくなるということだと、4年前の与板行きの思い出も見なおしが迫られているのかもしれないな)
【参照】2011年3月4日~[与板への旅] (1) (2) (4) (5) (6) (7) 8 (9) ((10)) (11) (12) (13) (14) (15) (16) (17) (18) (19) (http://onihei.cocolog-nifty.com/edo/2012/02/post-5e5b.html) (http://onihei.cocolog-nifty.com/edo/2012/02/post-d3dd.html) (http://onihei.cocolog-nifty.com/edo/2012/02/post-3f05.html) (http://onihei.cocolog-nifty.com/edo/2012/02/post-3f05.html) (http://onihei.cocolog-nifty.com/edo/2012/02/post-be49.html)
(strong>平蔵(へいぞう 40歳)が「つながり」といっている井伊侯は、直属の上司で西丸の若年寄・井伊兵部大輔(たいゆう)直朗(なおあきら 39歳 越後・与板藩主 2万石)であった。
内室は老中・田沼主殿頭意次(おきつぐ 67歳 相良藩主 5万7000石)の四女。
四女の母は『寛政譜』に「某女」と記されているから、むろん正室ではなく、武家のむすめでもない。
召使いか町人のむすめであったろう。
もっとも、この「某女」に二男二女を授けているから、かなり長く愛妾の地位になっていたと推察できる。
その名もまだ調べていない。
井伊・与板藩主に嫁いだ意次の四女は、一男一女を産んだが、どちらも幼くして逝ったようだ。
一男一女を産ませたのち、直朗は四男三女をなしているが、いずれも側妻(そばめ)によっていた。
意次の四女がみまかったからかどうかは、まだ調べがついていない。
この稿も病棟の個室でしたためてい、身は禁足だし、資料も手元にないから墓所・徳雲寺(文京区小日向)に確かめることもできない。
旬日おき、平蔵は新橋・双葉町の本多正珍(まさよし 76歳 駿河・田中藩の元藩主 4万石)を訪(おとな)った。
正珍は37歳という若さで老中の座をえたほどの俊才であったが、ある事件にかかわり老中を罷免、隠居を余儀なくされてから30年近い歳月が流れいた。
きょう、こうして会ってみると、脂っけが消えた好々爺となっていた。
政治的な野心を放擲(ほうてき)しているように見えた。
忠珍が老中職を棒にふった事件とは、美濃・(郡上)八幡藩の百姓一揆の幕府方の処理に関することでの手抜かりであった。
【参照】2007年5月15日~[本多伯耆守正珍の蹉跌] (http://onihei.cocolog-nifty.com/edo/2007/05/post_5f09.html) (http://onihei.cocolog-nifty.com/edo/2007/05/post_1ba9.html) (http://onihei.cocolog-nifty.com/edo/2007/05/post_1ba9.html) (http://onihei.cocolog-nifty.com/edo/2007/05/post_7d69.html)
歯抜け声でなにごとかもらし、苦っぽく笑った。
先刻、ぬけぬけと、
「湯たんぽ代わりでな」
と譬えた侍女・於悠(ゆう 21歳)が補った。
「兵庫(ひょうご)奴(め)の見苦しい悪あがきようよ---と仰せでございます」
於悠は美形とはいえないが、そこにいるだけで健やかさを男に感じさせた。
兵庫は、美濃・(郡上)八幡藩の百姓一揆の扱いで、正珍とともに遠州・相良藩主(1万石)を改易された本多長門守忠央(ただなか 51歳=当時 宝暦8年 1758000石)の受爵前の(いみな)であった。
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