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2012.02.27

天明5年(1785)12月の平蔵(3)

「そういえば(へい)さん。松代へ出張ったそうだな」
さりげなく、浅井大学長貞(ながさだ 39歳 500石)が話題を転じた。

「そうだ。持参しているのを忘れていた。松代でできている杏(あんず)酒だ。土産のつもりだ。数がないので佐左(さざ)には内緒にしておいてくれ」
平蔵(へいぞう 40歳)が持参していた小徳利をわたしたが、大学は話題にこだわった。

佐左とは、もう一人の盟友・長野佐左衛門孝祖(たかのり 40歳 600俵)のことで、西丸の書院番の第3の組にいる。
きょうの話題にはふさわしくないと断じた平蔵がわざと声をかけなかった。

「用件は---?」
「城下を襲った盗賊のことであった」
「用は足りたのか---?」

「足りたからこそ、こうして戻ってきておる」
「ご当代に拝謁したか?}
{なにをいう。幸弘(ゆきひろ )はご在府年であろうが。お会いする道理がない」

「いや。出張る前とか帰府後のことだ」
「呼ばれていない」
「そうか。よかったかもしれないな」
「-------?」

大学によると、幸弘の名君ぶりに目をつけた松平越前守定信(さだのぶ 28歳 白河藩主 10万石)が、政情一新の一統へ招いているという。
「いや。年長だし、越中)どのから学ぶことは少なかろうと、態度を保留されているらしいが---」
「それに、松代藩はご譜代ではない」
「しかし、葵紋の大黒柱の井伊家からご養子をおむかえになった」

井伊掃部頭(かもんのかみ)直幸(なおひで 57歳 彦根藩主 35万石)の四男・順介(じゅんすけ 16歳)が松代藩の幸弘の養子に迎えられたのは先月(11月の14日であった。

真田幸弘には2女しかいず---ということは身もかなり節していたといえようか。
その長女が順介あらため幸専(ゆきたか)の内室に定められた。

平蔵は、松代の町奉行・薄田(すすきだ)彦十郎(ひこじゅうろう 52歳)が、緊張を巧みにほぐしたあとで、なに気なくの風情で、
長谷川うじは、ご執政(老中)の田沼主殿頭意次 おきつぐ 67歳 相良藩主)侯におちかづきがおありとか---」
訊いてきたことを思い出した。

参照】2012年2月11日[松代への旅] (23

そのあと、薄田町奉行の、
「ご譜代のお大名衆の中には面従腹背のお方もおありでしょうなあ」

それらは、松平定信のもとに集結しつつあるといわれている、

本多弾正少弼忠籌(ただかず 47歳 泉藩主 2万石)
本多肥後守忠可(ただよし 44歳 山崎藩主 1万石)
戸田采女正氏教(うじのり 32歳 大垣藩主 10万石)
松平(大河内)伊豆守信明(のぶあきら 26歳 吉田藩主 7万石)
加納備中守久周(ひさのり 33歳 八田藩主 1石3000石)
牧野備前守忠精(ただきよ 26歳 長岡藩主 7万4000石)

この人たちのことを暗にいったのではあるまいか。

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