天明5年(1785)12月の平蔵(5)
見苦しい悪あがきをしておる---と元宿老・本多伯耆守正珍(まさよし 76歳)に揶揄された本多兵庫頭注央(ただなか)は、4歳で遺領・三河國挙母藩(1万石)を継いだ。
寛保7年(1722)12月18日従五位下兵庫頭に叙任(15歳)。 寛保2年(1742)6月11日大番の頭(37歳)
寛延2年(1749)2月6日挙母をあらためて遠江國相良(さがら)に転ず(47歳)。
同年7月23日奏者番となり寺社の奉行をかねる。
同年8月23日長門守にあらためる。
宝暦8年(1758)3月28日西城の若年寄となり、
9月14日御旨ありて職を奪われ、出仕をとどめらる。
二十七日金森兵部頼錦(よりかね 51歳 郡上藩主 3万9000石 奏者番)が所領の農民等訟のことにより、御不審を蒙り、仮に内藤紀伊守信興(のぶおき 歳 棚倉藩主 5万石 )にあづけられ、十月二十五日忠央初めより訴訟の旨趣をきき、勘定奉行大橋近江某に談合せし事どもうちうちたづねらるるといえども、其ことなきよしを陳じ、或近江より御代官青木次郎九郎安清にたのみて其ことをはからはせしに至ることまで、忠央あづかりしりながら、農民等公訴にをよび、評議の席にをいて其ことを告ず、剰(あまつさえ)さきに再応たづねらるともつつみて言上せず、いまさら決断所にをいて糾問あるにおよび、はじめておもい出せしよしを申すの条、重職に似合ず曲事なりとて所領を没収し松平越後守長孝(ながたか 作州·津山藩主 5万石)にながくめしあづけらる。
明和五年正月十九日赦免をかうぶり戸にいたりて本多弾正大弼忠籌(ただかず 47歳 泉藩主 1万5000石)が許にうつる。(以上 『寛政譜』より)
この年――つまり天明5年(1785)だが、本多忠央は78歳になっていた。
strong>忠央が不誠実な言動をとったために本多一門は事件以後、要職から遠ざかっているという縁者もいないではなかった。
忠央にたいして忠籌がどうおもっていたかはわからないが、預かったのだから悪くはうけとめてはいなかったろう。
忠央とすれば、恨むべきは、そのような裁決をくだすように導いた田沼意次こそ指弾されるべきだとの思いであっろう。
(田沼憎しの急先鋒の松平定信侯が弾正大弼忠籌どのと親しくなっているのに乗じ、汚名をそそごうとの老いの一徹でもあったろう。
定信が主催する譜代大名衆のまりにはつとめて顔をだし、意次憎しをぶった。
【参照】2007年8月12日~[徳川将軍政治権力の研究] (1) (2)
2007年8月16日[田沼主殿頭意次(おきつぐ)の介入]
2007年8月17日~[徳川将軍政治権力の研究] (3) (4) (5) (6) (7) (8)
2007年8月24日[老中たち]
2007年8月17日~[徳川将軍政治権力の研究] (9) (10)
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