月輪尼の初瀬(はせ)への旅
「あと7日後、この月(天明5年(1785) 3月)の16日に、若君が王子のあたりへご遊行になる」
平蔵(へいぞう 40歳)が辰蔵(たつぞう 16歳)に告げた。
若君とは、将軍・家治(いえはる 46歳)の養子で、西丸の主(あるじ)の家斉(いえなり 13歳)である。
家斉が外出するとなると、西丸の徒(かち)の3の組頭の平蔵はとうぜん、道々の警備にあたらなければならない。
「われの組は、駒込から飛鳥山までの半里(2km)ほどの辻々に徒士を配備するようにいわれておるが、組子30人では手不足である。ご幼君がお通りすぎになった辻の組子は、裏道をかけてさらに先の辻へ走らねばならぬ。組頭のわれには月魄(つきしろ) が必須である」
したがって、月輪尼(がちりんに 24歳)の本山・長谷寺への出立(しゅったつ)は、17日以後になる。
「あの、月魄をお貸しくだされますので---?」
「あたりまえだ。われが家の子・津紀(つき 2歳)の産みの母ごを、初瀬まで歩かせるわけにはゆかぬ」
「かたじけのうございます」
「辰蔵。口とりはそなたじゃ」
「はい---」
「尼どの。お聴きとおりである。この7日があいだに、蓮華庵へはもう戻れぬとおもいきわめて、整理をなされよ。
もっとも、ここ、長谷川の家へお戻りになるのはおこころのままに--」
「きっと、うけたまわりました」
平蔵は、目で辰蔵に部屋へくるように示した。
「辰蔵。東海道は厳禁である。中山道をとれ。わかるな」
「はい」
嶋田宿を通ってはならぬということであった。
嶋田宿の本陣〔中尾(塩置)〕には、若女将・お三津(みつ 25歳)がいた。
もちろん、辰蔵はお三津と睦んだとはおもっていない。
お三津が手配したおんなと寝たとおもいこんでいた。
しかし、いずれにしても、月輪尼によけいなおもいをさせるなということであった。
「尼どのには、東海道は川渡りが多く、月魄の渡しが厄介と話しておけ」
拝辞して去ろうとすると、
「待て。尼どのを室として迎える気持ちはあるか?」
「お許しいただけるのですか?」
「旅のあいだに、尼どのの気持ちも訊いておけ」
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コメント
尼どのと辰蔵さんと月魄の長旅、期待しています。きついハネムーンにならなければいいのですが。
投稿: mine | 2011.11.02 05:56
>mine さん
ハネ・ムーン---かあ。そういわれてみると、センチメンタル・ジャーニイかも。
2人の初めてのた旅ですからね。
投稿: ちゅうすけ | 2011.11.03 13:41