月輪尼の初瀬(はせ)への旅(6)
「尼どの。もし、長谷川家の人になってもいいという決心がついたら、いつにても引きかえしてきなさるがよい。津紀(つき 2歳も喜ぼう」
平蔵(へいぞう 40歳)の言葉に、月輪尼(がちりんに 24歳)は声をつまらせて返事ができず、頭(こうべをたれつづけていた。
津紀は見送りの場へ出なかった。
平蔵の出仕時刻が出立の刻(とき)であった。
新大橋を渡りきるまで、辰蔵(たつぞう 16歳)も無言で父親にしたがったが、西詰で、
「では、父上。行って参じます」
「うむ。ずいぶん、気をつけて行け」
尼を乗せた月魄(つきしろ)がひと声いななき、別れ告げた。
平蔵がその首をなぜ、
「頼むぞ」
あっけないほどの別れであった。
【ちゅうすけ注】本郷通りへでてからの月輪尼と辰蔵組の行程は、
2011年11月01日[月輪尼の初瀬(はせ)への旅] (2)
戸田の渡しで、月魄のために舟を1艘、借り切った。
月魄にとっては初めての渡舟であったが、びくつきもしないで対岸を瞶(み)つめていた。
上り1丁半(160m)ほどの焼米坂の茶店でお茶にした。
午餐(ひる)は早めに板橋で摂っていたので、ころあいの中休みとなった。
(浦和宿手前の焼米坂 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ:)
月輪尼が焼米を掌からあたえると、月魄はうまそうに食(は)んだ。
あと、幸吉(こうきち 20歳)がくんできた井戸水にも、満足したようであった。
いい水はわかるのだ。
茶店をでると、若くて目つきの鋭いのが、
「長谷川さんで---?」
「そうだが---?」
身がまえると、手をふり、
「浦和の元締・〔白幡(しろはた)〕のとろで若者頭(わかいものがしら)をつとめておりやす万吉(まんきち 24歳)と申しやす」
江戸の〔音羽(おとわ)〕の元締から道中の安全をみるように回状がきたので、大宮宿まで少し離れて伴をすると告げた。
月輪尼が落ち着いて応じた。
「おおきに。〔音羽〕の元締はんに、あんじょう、お礼ゆうといて。〔白幡]の元締はんにもな」
万吉は、尼の美形をまぶしげに見上げ、赤らんだ
浦和宿で辰蔵が手控えをあらため、馬上の芳尼(ゆきあま)に、
「すぐ左手に長谷寺系の玉蔵院という名刹があるが---」
大きく首をふり、
「うちの汚名は、玉蔵院にもとどいとりまひょ。わざに、恥をさらすことはおへん」
,strong>万吉に聞こえないようにささやいた。
「5年前に落成した地蔵堂だけでも拝んでいかないか?」
「拝むだけなら---」
(浦和宿 宝蔵院山門)
宝蔵院・地蔵堂 安永9年(1780)に落慶)
大宮宿は江戸から7里4丁(29km)。
土手町の小じんまりした脇本陣〔畠(はた)屋」へ宿をとった。
陽まだ西の空にあった。
幸吉は月魄に新草を食(は)ませてくるといい、川辺へ連れていった。
万吉に小粒をにぎらせて労をねぎらってから、熊谷宿の元締の名を訊いておいた。
月輪尼は足首まである長股引(ももひ)きを脱ぎながら、
「お父ごが、ほんまの父上みたいにおもえてきよりました」
「うそもほんとうもない。父上は敬尼(ゆきあま)を、拙の嫁ごとおもっておる」
芳は、尼の俗界時代の名であった。
「もったいのうて、涙がわいてきよります」
「それゆえ、東海道の倍も泊まりの多い木曽路をわざわざ選び、一夜でも多くいっしょにすごせと---」
「うれしゅ、おす」
第一夜は2人にとり、短くおもえ、たっぷり甘かった。、
| 固定リンク
「006長谷川辰蔵 ・於敬(ゆき)」カテゴリの記事
- 月輪尼の初瀬(はせ)への旅(4)(2011.11.05)
- 月輪尼、改め、於敬(ゆき)(4)(2011.11.26)
- 月輪尼、改め、於敬(ゆき)(2)(2011.11.24)
- 月輪尼、改め、於敬(ゆき)(3)(2011.11.25)
- 養女のすすめ(7)(2007.10.20)
コメント
おおみや市浦和区の達と申します。宝蔵院は勤め先の近くです。お呼びかけなので、昼休みに問い合わせてみました。
開基は平安期とのことでした。
江戸開府では家康公の寄進を受けたそうですから、桂昌院以前です。
そうそう、長谷寺の移転先で豊山派。月輪尼とはつながりがありますね。
関東10檀林の1といわれていた名刹です。
投稿: 浦和の達 | 2011.11.11 05:23
>浦和の達 さん
ようこそ、そしてありがとうございます。
宝蔵院さんは平安時代の開基でしたか。長谷寺とどっこいどっこいなんですね。空海がかかわっているかもしれませんね。
長谷寺の移転寺ということなら、豊山派の雄です。月輪尼があいさつを避けたも当然です。
これからもご教示ください。
投稿: ちゅうすけ | 2011.11.11 06:16