月輪尼の初瀬(はせ)への旅(7)
脇本陣を発(た)つとき、女中たちが全員とおもえるほど顔をそろえて見送った。
若い武家と相部屋した美形の尼をしっかり覚えておき、語り草にするつもりらしく、strong>月輪尼(がちりんに 24歳)が法衣の裾をはひらめかせ、鞍にまたがるのを、好奇の目を輝かせて瞶(みつめ)ていた。
これから先、毎朝、このような見送りをうけるのかと、うんざりしなからも、月輪尼は世間の思惑に反抗する気持ちをよりi昂ぶらせた。
尼の心情を察した月魄(つきしろ)も.首をのばし、一声嘶いてから歩みはじめた。
大宮宿から上尾駅までは2里(8km)。
上町の遍照院(へんじょういん)の門前で月魄が脚をとめた。
月輪尼が首筋をやさしくたたき、
「月魄。ここは本山が違うとるの。うちのは長谷寺やけど、こちらは智積院(ちしゃくいん)はんや」
(上尾宿 遍照院山門)
「この道中には智積院派のお寺はんが多ゆうおすと聞いてます」
馬上から辰蔵(たつぞう 16歳)にいいきかすふりで、むしろ月魄の耳へとどけた。
(桶川宿曠野之景 英泉)
上尾宿から30丁(3km)の桶川宿の上の本宿で、街道右手の多聞寺の山門前では、月魄はどういう勘のはたらきからか、脚をとめなかった。
多聞寺は智積院に属していた。、
(竹本市 多聞寺山門)
(多聞寺本堂)
「うち、月魄に迷惑かけたみたい---」
聞きとがめた辰蔵が、
「----?」
「先刻、いいましたやろ、この道中には新義のお寺はんが信州あたりまでぎょうさん。その前を通るたんびに月魄に判断を強(し)いた.んかも---」
【ちゅうすけ注】『埼玉県史』は、文政年間(1812~29)調査を引き、足立郡内の総数638ヶ寺を宗派別に、
新義真言宗 377
天台宗 77
曹洞宗 56
浄土宗 44
日蓮宗 17
l臨済宗 11
古義真言宗 3
黄檗宗 2
浄土真宗 1
普化宗 1
本山修験 30
当山修験 16
羽黒修験 3
と記している。
五代将軍とその生母・桂昌院の意向の結果であろう。
第2夜の熊谷(くまがや)脇本陣〔小松屋〕の閨(ねや)で、辰蔵に抱かれた敬尼(ゆきあま)が思わずつぶやいてしまった。
「お父上は、仏道かて、時の権力者におもねっとると悟らせてくれはるために、中山道中をすすめはったんやなあ---」
睦みの床の中でまで、おんなが平蔵(へいぞう 40歳)のことをおもいうかべているので、辰蔵は、それが父であっても、嫉妬を感じ、その夜の行いはちょっと荒ぶったものになった。
尼もそれに応じていた。
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コメント
東海道とは別の幹線・中山道ぞいの江戸側に真義真言宗が栄えたのは、桂昌院の庇護と影響力も大きいとおもいます。それらの寺々へも建築時に護国寺のように幕府からの援助があったのでしょうか。
投稿: 左兵衛佐 | 2011.11.09 09:39
>左兵衛佐 さん
2,3日前のtomo さんへのレスにも書きましたが、このところ、別の調べものに追われていて、中仙道ぞいの新義真言宗の寺歴まで手がまわりませんでした。せめて、名のある寺院だけでも開基の年を『埼玉県史』「市史』あたりをあたってみたいとはおもっているのですが。
投稿: ちゅうすけ | 2011.11.09 12:18