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2007.10.21

養女のすすめ(8)

いやあ、赤面、平身低頭、叩頭陳謝---とはいえ、疑問、ほぼ、半氷解(?)。

この20年間、銕三郎(てつさぶろう)の妹として養女にきた多可(たか)---その父親の三木忠大夫忠任(ただとう)を、『寛政譜』の記載を信じて、松平大学頭の家臣・高崎藩士としてきた。多可が高崎からとった仮の名であるのはいうまでもないこと。

ところが、2007年10月20日[養女のすすめ(7)]に、永井三郎右衛門安静(やすちか 西丸・小姓番 廩米400俵)の譜を掲げた。そこに、
 
 妻は松平大学頭家臣三木久大夫忠位(ただたか?)が女

と明記されていた。
一方、長谷川平蔵宣雄(のぶお 400石 小十人頭---1000石格)が養女にした件は、

 松平大学従三木忠大夫忠任が女

始めは、『寛政譜』の編纂陣が、「忠任」を「忠位」と誤記したのかと考えた。理由は成人名に「位(たか)」を使っている幕臣は皆無に近く、「任」と「位」は、くずすと似てくると思ったからである。

しかし、「忠大夫」を「久大夫」と誤記するだろうか。

それで、これは親子かなにかとふんで、三郎右衛門安静の譜を再読した。

 享保20年(1735)12月22日家督。18歳。
 延享4年1月18日卒。30歳。

3ヶ月後に家を継いだ継嗣・亀太郎安清(やすきよ)は、その時、15歳。
つまり、亀太郎は、三郎右衛門安静が15歳のときの子ということになる。若くして嫁を迎えたのは、実兄が23歳で逝ったからである。

亀太郎の誕生は、享保18年(1733)。銕三郎より15歳年長。
そう分かってみると、「久大夫」と「忠大夫」は親子か兄弟、あるいは従兄弟とも思える。
そして、どちらも松平大学の家臣---ということで、永井26家を再見してみる必要があるように思えた。

やってみた。

と、永井本家3代目・信濃守尚政(なおまさ)が3男・大学尚庸(なおつね)に2万石(河内国4郡のうち)を割譲され、のちに大名(下野烏山藩)になっているではないか(のち、1万石加増)。
この永井家は、さらに、播磨国赤穂藩(3万3000石 浅野家のあと)、信州・飯山藩(同)と移封をつづけて、濃州・加納藩で明治を迎えている。

いや、そのことよりも、大学を幼名にした藩主が信濃守尚庸のほかにも2人---うち、7代目・大学尚旧(なおひさ)が年代的にもっとも可能性が高い。
もちろん、その場合、「松平姓」は解決しない。

しかし、三木家は、播州・赤穂あたりで家臣に加わったということもありうる。そうだ、いつか、浅野家三木姓の遺臣をあたってみよう。

ということで、加納藩の重役で三木姓を、例の『三百藩家臣人名事典』 (新人物往来社 1988)で調べたが、やはり見あたらなかった。
しかし、加納藩はいま、岐阜市に編入されている。教育委員会なり郷土史家の教えを乞うてみよう。

_360_2
(青○の3人の藩主が幼名=大学)

_360_3
(年代的に最も可能性が高い7代目藩主・尚旧)


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コメント

ウィキペディアで見ただけですが、永井直旧の正室は上総大多喜藩主松平正升(大河内松平の本家)の娘お国です。松平家と姻戚の譜代大名は松平姓を名乗ることが許された例もあるそうですから、直旧の松平姓はそれではないでしょうか。

投稿: えむ | 2007.10.21 19:13

>エムさん
ご教示、ありがとうございます。
尚旧は2歳で家督しています。
寛政2年(1790)に23歳で逝っています。
お国さんは、はやばやと未亡におなりになったわけです。
『寛政譜』の「先祖書」提出締め切りは寛政10年か11年。
完成には20年近くかかっています。
また、多可が養女に行ったのは宝暦9年前後(推定)、そこまで遡って松平姓をつけてもいいのでしょうか。
今後の研究課題の一つですね。

投稿: ちゅうすけ | 2007.10.22 16:14

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